イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

あれから失ったものと得たもの

2008年01月14日 14時50分26秒 | Weblog
寒空にマラソン申し込めば身引き締まり

(解説)3月16日に行われる荒川市民マラソンの申し込みをした。去年はいろいろとバタバタしていたので出場しなかったけど、一昨年とその前の年に続いて、3回目の挑戦だ。初マラソンとなった2005年の大会は、なんとか4時間前半台でゴールした。35km地点くらいまでは本気でサブフォー(4時間以内)いけるんじゃないかと思っていた。ところが、35km地点くらいの給水所でシャーベットを食べたあたりから突然まったく足が動かなくなってしまった。35km過ぎたら魔物が棲んでいる、というのはコレかと思った。まじめに足が折れたんじゃないかと思った。残りは必死に走ったのだけど、というか走っているつもりだったのだけど、沿道をゆっくり歩いている人よりも遅かった。ホンダが開発した二足歩行ロボットASHIMOと同じ動き、速度だった。

翌2006年は、完全な準備不足だった。25km地点で足が折れてしまった。いや、実際には折れていなかったのだが、本当に折れたんじゃないかというほど痛くなってしまった。雨が降って、寒くて、体が凍った。芯から冷えた。今でもまだ寒いくらい冷えた。限界だった。もう一歩も進めなった。他のloserたちと一緒に、沿道のテントに収容された。寒くて痛くて暗くてみじめだった。そこにいる人たちはみな打ちひしがれ、誰も口を開こうとはしなかった。心が折れるとはこういうことを言うのだと思った。

昨日も今日も、とても寒い。寒いのは苦手だ。僕は暑さにならかなりのところまで耐えられる。ランニングは、炎天下でこそやるものだと思っている。でも、残念ながら8月に大会はない。おそらく、そんなことしたら死人がでるからだ。だから、しかたなく寒い季節に大会を走る。ああ、3月の荒川も今日と同じくらい寒いのだろうか。あの寒さと痛さを想像すると、ちょっと怖い。またテントに収容されてしまうのだろうか。でもここで逃げたら男がすたる。俺は逃げない。マラソンは何よりも準備が大切だ。12月あたりからはほぼ毎日走っているし、徐々に調子も上がってきている。完走を、いや自己ベストを目指してがんばろうじゃないか。大会に申し込んでしまった今、残された道は一つしかない。ゴールを目指して走ることだ。さあ、足が折れるのが先か心が折れるのが先か――、ってヲイヲイどっちが折れても困るんだっつーの。

NNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNN

おもむろに、村上春樹『ノルウェイの森』を読了。かれこれ20年近く前、この小説が流行っていたときに一度読んで、それから友達に貸したらそのまま返してくれなかったので、それっきり再読しないまま今日にいたっていた。読んだときの印象がまったく薄くなっていたので、いつか読み直したいと漠然と思っていたのだ。ちなみに、この小説には京都の京阪三条(とおもわれる)のバスターミナルが出てくる。主人公のワタナベが施設にいる直子に会うためにここからバスに乗るのだ。京阪三条のターミナルのすぐ近くの河原町三条といえば、僕は10年くらいそこを拠点に活動していた。だから、この小説のタイトルを目にすると、あのバスターミナルを思い出す。東京から遊びに来た友達と、わざとそこからバスに乗って大原の方にいったこともある。その人も、この小説のことが好きだといった。とにかく、ずいぶんとあれから月日が経ってしまったので、ストーリーだとかディティールだとか、そういうものはまったく忘れていた。

で、読んでみてちょっと驚いた。もっとロマンチックで、ナイーブな小説かと思っていたら、思っていたよりドライで露骨だった。そして……、ぶっちゃけた話、つまり、あんまりよい小説だと思わなかったのだ。正直、この小説がなぜあそこまでの大ヒットになったのかよくわからない。プロットを作らずに小説を書く事自体はけっして否定しないけれども、物語は場つなぎ的に気まぐれに展開していくだけで、ある意味破綻しているといってもいい。主人公は、何人かの登場人物のところをぐるぐると回っているだけ。そしてその登場人物たちにも、彼らの会話の内容にも共感できない。物語の設定や、登場人物たちの死にもリアリティーがない。だけれども、未だにこの小説が読み続けられているというのは――コマーシャル的にヒットする要因がいろいろとあったのだろうけれども――、なんらかの理由があるのだろうし(露骨な性表現も理由の一つなのだろうか)、やはり作者には人に文章を読ませる力があるということは否定できないのかもしれない。多くの村上作品にとってはある意味お決まりになっている主人公の世の中に対するデタッチメント、乖離加減、主人公の前に都合よく現れる都合のよい女性たち、というのは、案外20年前当時には斬新な感覚を読者に与えたのかもしれない。ともかく、あれだけのヒットになったということは、普段小説を読まない層にも読まれていたはずで、今だったら、ケータイ小説に流れているような層も、当時だったらノルウェイの森を読んだのだろう、という気もする。

というわけで、アンチ春樹の言い分がなんとなくわかったような気がしてしまったのだけど、それでもやっぱりハルキストの自分としては『羊を巡る冒険』や『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』なんかは大好きな小説だし、短編にも面白い作品がたくさんあると思っている。ちなみに、僕が一番好きな春樹さんの本は、『中国行きのスローボード』だ。エッセイストとしての彼のことも、翻訳者としての彼のことも、とても好きだし尊敬している。もっとも、後期の長編小説についてはあまりよい印象を持ってはいないのだけれど。

おそらく、初めてあの小説を読んだのは二十歳くらいのときだったはずだから、それからかれこれ17年近くの歳月が流れたわけだ。当然、当時この小説を読んでいた自分と、今の自分というのは大きく異なっている。その違いが、同じ本を読むことで浮き彫りになってくる。読み進めるうちに、徐々に当時にタイムスリップして、いろんなことを思い出した。失った若さのことを考えると少し寂しいが、それと引き換えに得たものが何であったのかも教えてくれる。そんな気がしたのだった。

テースト・オブ・切り身

2008年01月13日 18時37分45秒 | 翻訳について
空腹でヨーカドーうろつけば脂肪遊戯

(解説)武蔵境の南口には、かなり大型のイトーヨーカドーがある。五階建てのビルが、二つ居並んでいるのだ。今日、久しぶりにそこへ行ってみた。たまにしか来ないのだが、ここにくると、とりあえず一階から順番にぐるぐる回りながら五階まで登って行くことにしている。ブルース・リーの遺作となった『死亡遊戯』と同じだ。階ごとに待ち構えている難敵を一人ずつ倒しながら、敵の大将が待つ五階へと、五重塔を登っていくのだ。衣服売り場、家電売り場、書店、などなど。だから、理想的にはここに来るときは黄色いつなぎのジャージを着ていたい。というのは冗談なのだが、ぼくは大型書店でもデパートでも、この死亡遊戯方式でぐるぐる上まで上がっていくというパターンがわりと好きである。もともと買い物にはあまり興味がないし、今日も何を買いに行ったわけでもないのだが、たまにこういうところに来ると、社会見学的な気分でいろいろと見てしまう。で、買い物の最後には、地下の食品売り場にいくのだが、こういうところは、ご存知の通り、空腹で入ってしまうと大変なことになる。ものすごく美味しそうなものがたくさん売っているし、周囲もやけにテンションを上げて買い物に熱中しているので、ついついあれもこれもと買いすぎてしまう。ちょっと正月太りをしてしまった僕なので、暴飲暴食はさけたい。しかし、抗えない。僕にとって、最大の敵は、頂上の五階に鎮座していたのではなかった。脂肪という名の刺客が、地下に巣食っていたのである。

SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS

「今の子供のなかには、魚といっても、スーパーで売っている切り身の魚しか知らないから、切り身が海を泳いでいると思っていることが多いんだって」と、嘆く大人の話をたまに耳にする。その台詞の裏には、どんどんと自然から乖離していく、子供を取り巻く現代の環境、あるいは子供そのものへの批判的なまなざしが感じられる。本当にそんな子供がたくさんいるのかどうかは知らない。でも、もしそうだとしても、責められるべきは子供ではなくて、嘆かわしさを口にしている大人の方だと思う。子供は見たものを素直に表現しているだけだ。スーパーの切り身でしか魚を感じることができない、そんな世の中を作ったのは、紛れもなく大人の方だからだ。

翻訳者にも同じような現状がある。つまり、翻訳対象として渡される原文が、全体のなかのごく一部、まさに切り身的なものとして手元に巡ってくることが多いからだ。一冊のマニュアルを複数名分に分割して訳すときもあるし、依頼元から、翻訳が必要な文書の一部だけが送られてくることもしょっちゅうだ。マーキングされて、虫食いみたいになった文章を頼まれることも多い。だから、訳している本人は、実際には魚がどういう形をしているのかわからない。やはり、魚は一匹丸ごと食べたほうが美味しいし健康にもよい。だから、できればドキュメント丸ごとを翻訳対象としたいものである。自分がなにをやっているのかを把握しながら作業できた方が、精神衛生上にもよい。もちろん、こちらは頼まれる側であり、頼む側の要求が切り身であればそれに応えなければならない。頼む側だって、予算が無限にあるわけじゃなし、本当に必要なところだけ訳してくれればいい、と思っているのだから、それは仕方がない。ただし、頼む側も頼まれる側も、切り身にしてしまったことで、その弊害が出てしまうことの危険性だけは把握しておきたいものだ。頼む側は、果たしてこれで訳すほうは文書全体のことを把握できるか、と考えるべきだし、訳している側は、訳している対象が全体のパズルのどのピースなのか、絵全体には何が描かれているのかを把握しなければならない。

しかし、たとえ文章丸ごとを依頼されたとしても、その分野の類似文書や関連文書に日ごろから慣れ親しんでいなければ、それもある意味単なる切り身であることにはかわらない。この魚が、どこで取れたものであるとか、どういう風に調理すれば美味しくなるのかとか、そういうことを知らなければ、うまく料理することはできないのだ。

文学部唯野学部卒④ 傍らにいてくれるもの

2008年01月12日 22時34分12秒 | 連載企画
意表つく辞書の定義に吐息漏れ

(解説)辞書を引くといろんな発見がある。英文を読む。まったくの見ず知らずの語に出くわす。辞書を繰る。意味が載っている。おそらく英語を母国語とする人なら、誰でも知っているような言葉に違いない。だって、この英語に匹敵する日本語を知らないことなど日本で生まれ育ったひとならありえないでしょ、というような語なのだ。Oh my god. なんてこった。ぼくは、こんな基本的な語も知らない。ああ、なんでぼくはこれまでこの語に出会わなかったのだろう、なんでこの語にもっと早く出会わなかったのだろう。この期におよんで、こんな簡単な語も知らなかったなんて恥ずかしい。こんなぼくをどうか許してほしい。いや、許してください。ああ、神様。こんなぼくを、どうかお許しください。神様~。と、おもわず天に向かって懺悔をしたくなるときがある(ご清聴、ありがとうございました)。

でも一番ドキッとするのは、すでに知っているつもりだったり、文脈から考えて、おそらくこういう意味だろう、と高を括っている語に対して、念のためまあ確認しておくか、と思ってなにげなく辞書を引いたときに、自分が想像していなかったような意表をつく定義が載っていたときである。体がかすかにぴくっとする。おもわず「あっ」とちいさく吐息がもれる。危ない危ない。誤訳するところだった。でも、冷や汗と同時に、ほう、なるほどね、という小さな驚きも感じている。こりゃあ、めっけもんだ。横着せんとちゃんと辞書引いといてよかったわ。で、それがちょっとした快感なのである。そしてこの「あっ」があるかもしれないという予感が、また今日もぼくを辞書に向かわせるのである。ああ、神様~~~。

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

文学部出身であること(あるいは文学的なものが好きであることと)と、世の中をどう渡っていけばよいかということに、どう折り合いをつけていけばよいのか。それは全国に300万人(まったくの推測)いる文学部出身者ひとりひとりが抱えている問題だと思うから、ぼくには何もいうことはできない。卒業してからは文学的なものと一切の決別をして生きているひともいるだろうし、文学的なものを人生の楽しみにして生きているひとも、もちろんたくさんいるだろう。あるいは、文学部的な活動そのものを生活の一部にしている人もいるだろう(直接的であれ、間接的であれ)。でも願わくば、文学的なものがその人たちの生活のなかで、わずかでもいい、役に立っていたり、彩を添えてくれていたり、心の支えになってくれていたりしてくれればいい、と思わずにはいられない。文学的なものは、ほとんどの人にとって、病をすぐに治してくれる薬ではないし、生活を支えてくれる飯の種でもない。でも、文学的なものや、それを好きであることは、きっとどこかにその存在意義があるはずだと信じたいのである。せめて、処世という文脈において役に立たなくてもいいけど(役に立てばもっといい)人生という文脈においてはスパイスとしての役割を果たしてほしい。わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい、と思うのだ。

ぼくのやっている翻訳関連の仕事は、かならずしも世間的には文学的、とは呼べないものだ。マーケティング資料やら法律文書やらマニュアルやらの実務翻訳の世界は、企業文化という世界のお堅い文章が対象になっているわけで、ある意味文学とは対極に位置するものではある。でも、種類は違っても、扱っているのは「言葉」なのだ。たとえるならば、実務翻訳と文学の世界は肉食動物と草食動物ほどの違いがあるかもしれない。でも、同じ哺乳類であることに変わりはない。言葉を扱っているという点で、なにより「よい文章を」作って売るということを商売にしている点では、加湿器の取り扱い説明書であろうが、レズビアンの恋愛小説であろうがまったく同じだ。だから、ぼくはなかば強引に、自分の仕事は十分に文学的なものではないかと思っている。あるいは、文学的な素養が十分に「武器になる」世界ではないかと考えているである。

文学的素養、というとたいそうに聞こえるし、決して自分に文学的素養なるものがたいしてあるとも思わない。だけれども、訳文を作ったり、人の訳文をチェックしたりするときに、ぼくを支えてくれているもの、ぼくの土台となっているものは、なんといってもこれまでに読んできた数多の本なのであり、そこで出会った言葉たちなのであり、文学的なものが好きで人生を棒に振りかけた自分の過去なのである。そして、この「文学的なるもの」の存在は、翻訳作業をしているときに、とてもとても心強いのだ。

この文学的なるものは、目に見えるものではないし、資格試験みたいに証書で証明できるものでもない。でも、それがなければ、この「文学的なるもの」が自分の傍らにいつもいてくれることがなければ、決してこの仕事はやっていないだろう、と思う。そしてそういうときに、ああ、文学部的な自分でこれまで生きてきてよかったな、ムダばかりしてきたけど、ようやくいろんなことが役に立つときがきたな、あのとき、××しといてよかったな、でもやっぱり○○は△△にしておけばよかったな、そういえば石川君いま元気かな、などとこれまでの文学的な人生のいろんな思い出が走馬灯のように蘇ってくるのである。そして、こんなぼくのような人間でも好きなことを生かして世の中に小さな居場所を見つけることができたのだから、文学的な素養を生かして、もっともっと大きな活躍をしている人はたくさんいるだろうし、そういう力が求められる場面も、ぼくが知らないだけできっときっと数多くあるのだろうな、という風に思ったりもするのである。

もちろん、はしくれ翻訳者として走り始めたぼくの目の前はまだまだお先真っ暗であり、いつなんどき人生の奈落に転落するかはわからない。しかしそうなったらそうなったで、それは十分に文学的なことなのではないのだろうか、とおもったりする。ともかく、文学部万歳!
(連載完)

文学部唯野学部卒③ 活字系の生きる道

2008年01月11日 22時55分28秒 | 連載企画
往き帰り目線そらしてすれ違う

(解説)毎朝、駅までの道のりを往くときに、すれ違う人がいる。その人は男性で、年齢は30代半ばくらい。いつもきっちりとした身だしなみをした、まじめそうな人だ。彼は、ぼくの逆方向から歩いてくる。ぼくは武蔵境の駅に向かって歩いているが、彼は武蔵境の駅を出て、ぼくの家の方角にある職場に向かっている。ぼくが家を出る時間は、毎朝、数分単位で微妙に違っている。だから、彼とは通勤経路のいろんな地点ですれ違う。ちなみに、ぼくの家から駅までは徒歩20分弱。そして、彼の歩くルートは、ぼくのルートとまったく同じものを逆にたどっている。なぜそれがわかるかというと、ぼくは公団に住んでいるのだけど、エレベータを降りて表に出たとたん、彼と出くわしたことが何度かあるからだ。彼はそのままぼくの家の前を通り過ぎていき、そして、彼の勤務先である(とぼくは踏んでいる)その先の女子大の方に歩いていく。というわけで、かなりの確率で毎日彼とすれ違っているのだが、まあ、当然というか、言葉を交わしたことなどない。これが、外国なら、いつのまにか友達になったりするんだろうけど(すれ違いざまに見ず知らずの人が挨拶する文化、いいんだよな~)。でも、日本人のぼくたちは、挨拶どころか目線も合わせない。わざとらしく、お互いに前をまっすぐ見つめて、すれ違うだけ。だけど、ぼくが彼のことを認識しているように、彼もぼくのことを認識しているのは間違いない。それは、その目線の「そらし加減」でわかるのだ(あるいは、目線の微妙な泳ぎ方加減)。彼とすれ違うとき、おはよう、毎日ごくろうさん、という気持ちになることもあるけど、正直、毎日毎日同じ顔を見せられてうっとうしいな~、と思うこともある。今日もまたお前か、みたいな。俺のシマに入ってくるんじゃねえ、なんて思ったりする。動物的本能なのか。ともかく、なんだかこっちの行動がみすかされているようで、なんとなく気恥ずかしいのだ。

そして、実はそんな彼と帰り道もすれ違うことがある。今度は、逆だ。ぼくは駅を出て家までの道のりを歩いているし、彼は職場を出て駅に向かっている。遠くから彼が歩いてくるのを見かけると、やれやれ、と心の中で苦笑してしまう。また会っちゃいましたね、なんだか、バツがわるいですね。見られたくないとこ見られちゃいましたね、みたいな感じだ。別に悪いことしてるわけじゃないんだけど。彼は他所の町で寝起きして、武蔵境で日中をすごしている。そしてぼくは武蔵境で寝起きして、他所の町で日中をすごしている。まるでお互いがお互いの分身だ。ともかく、今日一日、ご苦労さん。あるいは、やっぱりまたお前かよっ!ってなことを思う。多分、相手も同じことを考えているのだろう、どことなく、ぼくを見つけたその顔がちょっと笑いをこらえているような、あるいは見たくないものを見たような、なんともいえない顔をしているのである。そして、そんなときもやっぱり、お互い目線をわざとらしくそらして、そ知らぬ顔してすれ違うのである。

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昨日と一昨日のエントリを読みかえしてみたら、文学部について「役に立たない」みたいなことをかなり直截的に、一般論として言ってしまっていることに気づいた。これはひとえにぼくが不真面目で自堕落な学生であったから、そういう刷り込みがされてしまっていることからくるわけで、あくまで自分を基準にして述べているのです。きちんと目的を持って文学部で勉強してその後の人生に役立てている人はたくさんいる、ということをあらためて付け加えさせていただきたい。

ところで、翻訳の世界にいる人たちが、どういう経緯を経てこの道を目指すようになったのか、ということを考えるとき、実はいろんなパターンがあることに気づく。語学が好きだったから入ってくるパターンもあるし、専門分野から入ってくる人もいる。あるいは、経済的な理由や労働条件などが出発点の人もいる。在宅でできるとか、フリーでできるとか、独立したかったからとか、お金が儲かりそうだったから、とか。そして、読んだり書いたりすることが好きだったから、ということから翻訳の道に進もうと考えた人も多いと思う。かくいうぼくもそうだ。先の例を語学系、専門知識系、独立系という風に分類できるとしたら、本好きが転じて翻訳を目指したタイプを活字系、とでも呼ぶことができるだろうか。ぼくの場合は、翻訳をやろう、と思ってから、やおらそれに必要なことを勉強し始めた。英語力も、専門知識も、営業面も、すべて後付けで学んできたし、今でもこれらについてはあまり自信がない。仕事の段取りをしたり、原文を苦労して読んだり、専門的な内容を勉強したり調べたり、こうしたいろいろな作業は、とても楽しいしやりがいがあるのだけれど、ぼくにとっては最終的に日本語をアウトプットするために必要な準備期間という気もする。日本語を吐き出せる瞬間を味わうために、苦労して身につけた筋肉、みたいな感覚だ。やはり活字系としては、訳文を作っているその最中が楽しく、楽しいといいつつ苦しみはしながらも、書いては消しの粘土細工をしているときが一番やりがいを感じるときなのである。でも、だからといって巷でよくいわれているように、翻訳には日本語力が一番大切だ、などとはいいたくはない。もちろん日本語は大切だ。でも、そこで鬼の首とっちゃって、日本語だけでいいと浅く見切りをつけちゃったら、語学力や専門知識を伸ばそうとする可能性が狭まってしまう。いやしくも翻訳者としての看板を掲げている以上、語学のプロであり、自分の専門分野のプロであり、仕事人としてのプロであり、そしてその上で日本語のプロである、ということが求められていることを忘れてはならないし、どれかが大切ということではなく、すべてが等しく大切なのである(と、自戒を込めて言おう)。そう、翻訳はトライアスロンなのだ。ラン、スイム、バイク、どれも大切だし、まんべんなく鍛えていかなくてはよい結果を出すことはできない。

それでも――いくら翻訳が鉄人レースであろうとも――、翻訳が言葉に関わる仕事だということには変わりがない。そして、文章を作ったり赤を入れたりしているとき、言葉をあつかっているとき、ぼくは他のことをしているときよりもはるかにアドレナリンがでるし、楽しい。こういう作業は、やはり自分に向いているのかな、と思って嬉しくなる。といっても、こういう楽しさとか嬉しさとかを仕事をしながら感じることができるようになったのは本当にここ3年くらいの話であって、翻訳者になったばかりのころは、自信がないからいつも汗タラタラだったし(その分、ものすごく真剣に仕事をしていた)、その前は翻訳会社の営業だったのだけど、一生懸命にはやっていたものの、こころから仕事が楽しいとはどうしても思えなかった。売上を上げることがいいことだと、いくら頭にいってきかせても、ハートがYESといってくれなかったのだ(あんまり文学部の話に関係なくなってきたけど明日に続きます)。

文学部唯野学部卒② 演劇って......

2008年01月10日 23時37分49秒 | 連載企画
小旅行当たったつもりで乗り過ごし

(解説)運命はいつも気まぐれだ。こちらが油断しているときを見計らっているかのように、不意打ちを食らわせてくる。帰りの電車の中で、ずっとニューズウィークの英文の記事とにらめっこしていた。通訳学校の課題だ。日本語のようにすらっと意味が入ってこないからなのだろう、いつもよりやたらと車内にいる時間が長く感じる。三鷹から武蔵境までの距離がやけに長い。おかしい、武蔵境ってこんなに遠かったけ? いや、そう感じるのはきっと英文が頭に入ってこないからだ。それとも、僕がリーディングに集中しているから? そうだ、きっと今、僕はすごい集中の世界にいるのだ。α波の宇宙を漂っているのだ。人間、意識の持ちようによって、時間が過ぎる感覚というのは変わってくるもんだ。うん。そうそう。……でも、……やっぱりちょっと長すぎないか? おかしいんではないか?

と、うすぼんやりとした英語の世界から、目が醒めるようにゆっくりと現実の電車内の世界に戻ってくると、待ってましたとばかりにアナウンスが聞こえてくる「次は~、国分寺、国分寺~」。

そう、また、間違えて特快に乗ってしまったのだ。武蔵境はすでにはるか後方に過ぎ去ってしまっている。

気分がちょっと萎える。でも、まあいい。こんなことでもなければ、国分寺に来ることもない。いいところじゃないか、国分寺って。そうだ、僕が武蔵境で降りた後で、いつもみんなこんなところに来ていたんだね。そうだったんだね。え~い、こうなったら、いっそ、立川までいっちゃったって、かまわない。ああ、かまわないともさ。そういえば、生まれてこの方、懸賞で旅行に当たったことがない。だからこういうときには、神様からボーナスをもらったのだと思えばいいじゃないか。「国分寺日帰りの旅」をプレゼントされたのだ。そう考えてみれば、この非日常の時間を楽しめるじゃないか。この機会に、肩の力を抜いて、違った角度で世界を眺めてみようじゃないか。ただし、戻りの電車にのるときは、決してまた特快に乗らないように気をつけて……。

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文学は、世間から食えないものの代名詞のように見られている。でも、それよりももっと「食えない」ものの代名詞というか、ルビを振って「名詞」として扱われてしまいかねないのが、演劇だろう。演劇の枕言葉は貧乏ではないかというくらい、演劇をしている人たちは生活が大変だ、という話をよく聞く。だけど、演劇の魔力につかまってしまった人たちは、生活のなかでも舞台を何よりも優先させ、稼ぐことは舞台を続けるための手段として考えて、アルバイトなどで糊をしのぐ。ちなみに、京都の映画館で働いていたとき、スタッフの人たちに劇団関係の人たちがたくさんいた。彼女たち(と少しの彼たち)は、関西ではかなり有名な劇団のいくつかで活躍している人たちだった。彼女たちは、さすがに表現力が豊かだった。冗談も面白いし、顔の表情も豊かだし、しゃべりも楽しい。普段から夢に向かって好きなことに打ち込んでいるからだろう、普通のカタギの集団にはない魅力を放っていた。彼女らの芝居を、何度も観にいったし、毎日一緒に仕事をして、毎晩のように酒を飲んだ。そして、やっぱり、彼女たちは世間一般からみると裕福とはいえなくて――というか芝居をしている人以外もみんな僕を含めお金はなかったのだけど――、その点は、世間が描くあまり裕福ではない劇団員を地で行くような生き方をしていた。そんな彼女たちは、年齢が僕よりも少し上だということもあって、とても格好よく映ったものだった。

そんなわけで、僕も演劇のことを、お金が儲かるとか、就職に役立つ資格を得ることができるとか、そういういわゆる「食うための何か」とは対極にあるものだと思っていた。でも、ある人との出会いを境にして、その考えは、かなりの部分、間違っていたということに気づいた。演劇は、すごい。演劇は、使えるのだ。以前いた職場に、学生時代演劇に打ち込んでいた人がいた。その人は、とても仕事ができる人だった。とにかく、他者に対してプレゼンする能力がすごいのだ。人に何かを説明するとき、うまく「演技がかって」話を盛り上げたり、冗談を織り交ぜたり、突然相手に質問をしたりして、ドラマチックに話を進めていく。話に説得力があるし、人を乗せるのが上手い。とにかく、プロジェクトを推進する力がすごかった。それは、その人にエンジニアリング的なバックグラウンドも、十分にあったからこそできたことなのだけど。で、その表現力というのは、他ならぬ演劇によって培われた。すべてではなくても、学生時代に演劇に打ち込んだそのときの経験から、身についたものだと、その当人の口から耳にした。そうだろう。舞台の上に立って、観客の前で他人を演じること。ほかの役者と協力して、一つの物語を構築すること。それには、並々ならぬエネルギー、他者に伝える力が必要になる。役者たちは、寝食を忘れて舞台に没頭することで、あるいは、なかば人生をなげうってまで、芝居にかけ、その対価として、こうした表現力を獲得するのだ。その力が、現実社会で役に立たないはずがない。営業マンになっても、先生になっても、サービス業に携わっても、うまくその力を活かせば、すごい仕事ができる。直接顧客とかかわらないとしても、仕事というのはどんなものであれ人と人との関わり合いのなかで行われるものだ。優れた演技力を持つ役者の力が生かされる場面は、ありとあらゆるところに及ぶだろう。むしろ、いまのサラリーマンなんかに一番かけているのが、演劇が一番得意とする、他者へのプレゼン能力や同僚とのコミュニケーション能力だったりするのではないだろうか。そして、役者の人たちは、こうした能力を、ただ食いっぱぐれたくないから、という理由で身につけたのではない。将来つぶしがきくから、という保身で学んだのでもない。表現することが好きだから、舞台を愛しているから、得ることができたのだ。

というわけで、演劇については件の人との出会いを境にとてもポジティブなものに考えを変えることになったのであるが、同時に、同じようなことが、読み書きの得意な人、にも言えるのではないかという風に考えてみたい、と思うようになったのである。読んだり書いたりすることが好きで、でもほかに何のとりえがないと思っている人にも、きっと世の中の役に立てる場面があるはずだ。と、希望的観測を含めて考えるようになったのである(明日に続きます)。

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諸般の事情によりしばらくブックオフはおあずけ!

文学部唯野学部卒

2008年01月09日 23時21分49秒 | 連載企画
お土産のラーメン置き去り三昼夜

(解説)年が明けて初出勤したら北海道に里帰りしていた会社の人からラーメンとチーズのお土産をもらった。うれしいやらびっくりするやらでどうお礼を言えばよいのかわからなくなる。こっちは何もしていないはずなのに、なんだか申し訳ない。彼女いわく要冷蔵だというのでさっそく会社の冷蔵庫に入れた。でも、情けないことにその日、せっかくのそのお土産を家に持って帰ることをコロっと忘れてしまっていた。そして、あろうことかさらに2日目も同じことをくりかえしてしまった。気づいたときには吉祥寺だった。というわけで、とうとう今日、2度あることは3度ある、のジンクスに打ち勝ち、3度目の正直で持ち帰りに成功したのである。しかし、情けない。お土産をもらったことはとてもとても嬉しかったのであるが、なぜ持ち帰ることを忘れてしまったのか。自己不信に陥る。僕は、日常のちょっとした変化に弱いのかもしれない。会社の冷蔵庫には普段なにも入れていないから、入れたとたんにその存在を忘れる。冷蔵庫に入れたとたんに、またすぐにいつものルーティン化された日常に埋没してしまう。いやそれは、いいわけだ。たぶん、たった一つ、ラーメンを持って帰る、ということすらインプットできないほど、頭のなかが別なことで占拠されているのだ。大したことじゃないけど、常に何かを夢想しているから。いやいや、インプットする余裕ならあるはずだ。フリーディスクスペースならたくさんある(要らないフィアルを大量に捨てたら、の話だけど)。だけど、メモリにはやっぱり余裕がない。いろんなアプリケーションを立ち上げすぎだ。CPUの性能も元々悪い。だからエラーメッセージばっかり表示されるのだ。さあ、また自分リブートしなきゃ(誰か僕に、サービスパック当ててください)。なんだかよくわかりません。

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学生時代、「どこの学部?」と聞かれて、「文学部」と答えると、たまにだが、こっちの顔をまじまじとみつめて、まるで水族館で「手長海老」でも見つけたみたいに驚いた顔する人がいた。聞いちゃいけないこと聞いちゃったみたいにオロオロする人さえいた。男で文学部って、どういうことよ? ああそっか、じゃ、将来先生になるんだ? え、違うの? わたしにはわかんない。就職とか、どうすんのさ? ――みたいな話だ。大学は、いい企業に就職するための予備機関、みたいなイデオロギーの家庭環境で育った人は、たぶんなんの実にもならない文学なんて学問をやる人間のことが解せないということなのだろう。文学部といっても、ぼくの専攻は心理学だったのだけど。

文学や映画が好きだ、というと、そんなものメシの種にならんぞ、ということを言われたこともあった。まっとうな人間というものは、公務員になったり、銀行員になったり、メーカーに勤めたり、ともかく将来そうなるために、経済だとか法律だとか電気だとか化学だとか、そういう実学をやるべきであって、愛だの性だの実存だのそういうことをぐだぐたやっとってもはじまらんだろうが、というのがそういうことをいう人たちの考え方であって、まあこんな風に「人たち」とくくってしまうのはとてもステロタイプなやり方だからあまりよろしくないのだけど、ともかくそういうことをよく言われたし、書物やテレビなんかを観ていて、世の中一般の多くの人たちがそういう考えをしているということもだんだんわかってきた。こういう世間の見切り方、っていうのは、すでに小学生とか中学生とかでもできるヤツはできていて、早くも大人になったときの処世術の訓練を着実に積んでいる風なのがいる。それはそれですごいことだと思う。だけど、まったくナイーブといえばナイーブにすぎないのだけど、僕はそういう世の中の渡り方、みたいなものに気づくのが本当に遅くて鈍くて、どうしようもない甘ちゃんだったのである。

そういうわけで、当時はそれなりにフンフンと思いながらそういう意見を聞いていたのであるが、実際自分の好きなものを止めることなどできるわけはないし、専攻だっていったん入学したら特殊な手を使わなければ変えられないし、そもそもそういうまっとうな会社員とか公務員とかになりたいなどとも不思議にまったく思っていなかったので、そういう世間の意見などどこ吹く風で自由気ままに羽毛のように軽い生活を送っていた。

結局のところ、いざ社会に出る段になって、実際には何になりたいのか、ということを煮詰めていなかったツケが大きく回ってきて、20代はものすごく遠回りしてしまうというか、無駄な苦労をしてしまうというか、辛い時代を送ることになってしまったのだけど、――つまりは、文学部なんて、といっていた人たちはやっぱりいい会社に就職していって、幸せそうな、まっとうな人生を送り始めていて、なんとも取り残されたような気がしたし、映画なんてメシのたねにならん、といった大人たちの意見はやっぱりどうみてもある意味正しかったのだ、ということが骨身にしみて分かったのだけど――、そしてそのことについてずっと強いコンプレックスを抱いたままで生きてきたのだけど、それでも最近、ようやく、この文学部、ただの学部卒、という肩書きや、本や映画がとても好きだった自分というものが、やっぱり間違っていなかったのではないかというか、実はこんな自分でも世の中の役に立っていることもあるかもしれないとか、本好きな自分が、世間ズレしていない自分の身を助けてくれているというか、そんな気がするのである。そしてそれがなんだか嬉しいのである(とても長くなってしまったので明日に続きます)。

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荻窪店

『Smart feng shui for the home』Lillian too
『Fine Things』Danielle Steel
『lonely planet Chicago』
『Visual Encyclopedia』Dorling Kindersley
『書くということ』石川九楊
『花伽藍』中山可穂
『サクラダファミリア』中山可穂
『猫背の王子』中山可穂
『白い薔薇の淵まで』中山可穂


2008年01月08日 23時55分49秒 | 翻訳について
歩くほどに金がなくなる吉祥寺

(解説)吉祥寺をウロウロしているとブックオフにいったりラーメンを食べたりするので文字通りお金はなくなるのである。でも、今日意外な事実に気づいた。僕の財布には穴が開いていて(ずっと前から使っているからボロボロなのだ)、小銭がいっぱいのときは――お札がいっぱいのときというステータスはあり得ないのだが――、財布から小銭が漏れる。たまに駅の改札でスイカタッチするときにドバドバって小銭が飛び散ってしまうこともある。なので、ポケットには財布から漏れた小銭がたまっていくことがある。で、最近よく着ているダッフルコートの右のポケットには、ちょうど小銭が通るくらいの穴があいていることに、今日指をまさぐっていたら気づいて、そして、おそらく小銭をそこから落とし落とし歩いていたらしい、という悪い予感が脳裏をよぎったのだった。実際本当にどれだけ落としたのかは知らないけども、かなりの額を落としていてもおかしくはない。そう思うと、急にものすごい額のコインを落とし落とし歩いていたような気がしてくるのだから現金なヤツというか、現金のないヤツというか。それにしても、なんだか雨漏りの水滴を受けているバケツにも穴が開いてるみたいな、なんとも昭和な気分になる。なんて「アナ」ログで、「アナ」クロなんだ、俺って。
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某所にて翻訳についての研究会に参加する。講師は、英国人で長年特許関係の日英翻訳をしているという翻訳者だ。テーマは、日英翻訳の品質について。話せば長くなるので講義の内容は割愛するけど、つまるところ、彼の翻訳理論の真髄とは、「原文を読み、その内容を理解しそれをいったん視覚化してから、適切なターゲット言語でコンテキストに則した訳文を作成すること」ということだ。ワードバイワードで翻訳するのではなく(そういうのをミラートランスレーションというらしい)、意味の置き換えなのだと。ぼくもまったくもってそれに賛成で、自分と同じ考えを日本語以外の母国語を持つ人の口から聞けたのはとても嬉しかった。でも、原文を本当に理解すること、意味を置き換えて適切な言葉に移し変えること、というのは、簡単そうに見えて実は相当難しいことだ。原理を頭で理解することと実践することは違う。それに、原文の言語的な難しさや内容の高度さは常に大きな壁として目の前に立ちはだかっているのだし、原文を捕まえることができたとしても、果たしてそれを適切な日本語で必ずしも表現できるかということだって相当に怪しい。翻訳はいたってシンプルな真理に基づいているように思えて、その具現化はときにアホちゃうかといいたくなるほど難しいのである。

ところで、そのネイティブの講師の方はとても日本語が堪能だったのだけれど、それでも参加者との質疑応答になると、微妙なミスコミュニケーションが生じているような場面もあった。日本語の質問者も彼が日本語が上手だという安心感もあるのだろう、容赦せずに早口でクリシェたっぷりの抽象的な質問をするし、起承転結ははっきりしないし、もうちょっとわかりやすくしゃべればいいのに、と聞いていてハラハラする。が、実際人前で発言するとしたら自分だって少々舞い上がってよくわからない論旨展開をしてしまうことがほとんどなのだからしょうがないか、とも思ったり。通訳の現場でも、通訳泣かせというかとにかく思いっきり和臭たっぷりの表現をつかって立て板に水のようにしゃべる人がいるというが、それに近い感覚がする。聞いてるこっちが怖くなる。でも、良く考えたら日本語を母国語とする人どうしでしゃべっていても言葉のやりとりのなかで微妙に意味を取り違えてしまうことって日常茶飯事だし、本当に言葉のやりとりって難しいのだな、ってあらためて思った。そして、だからこそ、翻訳ってこんなに難しいのかな、と深く思い知らされた研究会だった。翻訳やバーバルコミュニケーションにも、気がつかないうちに陥ってしまう穴が多くあるということ、なのだろう。

iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii

『深爪』中山可穂を読了。

「愛」なんて言葉を、たやすく使うんじゃねえ!!

2008年01月07日 22時54分05秒 | ちょっとオモロイ
僕にはとても尊敬している翻訳者の人がいる。その方は僕なんかよりもはるかに翻訳が上手くて、キャリアがあって、人間としても優れていて、とにかく素晴らしくて、僕は彼女のファンなのである。一応は同じ翻訳者なのに、その力量の見事さを目の当たりにしても、嫉妬心など不思議とまったくおこらなくて、いつもほれぼれするような気持ちになってしまう。とにかく、プロ翻訳者として、どこに出しても恥ずかしくない(という形容をぼくがするのはおこがましのだけど)、一流の翻訳者なのであり、ぼくの懐刀というか、切り札というか、彼女に翻訳してもらえばまず大船にのった気持ちになれる、そういうとても大切なひとなのである。で、たまたま今日、話の行きがかり上(ブログの話題になったので)、その方に恥を忍んでこのブログのことを知らせたところ、さっそく貴重な時間をムダにして?読んでいただき、翻訳Loveという言葉について、恐れ多くもお褒めのお言葉をいただいた。

しかし、彼女はやはり上手だった。初めて知ったのだが、彼女のキャッチフレーズは、翻訳Loveの上をいく、「翻訳バカ一代」なのだそうだ。う~ん、まいった。Loveなんて甘ったるい言葉じゃない。バカ一代。マス大山。ゴットハンドなのだ。本当に、翻訳の世界に命をささげている人でなければ吐けないセリフだと思う。一本とられた! という気持ちになった。ひさしぶりに聞いたこのバカ一代という硬派な言葉を前にして、Loveといううたい文句を使っている自分がなんだかものすごく軟派な存在に思えてきた。

ちなみに、この「翻訳Love」っていうのは、実は、元々プロレスラーの武藤敬司が提唱していた「プロレスLove」の影響を色濃く受けて誕生した言葉で(ようは、パクッたのです)あるのだが、このプロレスLoveっていうのは、でも単純にプロレス愛を謳っているだけじゃなくて、何年か前、それまで磐石だと思われていたプロレス界に総合格闘技やらなんやらのいろんな黒船が襲来して、業界に激震が走っていて、地盤がガタガタになりかけていて、誰もがプロレスなんて、という気持ちを持ち始めていたところに、あえて原点回帰という意味をこめて、武藤がプロレスの本当の素晴らしさ、楽しさをアピールするために叫んでいた言葉であり、そんな彼の本当にプロレスを愛する気持ちが込められているという、プロレスファンならば当時を思い出せば目頭がちょっと熱くなるようなメッセージだったのである。なので、あえて言わせてもらえれば、僕は単純に愛なんて口当たりのよい言葉を使っているつもりはなくて、翻訳という茨の道を歩んで血まみれになり、ギザギザに傷ついた魂で、あえて叫んでいる「Love」のつもりなのである。

人はみな、プロレスラーと同様、それぞれキャッチフレーズを持っているというのが僕の仮説だ。翻訳者のみなさん、あるいは業界関係者みなさん、やっぱり自分のキャッチフレーズって、ありますよね?

というわけで、仕事始めというか会社始めというか、そういう日にあって、「バカ一代」を含めやはりガツンといろんな風に吹かれて気合も一段と入った一日だったのである。3時間しか寝ていないから異常にしんどかった。シャバの空気はやっぱり厳しい。

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荻窪店で初ブックオフ。10冊。

『闇に香るもの』北方謙三選 日本ペンクラブ編
『香山リカのきょうの不健康』香山リカ:ゲスト、鈴木慶一、高橋幸宏、大槻ケンヂ
『からだのひみつ』田口ランディ・寺門琢己
『オトナのハテナ語』
『ウェブ時代の英語術』森摂・馬子恵美子
『結婚の新しいかたち』西川栄明・西川晴子
『新教養主義宣言』山形浩生
『ダーリンの頭ン中』小栗左多里・トニー・ラズロ
『たった101語で通じるホワイトハウスの英語』ケリー伊藤
『ニュースの大疑問』池上彰

何かによって生きる者

2008年01月06日 17時15分33秒 | 翻訳について

高校サッカーで、東京B代表の三鷹高校が都立高校としては快挙ともいえるベスト8の大健闘をみせた。あれよあれよというまに三試合を勝ち上がり、準決勝からの夢舞台、国立競技場にあと一歩のところまで近づきながら、本場静岡代表の強豪、藤枝東の前に散った。三鷹といえば、わが武蔵境の一つ隣、いつも中央線で寸止めされている町であり、まあ近所というか地元というか、そんなよしみもあって、わたしはこの三鷹高校のことは応援していたのであった。かくいうわたしも20年前は夢の国立を目指して(雲の上の存在として単にあこがれていただけであるが)日々練習に打ち込んでいた、高校サッカー球児なのであり、そんなわけで、必然的にあのテーマソングを聞くとついついいろんな思い出が走馬灯のように蘇ってくるのである。

三鷹高校は突出した選手がいないながらも、チーム全体に勢いがあった。このチームはひょっとしたら旋風を巻き起こすかもしれないな、という予感が、初戦を終えたあたりからすでに感じられていた。そしてその通り、緒戦をものにした彼らは、2回戦、3回戦も下馬評を覆して勝利をおさめ、文字通り三鷹旋風を巻き起こしてくれたのである。けれん味のない試合を見せてくれた彼らに、本当に感謝したい。それにしても、特にこの年代くらいのときは、チームに勢いがあると普段以上の力を出せるもので、まさにこの三鷹は試合ごとに強くなっていくチームという印象を周囲に与えていた。

しかし、こうした勢いも、やがては尽きるときがくる。調子のよいときは、何をやっても上手くいくが、いつかそれが空回りするようになる。それまでノリにのっているから当然のようにできたプレーができなくなる。体が金縛りにあったように、動かない。足にボールがつかない。周囲の期待も高まり、それまでには感じなかったようなプレッシャーを感じる。あるいは、本当に自分たちよりも強い相手と戦っていることに気づいて、それまでは勢いでごまかせていた力の差を歴然と感じ、萎縮してしまう。盛者必衰。こうして、あるときを境にして、神通力が失われ、そしてチームは矢折れ力尽きていくのである。すがすがしい戦いをしてくれた三鷹のことをとやかくいうつもりはない。ただ、勢いが途切れるチームというのは、三鷹に限らずどんな大会でも見られるものなのである。

トーナメントというのは、1チームしか優勝が許されない。だから、ほとんどすべてのチームはいつか負けることを前提にして戦っているようなものであるわけだ。考えてみたら、限りなく宝くじに近いような確率の全国優勝という見果てぬ夢を目指して、けなげに彼らは戦っているわけで、そして事実、ほとんどのチームは敗れていく。接戦であれ、大敗であれ、PK負けであれ、番狂わせであれ。そして、敗れたチームの選手たちは、まるで負けることなどこれっぽっちも想定していなかったかのように、うずくまり、泣きじゃくる。全国大会にくるチームだから、それまでは県の予選を通じてずっと勝ち続けてきたチームばかりだ。その都度、相手チームのゴールにボールを幾度となく叩き込み、敵のイレブンの高校3年間の部活動に容赦なくピリオドを打ってきた。勝つたびに、いいしれぬ悦びを爆発させてきた。しかし、今度は自分たちの番だ。今日この日、彼らの戦いにも終止符が打たれるのだ。

――剣によって生きる者は、剣によって死ぬ。このことわざの本来の意味は、暴力によって他を制するものは、いつかは暴力によって自らも命を奪われる。というものだけど、こうしたネガティブな意味を差し引いて考えると、いろんな職業に当てはまるのではないかと思う。もちろん、翻訳も当てはまると思う。

翻訳を武器にして生きるものたちは、自分の仕事がいかにすぐれているかを他者に訴え、仕事をもらい、素人にはできないプロの仕事をして生活の糧を稼ぐ。翻訳という剣を武器にして、世の中をわたっていくのだ。勢いを味方につけるときもあるだろうし、誰にも負けない気がするときもあるだろう。戦えば戦うほど強くなっていく自分を実感できることもあるだろうし、ほかの翻訳者との競争に勝って――言葉はわるいが他者を蹴落として――、仕事を得ることもある、というか、基本的には常にこうした市場原理という名の競争のなかで日々戦っているのが翻訳者であり、誰もが夢の国立(ベストセラー?)を目指して自らの剣を磨いているのだ。

しかし、だからこそ必然的に、翻訳者は翻訳によって命を絶たれることもある。自分よりも圧倒的に力量が上の人を前にしたとき、自分の存在意義が消え去ってしまうような気がすることもある。あるいは自分の仕事が人から評価されないことだって十二分にありうる。文字通り、翻訳者生命を断たれるような出来事だってあるだろう。伏兵は次々に現れるし、ライバルもどんどん増えていく。人を斬ることで生きることを選んだものは、いつかはその身も斬られることがあることも、覚悟をしなければならないのである。

三鷹の選手たちにとって、負けはけっして終わりを意味しない。むしろ、これからの人生にとって、計り知れない恩恵を与えることだろう。だから、負けは決してネガティブなものではない。しかし、勝負の世界において、彼らは確かに敗れたのであり、そのことによって失われたものもまた、紛れもなくあったはずなのである。

戦いに望むとき、負けることはあまり考えない。おそらくは高校サッカーの選手たちがみな、そうであるように。負けは突然やってくる。負けた瞬間、初めて失ったものの意味がわかる。もう、同じチームのメンバーと一緒に、サッカーをすることはできない。高校のサッカー部員でありつづけることもできない。毎日の練習に参加することもできない。試合終了の笛が鳴るのを聞いて、初めてそんなあたりまえの事実が目の前につきつけられる。だから皆、あそこまでなきじゃくるのだ。

何らかの道によって生きるもの。それはいつかその道によって、突然、敗北を突きつけられることを肝に銘じておかなくてはならない。ただし、戦い続けることを決意したのである限り、負けることなど考えている暇などないのであるが。

そんなことを考えつつ、冬休みが終わってしまった。そう、正月休みによって生きるものはまた、正月休みによって死ぬ。まじで、本当に死にそうです。

世界の中心で「やぶへび」と叫ぶ

2008年01月05日 15時54分40秒 | ちょっとオモロイ
深夜、なにげなく、といいつつなにかに導かれるようにしてスカパーの「ナショジオ」にチャネルを合わせたら、インドのキングコブラの生態についての番組をやっていて、そんな番組は年中やっているのでもあるし、この忙しい最中にどうしてもみなければならないわけでもないし、誰かに観ろと頼まれたわけでもないのはわかってはいるのであるが、動物好き、野生の王国好き、BBCタッチのドキュメンタリー好き、コブラ好き、コブラが他の動物を食べるのを観るのが好き、小学生のときプロレスごっこでいくつかあった得意技のなかでもやっぱりコブラクローが一番好き、という魔の好き好き連鎖によってついつい引き込まれてしまい、というかそもそも「ついつい~した」がぼくの日常生活の80%を支配しているのではあるけれども、やっぱりついついリモコンを握ったまま、30分くらい画面に釘付けになってしまったのであった。

日常生活ではヘビとはあまり出会いたくはないものだが、何を隠そうヘビをみるのはとても好きで、実際、小学生のときに島根県の浜田市に住んでいたときは(しかもその超「い●か」の浜田市のなかでもかなりの僻地)、明けても暮れても野山を駆けずり回り、はいずり回っていたのであるが、それこそ同じように大地をスリスリほふく前進してくるアオダイショウやらなんやらのヘビたちにしょっちゅう出くわしていて、その都度やけに興奮してしまうとともに、なんどかはかなりやばい目にもあったことがあるのだけど、――たんぼの真ん中で友達と立ち話していて、ふとそいつの足元をみたら、3メートルはあろうかという大蛇のおなかを友達のお靴がさりげなく踏みしめていて、腰がぬけそうになったことなどもあったりして――ヘビをみるとそのときのゾクゾクした感覚が蘇ってきたりして、なんともスリリングな気持ちになるのであるが、テレビでみるキングコブラというのは、やはり伊達にキングの名はついておらずというか、別の種類のそこそこ御立派なヘビをなにげにみつけると、毒牙でそのかわいそうなヘビの「腰のあたり」にがぶっとかみついてたちまち麻痺させてしまうと、律儀に頭からわりわりと飲み込んでしまい、そしてそんな離れ業をやってのけるのはいかにも朝飯前という風情で、またスルスルと地面を這い、樹木にシュルシュルと登り、川をスイスイと渡り、雄がいるとやおら首をもたげて戦いのダンスをおどり、雌を見つけるとデヘラデヘラとヘビ撫で声で近づいては割れた舌先をピョロピョロと花火みたいに口先から漏れさせて、なんともヘビというのは自在な人生ならぬ蛇生を生きているのであるな、うらやましいのであるな、などと思うのであるが、それにしても、ヘビというのはお食事をされるときに、本当に容赦ないというか、慈悲の心をお持ちにならないというか、とにかくディナーの対象である動物たちを、一律に丸呑み踊り食いというもっとも原始的な形態の食べっぷりで食されるのであって、そしてヘビのそんなところにわたしの脳幹はやけに反応してしまって、蛇様の妙にナマナマしい映像をみていると、なんだかおなかのあたりがフニャフニャとしてきてしまうのであった。

ちなみに、翻訳業界でヘビといえば、「やぶへび」という言葉が多用されるのであって、まあこれは言葉の通り、先方に尋ねることによって余計な作業が発生したり、よからぬ取り決めがされてしまったりということが往々にしてあるがために、これはやぶへびになっちゃうからこのままするっといきましょう、というときによく使われる(つかっちゃう)のであり、まあ「やりすごし」というのは仕事をするうえで実は大きなテクニックなのであって、やぶへびというのも先人の知恵の詰まった言葉ではあると思うのですが、あんまり声を大にして世界の中心で叫ぶ言葉ではないのでありまして、まあ蛇の道はヘビといいますか、蛇足といいますか、どうでもいいことを今日もまた書いてしまったというわけでして、大変失礼いたしまして申し訳ないのですが、ともかくなぜこんなくだらないことを書きよるのか、というあたりについてはあまり藪をつついてほしくありませんので、そ~っとしておいていただきたく、ともかくそれではごきげんよう、さようなら。

海へ

2008年01月04日 19時56分55秒 | Weblog

地球温暖化で、海面の水位が年々上昇しているらしい、とテレビでやっていた。ある意味もう人類はとりかえしのつかないことをしでかしてしまったような気もするのだが、事態をこのまま放置しておくことはできない。翻訳者としての自分にできることってなんだろうか? この現実を前に、一人の人間として行動すべきこととは何だろうか?

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ところで、海に関連する語といえば英語にはいろいろありますが、coast, beach, shore, seasideの違いってわかりますか? というのも、今日、とある人から同じ質問をされたのです(わたしははっきりと答えられませんでした)。
G4からの引用です。

coastは、地図、気候、防御の面から見た海岸。
beachはshoreの一部で、海水浴、保養のための海岸。大きな湖の浜にも用いる。
shoreは海岸について通常用いられる語で、川・湖などの岸にも用いる。
seasideは観光地としての海岸。

海岸にもいろいろあるのです。
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中学校のとき、学校の図書館から盗んできた(というか、借りたまま拝借してしまった。ごめんなさい)中上健次の短編集『十八歳、海へ』。折に触れ何度も読んできた、とても好きな本なのだけど、なぜか今日、おもむろに手にとって、しばし読みふけってしまった。中上が18歳から23歳までの間に書き溜めた作品群だと知って、その才能にあらためて驚いた。

そういえば、海にはしばらくいっていない。波の音もひさしく聞いていない。遠くに見える海を眺めることはあるけど、ちゃんと浜辺があって、波の音が聞こえる海を目の前でみることをしていない。衝動的に電車に飛び乗って、海にいく。かつてはそんなことも何度かやったことがあるけど、最近はそういうロマンチックな冒険とは、とんとご無沙汰している(武蔵境から、海のあるところにいくのは、ちょっとつらいっす)。今の僕にとって、海は遠い。海に限らず、いろんなものが遠いのだけれども。海辺育ちのせいか、海のことを思うと、今の生活からは忘れ去ってしまったいろんなことがいっきに蘇ってくるのだった。

そんなわけで、なぜか海のことをとりとめもなく想った一日だったのでした。とりとめのないことを書いてごめんなさい。ザボン。

イチローの真髄

2008年01月03日 21時31分23秒 | 翻訳について
昨夜、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』の「イチロースペシャル」と題された番組を観た。イチローへのインタビューや、これまであまり見ることができなかった日常生活などを明かす密着映像(柴犬の「いっきゅう」、可愛かった~)、過去の軌跡を振り返る映像などで構成されていて、とても面白かった。些細なことかもしれないが、まず何よりも度肝を抜かれたのが、イチローがアメリカに渡って7年間、毎日、昼食に弓子夫人が作る同じカレーを食べ続けているということ。これには周囲からは奇人変人と呼ばれている私もさすがにびっくらこいた。いくら好きな食べ物だといって、人間、7年間、毎日同じメニューのものを食べ続けられるだろうか? 食べ続けるイチローも凄いし、作り続ける弓子さんも凄い。そして、7年間食べ続けられてもイチローを飽きさせない、このカレーという食べ物もすごい。インドはやっぱりすごかった。世界はやっぱりフラットだった。でも、よく考えてみたら、人間、朝ごはんなら、同じような内容のものを毎日食べ続けることはできる。トーストにコーヒー、卵にベーコンみたいな。件のカレーはイチローにとって朝ごはん兼昼ごはんということらしいから、そう考えてみるとなんとなく理解できるかもしれない。ともかく、そのあたりからしてやっぱりイチローは常人ではない。

一日の過ごし方にしてもそう。判で押したように、イチローは毎日同じ儀式を繰り返す。朝のカレーに始まり、家を出るまでの過ごし方、球場についてから試合が始まるまでの一連の行為(着替え、ウォームアップ、などなど)。試合が始まっても、バッターボックスに入るまでのあの相撲の弓取り式にも似た流れるような所作は、野球ファンでなくても多くが知るところだろう。このパターン化された行動については、彼の性格に起因する部分も多くあると思うので、誰もが真似をすれば彼のようになれるというものではない気がする。特に僕の場合は、ムリ、ムダ、ムラが三位一体となって構成されているような人間なので、とてもじゃないが毎日毎日彼のように同じ行為を繰り返すなんてことはできそうにない。でも、意外と自分では気づかないだけで、結構同じような行動パターンをとっていることは多い気がするし、それによって、リズムやストロークを生活のなかに生み出しているのかも知れないとも思う。それは誰しもが経験していることだろう。フリー翻訳者のなかには、イチローよろしく規則正しく毎日同じようなパターンで仕事をしている人もいるのではないだろうか。僕も、もしフリーになったらかなり規則正しい生活をしてみたいと思っているし、長い目で見ればその方が生産性はきっと高くなるだろうと思っている。でも、あそこまで極端なルーチン化はきついし、逆に飽きてしまって刺激がなくなってしまいそうだから、必要なところだけは見習いたいなどとおもった次第。

あえて言うまでもないことのように思えるが、今、人がイチローに注目するとき、彼らはイチローのスポーツ選手としての偉大さだけを崇めているのではない。番組のタイトルのとおり、一職業人、プロフェッショナルとしての彼の姿勢が世間の共感を集めているのだろうし、超一流といわれる彼の成功の秘訣を誰もが知りたがっているのではないかと思う。もちろん、僕もそのうちの一人で、彼の言葉や行動から、自分にも取り入れることができるメソッドはないかと思っていつも彼のことを観察しているクチである。無論、彼と僕とでは職業人としての力量に月とすっぽん、あるいは月とミドリガメくらいの違いがあるので、あまり差がありすぎて参考にならない気もしないでもないのだが。

で、ぶっちゃけた話、結局のところ、僕なりにイチローを観察した結果、やっぱり彼の方法論や、彼が現在持っている技術というのは、かなり特殊なものであって、なかなかそれを自らのうちに取り入れるのは難しいのではないか、という印象が、今回の番組を観終わって残った。もちろん、彼のいいところはたくさんあるし、学ぶべき点も多い。たとえば、仕事への情熱。野球を好きだという気持ち。体調管理を徹底しているところ。絶えず自分に高い目標を課して、決して満足しないところ。などなど。実際にはもっともっと感心することがたくさんあるのだろうけど、ともかく、このあたりは、うんうん、やっぱり一流と呼ばれる人は違う、などと思いながらテレビの画面をみつめていた。でも、どう考えてもそれだけではない。イチローの核心というのは、なんといっても子供のときからほとんど英才教育的に繰り返してきた圧倒的な練習量であると思う。父親のチチローと一緒に、あきれるくらいの練習を来る日も来る日も繰り返した。それが彼の揺ぎ無い基礎を築いているのだ。こればっかりは、もう凡人がいくら逆立ちしたって到達することのできない境地であり、その道何十年というベテランでないと理解することのできない世界、見えない次元に彼はいるのだと思う。見えている景色が違うのだ。

だから、僕のような凡人が、彼の表面的な部分だけを見て、そこからすべてを学べるか、といったら大間違いで、ただひたすらに自分の仕事に打ち込んでいくことにしか、本当の答えはないように思えた。にわかに彼の真似をしたって駄目なのだ。そこんとこよろしく、なのだ。たとえば、この道何十年、押しも押されないKさんという翻訳者がいるとする。そのとき、Kさんの日常生活や、Kさんが食べている昼食、Kさんが語るかもしれない言葉からは、数十年間の翻訳稼業によって染み出てきた、「シミ」のようなものが見て取れるだろう。そして、周囲は、ああ、なるほどな、よい翻訳者になるためには、こういう考え方が必要なのか、と思うこともあるだろう。でも、それらのシミはあくまでもKさんという個的な存在からにじみ出てきたものに過ぎない気がする。Kさんという個体に、翻訳というエキスを注入して、30年寝かしたら、「すごい翻訳者Kさん」ができた、というわけであって、Kさんという個人の考え方や性格だけが優れていたのではない。もちろん、心構えがあってこそ道は極められるものだし、人格というのも、何かを学ぶうえでとても大切な要素だ。それでも、そのKさんの言葉や考え方、ましてや昼になにを食べているかを(Kさんはラーメンを食べ歩きしているらしい)、誰かが「煎じて飲んだ」ところで、その人にとって効き目のある薬になるかどうかは、わからないと思うのだ。まあ、真似ることから何かが生まれることは否定しなけれど。

イチローの凄さの前に、あたかもイチローという人格がすべての偉業をなしえたかのように思ってしまいがちだが、彼を支えているのは、確かな技術であるわけだし、そしてそれはほぼ30年という気の遠くなる年月をかけて磨きあげられたものだということを、肝に銘じておかなくてはならない。もちろん、等身大の存在のイチローを見ることによって、彼もまた揺れる心と日々戦っている一個の人間なのだと思ったし、個性的な性格の彼の日常を垣間見せてもらうことはとても興味深かった。でも、くどいけど、こうした記号としてのイチローのなかに彼の本当の凄さをすべて還元することはできない。そして、本当に彼から何かを学びたいのであれば、彼のような輝きと感動を自分の世界で実現したいと思うのであれば――彼と同じような偉業を達成することなどは望むべくはないとしても――、自分なりのメソッドで、日々努力を続けることを、それこそ何十年も飽くことなく続けることにしか道はないと思うのだ。

――ファンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的な結果を残すこと。それがプロです――。圧倒的な結果を残し続けること、それがプロフェッショナルだと語るイチローの言葉に、胸を衝かれる思いがした。




ひとり上手

2008年01月02日 20時02分52秒 | ちょっとオモロイ
近所の、猫の集会場になっている公園に、ジョギングがてらおせちの残りを持っていく。海老、こはだ、ぶり、などなど。正月だもん、ネコだって美味しいものが食べたいに違いない。いてくれるかな~? と胸を躍らせながら、狭い公園に足を踏み入れた。ご馳走だよ~と声をかけるまでもなく、いたいた、5匹の猫たちがいつものようにたむろっていた。ここの猫たちはあまり人間になれていない。ここは、すぐ脇は車がビュンビュン一日中通っている大通りだし、結構人通りの多い歩道に面している、猫の額ほどしかない狭い公園だ(5坪くらいしかない)。だから、猫たちは否がおうにも人目について、その分、可愛がる人もやたらと多いけど、意地悪な人もいるに違いないと思ってる(ヤンキーのお兄さんお姉さんがネコなんてまったく眼中に入れないで一服してたりする)。きっと、怖い目にもあっているのだろう。だからなのか、どんなにたくさんエサをもらっても、ここの猫たちは人間に対する警戒心を捨てることがない。それでも、少々ストレスフルな環境であっても、猫たちにはここしか居場所がないのだ。よほどのことがないかぎり、この落ち着かない公園で一生、生きていかなくてはならない。それを考えると、いつもこの子たちが不憫に思えてくる。

突然、「エサ、あげてるんですか?」と、後ろから見知らぬ女性の声がする。ドキッとした。猫嫌いの近所の人かもしれないと思ったのだ。(ひぃ~、そんな毎日エサあげてるわけじゃなくてたまたまなんですけど…あ~タイミングわるーっ、ひょっとして、説教されちゃうのだろうか……?)と一瞬嫌な予感がしたのだが、違った。その人も、エサをやりにきたのだ。いつもここにエサを持ってきている知り合いが病気になって来れないから、代わりにやってきたのだという。ええ話やないですか。では、一緒にエサをやりましょう、という意外な展開になる。寄せ鍋ならぬ、寄せエサだ。彼女は、かなり豪華なキャットフードを山盛り持ってきていた。ネコたちよ、食べてくれ。そして精一杯生きてくれ。病臥の知り合いも、きっと喜んでいるだろう。もりもりとエサを食べ始めた小さな生き物たちをみていると、幸福感と切なさが入り混じったような、なんともいえない気持ちに包まれてしまう。

ジョギングの帰り、もう一度公園を覗いてみた。あんなにたくさんあったエサはほとんどなくなっていて、一匹のシロネコだけが、ちくわと遊んでいた。そう、なぜかちくわを食べようとせず、やっこさんは文字通りちくわと戯れていた。よく、ねずみをとってきたネコが、自慢げに瀕死の(あるいはすでに息絶えた)獲物を何度も何度ももてあそび、いたぶったりすることがあるけど、あれと同じ。まったくぴくりともしないちくわを相手に、少し離れた距離から突然ジャンプして襲い掛かり、さあつかまえたぞ!ってな空気をビンビンに発して、満足げな表情を浮かべたと思えば、急に手元のちくわを掴んでたちあがり(二本足で)まるで釣ったばかりの魚がからだを捻って釣り人(猫)の手から逃れようとしているのをなんとか肉球で押さえようとしているみたいなしぐさをしたりする。おっとっと、なかなかこのちくわ、イキがいいじゃねえか、みたいな。あるいは、ボールリフティングに熱中するロナウジーニョ状態。ゴロゴロ地面に転がったり、回転したり、またジャンプしたり、激しく身体を動かしながらも、ちくわをけっして離そうとはしない。ちくわは友達。ちくわを体の一部のように扱っている。見事なちくわコントロール。それにしても、このネコ、いったいどうしちゃったんでしょうか。誰か、エサにマタタビでも混ぜてたんじゃないだろうか。あまりにも芸が見事なので、しばし見とれてしまった。サッカー選手が飽きもせずボール遊びに熱中するの、あれは人間だけじゃなくて、少なくともネコとも共通する本能なんだな、ってことがよくわかった(ちなみに、ぼくもリフティングは好きだったんです。昔から、ひとり上手だったんです)。

さあ、仕事仕事。それにしても、あのネコ、ちくわ一本であれだけ自分を楽しませるなんて、すごい。天才だ。ぼくも、あの気持ちで翻訳しなきゃだね。でも実は、最近なかなかハイテンションで翻訳の世界に入り込むことができなくなっていて、ちょっと困ってるんだ。人間にも、効果があったらいいのにな~。マタタビ。

「のだ」駄目カンタービレ

2008年01月01日 23時29分50秒 | 翻訳について
あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。
皆様にとって、2008年が素晴らしい年になりますように!!

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さて、ものすごく唐突だけど、新年早々あることを告白したい。

ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きだ。

もちろん、これは「デ・アール」さんよりも「野田」さんの方が好きだという意味ではない。そう、ぼくが言いたいのは、文末の表現のことだ。つまりセンテンスを「~である。」と終わらせるよりも、「~のだ。」で終わらせる方が、――あくまでも個人的な好みの問題として――しっくりくるというか、かっこいいと思えるというか、生理的に好みにあう「のだ」。

もちろん、「である」には「である」の持ち味というものがあって、長い文章のなかには、ここは「である」だろう、という局面も多々あるわけで、そういうときにまであえて「である」を避けようとは思わない。そもそも、文章のタイプによっては、「である」をベースとすることがもっとも適切だと思えるものも多い。学術論文やジャーナリスティックな文章なんかがそうだ。そういうときは、ぼくも「である」を連発するし、そのことについてまったく気にならない。気になるのは、たとえば、いま書いているような文章もそうだけど、書き手の主観がわりと前に出ていて、文末を「た」や「る」で組み立てるのが相応しいと感じられる文章のときに使う、「である」なのである。「である」を使うと、なんとなく、「遠い」感じがしてしまうのだ。

ところで「である」と「のだ」の違いってそもそもなんだろう。実はよくわかっていない。ためしに、冒頭の文章を使って比較してみよう。もともとの文は、「だ」で終わっていた。

A(だ) ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きだ。
B(のだ) ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きなのだ。
C(である) ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きである。

ぼくの印象では、Aの「だ」が一番平坦な感じがする。これに対し、Bの「のだ」はより書き手の熱い気持ちが強く出ているような気がする(ゆえに、ちょっとくどい)。だから、ぼくはここぞ、という文章の末尾によく「のだ」を使ってしまう。起承転結でいえば結のセンテンス。それによって、いくつかの文のまとまりを、「落とす」ことができるような気がするから。では、Cの「である」はどうだろうか。Bよりも客観的で、書き手の精神も落ち着いている感じがする。だから、よくいえば安定しているのだが、逆にいえばどことなく他人行儀な印象も受ける。スピード感もあんまり感じられないし、たたみかけるような効果が出しにくいんじゃないだろうか。言い換えれば、落ち着いた雰囲気の文章には相応しいということなのだけれども。なんか、大学の理系の(ちょっと年配の)先生が書いたエッセイみたいなイメージをどうしても浮かべてしまうのである。※理系の先生のエッセイは好きなのだが、自分のカラーには合わないと思うだけ。

「我輩は猫である」と猫が言うとき、猫は「我輩は(これは自他共に認めることなのだけども)猫だ」と暗黙裡にほのめかしているような気がする。これに対し、「我輩は猫なのだ」と言うときの猫は(猫のフリをしたバカボンのパパの台詞のような気がしないでもないが)、「我輩は(他人がどう思っているかは知らないけども)猫だ」とちゃぶ台を肉球でバンッとたたいて鼻息を荒くしているような姿が想像できる。

「のだ」が活きると思うのは、パラグラフの最後のセンテンスで使うとき。「~た」「~る」
「~い」「~。(体言止め)」などでセンテンスを組み立てておいて、最後にパラグラフの肝の一文で「のだ」を使うと、「決め」が効く場合が多い。もちろん、パラグラフの最後の文以外でも効果的に使うことはできる。でも、なんでも過ぎたるは及ばざるがごとしで、あんまり「のだ」を使うとだんだん文章が本当に天才バカボンみたいになってしまうので気をつけなければならない。一つのパラグラフに二回の「のだ」を使ってしまったときは、見直しのときに注意したほうがいいだろう。でもこれは「である」も同じで、「~である」「~である」を連発されると、なんとなく上からモノを言われているような気がしてなんとも鼻白んでしまう気がするのだ(おそらくぼくの個人的な感覚なのだろうけど)。

「た」と「る」ばかりでは文章が単調になる。だから「である」も「のだ」もおかずとして必要だと思うのだけど、あんまり多すぎると味が濃くなってしまう。なので、ちょっと我慢して使うことを心がけよう。でも、この今の好みもたぶん一過性のものだと思う。今は「のだ」が好きな時期だけなのかもしれない、と思う。使いすぎていると嫌になってくることもあるだろうし、ほかの文章に影響されて、別な語尾を得意技に切り替えることも十分に考えられる。

だから、何年か後には「である」の方が好きになっているかもしれない。
だから、何年か後には「である」の方が好きになっているかもしれないのである。
だから、何年か後には「である」の方が好きになっているかもしれないのだ。

(う~ん、今日のシメとしては、どれがよいのだろうか。だんだん、よくわからなくなってきた……)。