イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

あれから失ったものと得たもの

2008年01月14日 14時50分26秒 | Weblog
寒空にマラソン申し込めば身引き締まり

(解説)3月16日に行われる荒川市民マラソンの申し込みをした。去年はいろいろとバタバタしていたので出場しなかったけど、一昨年とその前の年に続いて、3回目の挑戦だ。初マラソンとなった2005年の大会は、なんとか4時間前半台でゴールした。35km地点くらいまでは本気でサブフォー(4時間以内)いけるんじゃないかと思っていた。ところが、35km地点くらいの給水所でシャーベットを食べたあたりから突然まったく足が動かなくなってしまった。35km過ぎたら魔物が棲んでいる、というのはコレかと思った。まじめに足が折れたんじゃないかと思った。残りは必死に走ったのだけど、というか走っているつもりだったのだけど、沿道をゆっくり歩いている人よりも遅かった。ホンダが開発した二足歩行ロボットASHIMOと同じ動き、速度だった。

翌2006年は、完全な準備不足だった。25km地点で足が折れてしまった。いや、実際には折れていなかったのだが、本当に折れたんじゃないかというほど痛くなってしまった。雨が降って、寒くて、体が凍った。芯から冷えた。今でもまだ寒いくらい冷えた。限界だった。もう一歩も進めなった。他のloserたちと一緒に、沿道のテントに収容された。寒くて痛くて暗くてみじめだった。そこにいる人たちはみな打ちひしがれ、誰も口を開こうとはしなかった。心が折れるとはこういうことを言うのだと思った。

昨日も今日も、とても寒い。寒いのは苦手だ。僕は暑さにならかなりのところまで耐えられる。ランニングは、炎天下でこそやるものだと思っている。でも、残念ながら8月に大会はない。おそらく、そんなことしたら死人がでるからだ。だから、しかたなく寒い季節に大会を走る。ああ、3月の荒川も今日と同じくらい寒いのだろうか。あの寒さと痛さを想像すると、ちょっと怖い。またテントに収容されてしまうのだろうか。でもここで逃げたら男がすたる。俺は逃げない。マラソンは何よりも準備が大切だ。12月あたりからはほぼ毎日走っているし、徐々に調子も上がってきている。完走を、いや自己ベストを目指してがんばろうじゃないか。大会に申し込んでしまった今、残された道は一つしかない。ゴールを目指して走ることだ。さあ、足が折れるのが先か心が折れるのが先か――、ってヲイヲイどっちが折れても困るんだっつーの。

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おもむろに、村上春樹『ノルウェイの森』を読了。かれこれ20年近く前、この小説が流行っていたときに一度読んで、それから友達に貸したらそのまま返してくれなかったので、それっきり再読しないまま今日にいたっていた。読んだときの印象がまったく薄くなっていたので、いつか読み直したいと漠然と思っていたのだ。ちなみに、この小説には京都の京阪三条(とおもわれる)のバスターミナルが出てくる。主人公のワタナベが施設にいる直子に会うためにここからバスに乗るのだ。京阪三条のターミナルのすぐ近くの河原町三条といえば、僕は10年くらいそこを拠点に活動していた。だから、この小説のタイトルを目にすると、あのバスターミナルを思い出す。東京から遊びに来た友達と、わざとそこからバスに乗って大原の方にいったこともある。その人も、この小説のことが好きだといった。とにかく、ずいぶんとあれから月日が経ってしまったので、ストーリーだとかディティールだとか、そういうものはまったく忘れていた。

で、読んでみてちょっと驚いた。もっとロマンチックで、ナイーブな小説かと思っていたら、思っていたよりドライで露骨だった。そして……、ぶっちゃけた話、つまり、あんまりよい小説だと思わなかったのだ。正直、この小説がなぜあそこまでの大ヒットになったのかよくわからない。プロットを作らずに小説を書く事自体はけっして否定しないけれども、物語は場つなぎ的に気まぐれに展開していくだけで、ある意味破綻しているといってもいい。主人公は、何人かの登場人物のところをぐるぐると回っているだけ。そしてその登場人物たちにも、彼らの会話の内容にも共感できない。物語の設定や、登場人物たちの死にもリアリティーがない。だけれども、未だにこの小説が読み続けられているというのは――コマーシャル的にヒットする要因がいろいろとあったのだろうけれども――、なんらかの理由があるのだろうし(露骨な性表現も理由の一つなのだろうか)、やはり作者には人に文章を読ませる力があるということは否定できないのかもしれない。多くの村上作品にとってはある意味お決まりになっている主人公の世の中に対するデタッチメント、乖離加減、主人公の前に都合よく現れる都合のよい女性たち、というのは、案外20年前当時には斬新な感覚を読者に与えたのかもしれない。ともかく、あれだけのヒットになったということは、普段小説を読まない層にも読まれていたはずで、今だったら、ケータイ小説に流れているような層も、当時だったらノルウェイの森を読んだのだろう、という気もする。

というわけで、アンチ春樹の言い分がなんとなくわかったような気がしてしまったのだけど、それでもやっぱりハルキストの自分としては『羊を巡る冒険』や『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』なんかは大好きな小説だし、短編にも面白い作品がたくさんあると思っている。ちなみに、僕が一番好きな春樹さんの本は、『中国行きのスローボード』だ。エッセイストとしての彼のことも、翻訳者としての彼のことも、とても好きだし尊敬している。もっとも、後期の長編小説についてはあまりよい印象を持ってはいないのだけれど。

おそらく、初めてあの小説を読んだのは二十歳くらいのときだったはずだから、それからかれこれ17年近くの歳月が流れたわけだ。当然、当時この小説を読んでいた自分と、今の自分というのは大きく異なっている。その違いが、同じ本を読むことで浮き彫りになってくる。読み進めるうちに、徐々に当時にタイムスリップして、いろんなことを思い出した。失った若さのことを考えると少し寂しいが、それと引き換えに得たものが何であったのかも教えてくれる。そんな気がしたのだった。