アタシの友人に、不治の障害がある子供を持った牧師がいた。
彼は息子の癒しを、毎日懸命に祈っていた。
するとある日、「あなたの息子は癒される」という神の声を聞いた。
彼はその日から、対外的に「自分の息子は癒された」という態度を取った。
未だ外的な変化は何もないのにも関らず、「大丈夫!息子はもう癒されますから」とか言い出したものだから、教会の人たちは「遂にウチの牧師はおかしくなった」と思ったそうである。
当時、彼には月4万円の障害者保険がおりていた。実際に病院にかかっていた費用は月5千円ほどだったので、月まるまる3万5千円のプラス。
この予定外のお金(違法ではない)は、経済的に貧しい牧師家庭にはとてもありがたいものだった。
さて、その保険の更新日が来たので、彼は市役所に行った。
勿論、その時点で息子の容態には何の変化もなかった。
ところが、医師の診断書を窓口に提出しようとした時、神の声がこう聞こえて来た。
「わたしはあなたに癒すと言ったではないか」
「え”!? そりゃそう信じていますけど、未だ何も症状は変わってないですし…」
「わたしはあなたの息子を癒す。あなたはそれを信じるか?」
「信じます! 信じます..けど…」
「えぇ””~~~」
この世で生きているアタシたちにとって、お金は己の本音が最も出やすい部分である。
自分に信仰があるとかないとか、この辺りのことはそう難しく考える必要はない。
クリスチャンでありながら、什一献金が出来ない人は、その分信仰がないのである。
とは言え、もしアタシが彼の立場に立たされたら、どういう態度を取るか、はなはだ疑問だ。
彼は結局、悩みに悩み抜いた末、保険の更新をするのをやめた。
月4万円より、信仰を取ったのである。
その悩みはあくまで月4万円の悩みである。
生きるとか、死ぬとかの話ではない。
しかし、アタシには彼の気持ちが痛いほど良く分かる。
そしてその時、信仰的対応を取った彼をアタシはかなり尊敬している。
クリスチャンが取るべき信仰的対応とは、そういうことである。
それから間もなく、彼の息子が癒されたことは言うまでもない。
あなた方の富のあるあるところに、あなた方の心もあるのだ。(ルカ12:34)
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彼は息子の癒しを、毎日懸命に祈っていた。
するとある日、「あなたの息子は癒される」という神の声を聞いた。
彼はその日から、対外的に「自分の息子は癒された」という態度を取った。
未だ外的な変化は何もないのにも関らず、「大丈夫!息子はもう癒されますから」とか言い出したものだから、教会の人たちは「遂にウチの牧師はおかしくなった」と思ったそうである。
当時、彼には月4万円の障害者保険がおりていた。実際に病院にかかっていた費用は月5千円ほどだったので、月まるまる3万5千円のプラス。
この予定外のお金(違法ではない)は、経済的に貧しい牧師家庭にはとてもありがたいものだった。
さて、その保険の更新日が来たので、彼は市役所に行った。
勿論、その時点で息子の容態には何の変化もなかった。
ところが、医師の診断書を窓口に提出しようとした時、神の声がこう聞こえて来た。
「わたしはあなたに癒すと言ったではないか」
「え”!? そりゃそう信じていますけど、未だ何も症状は変わってないですし…」
「わたしはあなたの息子を癒す。あなたはそれを信じるか?」
「信じます! 信じます..けど…」
「えぇ””~~~」
この世で生きているアタシたちにとって、お金は己の本音が最も出やすい部分である。
自分に信仰があるとかないとか、この辺りのことはそう難しく考える必要はない。
クリスチャンでありながら、什一献金が出来ない人は、その分信仰がないのである。
とは言え、もしアタシが彼の立場に立たされたら、どういう態度を取るか、はなはだ疑問だ。
彼は結局、悩みに悩み抜いた末、保険の更新をするのをやめた。
月4万円より、信仰を取ったのである。
その悩みはあくまで月4万円の悩みである。
生きるとか、死ぬとかの話ではない。
しかし、アタシには彼の気持ちが痛いほど良く分かる。
そしてその時、信仰的対応を取った彼をアタシはかなり尊敬している。
クリスチャンが取るべき信仰的対応とは、そういうことである。
それから間もなく、彼の息子が癒されたことは言うまでもない。
あなた方の富のあるあるところに、あなた方の心もあるのだ。(ルカ12:34)
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