リーディングドラマ「その後のふたり」4/9(火) 天王洲・銀河劇場 1階F列センター下手寄り
【作・演出】辻 仁成
【音楽】Arico
【ステージング・ディレクション】広崎うらん
【出演】中川晃教 / 朝海ひかる / 鈴木陽平・所夏海(ダンサー)
(ラストシーンの台詞について言及しています。未見の方はご注意ください)
舞台には2客の椅子。
その後ろに墨絵のような模様の紗幕がゆれる。
そのまた奥には、上手の男性側には階段のセットが、下手の女性側にはベンチが見えるけれど、
左右と舞台上から黒い壁が全体を覆い隠し、とても狭い世界。
さらに舞台奥深いところにあるグランドピアノの音から始まった。
登場した演者は、ふたりとも白を基調としたゆったり目の衣装。
紗幕の後ろに、男女ひとりずつダンサーが佇んでいて、やがて動き出す。
読み手が紡ぐ言葉に反応しながら、最初は極めてゆっくりと、途中から会話のスピードに呼応するかのように激しく。
少し前に、この作品の映画版を観た(そのときの感想は→ ここ)。
映画版は、純哉と七海が別れてから、それぞれが暮らす東京とパリの日常が描かれていた。
パリで純哉が出会うシャンタルという女性写真家、七海がダンスを習う前衛舞踏家、不倫の関係を持つ安藤さん。
先に映画を見たのがよかったのか悪かったのか、
読み上げられる文章の中に出てくる人物が、具体的なイメージを持って頭に浮かぶ。
しかし映画はその風景を切り取っているだけで、
純哉と七海が「踏み込んではならない領域に踏み込んでいる」ことについては何も語られていない。
つまり映画版のラストシーン、帰国した純哉が七海の部屋を久しぶりに尋ねるところから
この会話がはじまったということになるのだけど、
「びっくり」とかの衝撃を通り越して、「そんなんありか!」というちょっと呆れ気味な感じ。
もっと演劇的に言えば、この作品はテキストが非常に膨大。
言葉だけで描かれる描写を頭の中で再現するのに少し疲れてくる。
今まで見てきた朗読劇だと、例えば『私の頭の中の消しゴム』は映像が理解を大きく助けているし、
『LOVE LETTERS』は手紙の内容がコンパクトだったからなのか、もう少し集中できたと思うんだけど。
今回は途中で意識が混濁してくることがあった。
この日は別舞台のマチネ観劇→トークショー参加→天王洲へ慌ただしく移動、という
目まぐるしいスケジュールだったせいなのかも。
そして会話は時間をさかのぼる。
周囲の壁は少しずつ動き、二人を包む空間は少しずつ広がっていく。
そこまではお互いに別の相手と関係を持ったことを揶揄しあう二人が
初めて「踏み込んではならない領域」に飛び込んだときの記憶をたどる。
ピアノは怒涛のごとく音を迸らせ、ふたりのダンサーは激しくからだを絡ませ、
ふたりの演者も語調を強めていく。
回りの壁がすべて取り払われ、舞台裏のホリゾントまでむき出しになった瞬間に交わされた言葉。
「ぼくは七海を愛した」「わたしも純哉を愛した」
この場面は素晴らしかった。エクスタシーですね。
この作品はImprovisation(即興)を取り入れて…との説明を事前に聞いていたけれど、
ダンサーは別として(きちんとした振付は明らかに見えなかった)、
読まれる文章にも即興があったかどうかはわからない。
実は今、手元に原作本があって(お友達から借りました。ありがとう)ぱらぱらと読み進めているけど、
覚えている限りはそのまま読んでいたような気がする。
あっきーは、最初は本読みのような雰囲気で、朝海さんにリードされているように見えた。
しかし途中から立ち上がったり椅子に乗ったりして、読む速度もスピードアップしていく。
ラストシーンに、二人はこんなテーマで意見を交わす。
「この作品はどうやって幕を閉じることになるのか?」
純哉と七海の物語は、さらに「それをドキュメンタリーとして映像に残す」という目的を持つことで
二重構造になっているから、映像作家として、恋人として、彼らはあくまで自分を主張する。
七海は「わたしたちはカメラの前でキスをし、それにエンドロールを重ねよう」と提案するが、
純哉は「カメラのスイッチを消したらキスをしてもいい、自分を売り物にはしない」と撥ねつける。
そして。
ふたりは実際に長いキスを交わした。
演出の辻さんによると、「これは演出にはない予定外だった」らしいけれど、
私にはそのほうが意外だった。
ラストの台詞から考えたら、誰だってこれは演出の一部だと思うだろう。
実際そのときに見たキスは、それはそれは美しいキスだった。
自分よりも少し上背がある朝海さんに、あっきーはとても自然に顔を近づけて
見ている私が蕩けてしまうような、かといってエロの要素は全くなく、
綺麗な綺麗なキスだった。
予定外だったとすれば、
あれは、中川晃教が朝海ひかるに対して「お疲れ様」という意味のキスだったのか。
あるいは、あっきーが役の上での「七海」を愛おしく思った故でのキスだったのか。
後日、辻さんが自分のブログでこう書いていた。
「俳優が勝手にやってしまったことだけれど、自分がけしかけたものかもしれない」と。
観ている私たちには、これが正解だったかどうだかはわからない。
予定調和に収まることの美しさ、予定調和を乱すことの美しさ、
舞台の上で、どちらかを瞬時に選ぶことが「Improvisation」なのか。
カテコの挨拶のときに見せたふたりの清々しい笑顔を見れば、これで正解だったのかもしれない。
そういえば。
銀河劇場名物の作品にちなんだカクテルは、「純哉」という名前でした。
日替わり出演者に合わせて、カクテルを考えているのかな。
「生き返った」というキーワードに相応しい、さわやかなお味でした。
【作・演出】辻 仁成
【音楽】Arico
【ステージング・ディレクション】広崎うらん
【出演】中川晃教 / 朝海ひかる / 鈴木陽平・所夏海(ダンサー)
(ラストシーンの台詞について言及しています。未見の方はご注意ください)
舞台には2客の椅子。
その後ろに墨絵のような模様の紗幕がゆれる。
そのまた奥には、上手の男性側には階段のセットが、下手の女性側にはベンチが見えるけれど、
左右と舞台上から黒い壁が全体を覆い隠し、とても狭い世界。
さらに舞台奥深いところにあるグランドピアノの音から始まった。
登場した演者は、ふたりとも白を基調としたゆったり目の衣装。
紗幕の後ろに、男女ひとりずつダンサーが佇んでいて、やがて動き出す。
読み手が紡ぐ言葉に反応しながら、最初は極めてゆっくりと、途中から会話のスピードに呼応するかのように激しく。
少し前に、この作品の映画版を観た(そのときの感想は→ ここ)。
映画版は、純哉と七海が別れてから、それぞれが暮らす東京とパリの日常が描かれていた。
パリで純哉が出会うシャンタルという女性写真家、七海がダンスを習う前衛舞踏家、不倫の関係を持つ安藤さん。
先に映画を見たのがよかったのか悪かったのか、
読み上げられる文章の中に出てくる人物が、具体的なイメージを持って頭に浮かぶ。
しかし映画はその風景を切り取っているだけで、
純哉と七海が「踏み込んではならない領域に踏み込んでいる」ことについては何も語られていない。
つまり映画版のラストシーン、帰国した純哉が七海の部屋を久しぶりに尋ねるところから
この会話がはじまったということになるのだけど、
「びっくり」とかの衝撃を通り越して、「そんなんありか!」というちょっと呆れ気味な感じ。
もっと演劇的に言えば、この作品はテキストが非常に膨大。
言葉だけで描かれる描写を頭の中で再現するのに少し疲れてくる。
今まで見てきた朗読劇だと、例えば『私の頭の中の消しゴム』は映像が理解を大きく助けているし、
『LOVE LETTERS』は手紙の内容がコンパクトだったからなのか、もう少し集中できたと思うんだけど。
今回は途中で意識が混濁してくることがあった。
この日は別舞台のマチネ観劇→トークショー参加→天王洲へ慌ただしく移動、という
目まぐるしいスケジュールだったせいなのかも。
そして会話は時間をさかのぼる。
周囲の壁は少しずつ動き、二人を包む空間は少しずつ広がっていく。
そこまではお互いに別の相手と関係を持ったことを揶揄しあう二人が
初めて「踏み込んではならない領域」に飛び込んだときの記憶をたどる。
ピアノは怒涛のごとく音を迸らせ、ふたりのダンサーは激しくからだを絡ませ、
ふたりの演者も語調を強めていく。
回りの壁がすべて取り払われ、舞台裏のホリゾントまでむき出しになった瞬間に交わされた言葉。
「ぼくは七海を愛した」「わたしも純哉を愛した」
この場面は素晴らしかった。エクスタシーですね。
この作品はImprovisation(即興)を取り入れて…との説明を事前に聞いていたけれど、
ダンサーは別として(きちんとした振付は明らかに見えなかった)、
読まれる文章にも即興があったかどうかはわからない。
実は今、手元に原作本があって(お友達から借りました。ありがとう)ぱらぱらと読み進めているけど、
覚えている限りはそのまま読んでいたような気がする。
あっきーは、最初は本読みのような雰囲気で、朝海さんにリードされているように見えた。
しかし途中から立ち上がったり椅子に乗ったりして、読む速度もスピードアップしていく。
ラストシーンに、二人はこんなテーマで意見を交わす。
「この作品はどうやって幕を閉じることになるのか?」
純哉と七海の物語は、さらに「それをドキュメンタリーとして映像に残す」という目的を持つことで
二重構造になっているから、映像作家として、恋人として、彼らはあくまで自分を主張する。
七海は「わたしたちはカメラの前でキスをし、それにエンドロールを重ねよう」と提案するが、
純哉は「カメラのスイッチを消したらキスをしてもいい、自分を売り物にはしない」と撥ねつける。
そして。
ふたりは実際に長いキスを交わした。
演出の辻さんによると、「これは演出にはない予定外だった」らしいけれど、
私にはそのほうが意外だった。
ラストの台詞から考えたら、誰だってこれは演出の一部だと思うだろう。
実際そのときに見たキスは、それはそれは美しいキスだった。
自分よりも少し上背がある朝海さんに、あっきーはとても自然に顔を近づけて
見ている私が蕩けてしまうような、かといってエロの要素は全くなく、
綺麗な綺麗なキスだった。
予定外だったとすれば、
あれは、中川晃教が朝海ひかるに対して「お疲れ様」という意味のキスだったのか。
あるいは、あっきーが役の上での「七海」を愛おしく思った故でのキスだったのか。
後日、辻さんが自分のブログでこう書いていた。
「俳優が勝手にやってしまったことだけれど、自分がけしかけたものかもしれない」と。
観ている私たちには、これが正解だったかどうだかはわからない。
予定調和に収まることの美しさ、予定調和を乱すことの美しさ、
舞台の上で、どちらかを瞬時に選ぶことが「Improvisation」なのか。
カテコの挨拶のときに見せたふたりの清々しい笑顔を見れば、これで正解だったのかもしれない。
そういえば。
銀河劇場名物の作品にちなんだカクテルは、「純哉」という名前でした。
日替わり出演者に合わせて、カクテルを考えているのかな。
「生き返った」というキーワードに相応しい、さわやかなお味でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます