イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

2008年01月08日 23時55分49秒 | 翻訳について
歩くほどに金がなくなる吉祥寺

(解説)吉祥寺をウロウロしているとブックオフにいったりラーメンを食べたりするので文字通りお金はなくなるのである。でも、今日意外な事実に気づいた。僕の財布には穴が開いていて(ずっと前から使っているからボロボロなのだ)、小銭がいっぱいのときは――お札がいっぱいのときというステータスはあり得ないのだが――、財布から小銭が漏れる。たまに駅の改札でスイカタッチするときにドバドバって小銭が飛び散ってしまうこともある。なので、ポケットには財布から漏れた小銭がたまっていくことがある。で、最近よく着ているダッフルコートの右のポケットには、ちょうど小銭が通るくらいの穴があいていることに、今日指をまさぐっていたら気づいて、そして、おそらく小銭をそこから落とし落とし歩いていたらしい、という悪い予感が脳裏をよぎったのだった。実際本当にどれだけ落としたのかは知らないけども、かなりの額を落としていてもおかしくはない。そう思うと、急にものすごい額のコインを落とし落とし歩いていたような気がしてくるのだから現金なヤツというか、現金のないヤツというか。それにしても、なんだか雨漏りの水滴を受けているバケツにも穴が開いてるみたいな、なんとも昭和な気分になる。なんて「アナ」ログで、「アナ」クロなんだ、俺って。
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某所にて翻訳についての研究会に参加する。講師は、英国人で長年特許関係の日英翻訳をしているという翻訳者だ。テーマは、日英翻訳の品質について。話せば長くなるので講義の内容は割愛するけど、つまるところ、彼の翻訳理論の真髄とは、「原文を読み、その内容を理解しそれをいったん視覚化してから、適切なターゲット言語でコンテキストに則した訳文を作成すること」ということだ。ワードバイワードで翻訳するのではなく(そういうのをミラートランスレーションというらしい)、意味の置き換えなのだと。ぼくもまったくもってそれに賛成で、自分と同じ考えを日本語以外の母国語を持つ人の口から聞けたのはとても嬉しかった。でも、原文を本当に理解すること、意味を置き換えて適切な言葉に移し変えること、というのは、簡単そうに見えて実は相当難しいことだ。原理を頭で理解することと実践することは違う。それに、原文の言語的な難しさや内容の高度さは常に大きな壁として目の前に立ちはだかっているのだし、原文を捕まえることができたとしても、果たしてそれを適切な日本語で必ずしも表現できるかということだって相当に怪しい。翻訳はいたってシンプルな真理に基づいているように思えて、その具現化はときにアホちゃうかといいたくなるほど難しいのである。

ところで、そのネイティブの講師の方はとても日本語が堪能だったのだけれど、それでも参加者との質疑応答になると、微妙なミスコミュニケーションが生じているような場面もあった。日本語の質問者も彼が日本語が上手だという安心感もあるのだろう、容赦せずに早口でクリシェたっぷりの抽象的な質問をするし、起承転結ははっきりしないし、もうちょっとわかりやすくしゃべればいいのに、と聞いていてハラハラする。が、実際人前で発言するとしたら自分だって少々舞い上がってよくわからない論旨展開をしてしまうことがほとんどなのだからしょうがないか、とも思ったり。通訳の現場でも、通訳泣かせというかとにかく思いっきり和臭たっぷりの表現をつかって立て板に水のようにしゃべる人がいるというが、それに近い感覚がする。聞いてるこっちが怖くなる。でも、良く考えたら日本語を母国語とする人どうしでしゃべっていても言葉のやりとりのなかで微妙に意味を取り違えてしまうことって日常茶飯事だし、本当に言葉のやりとりって難しいのだな、ってあらためて思った。そして、だからこそ、翻訳ってこんなに難しいのかな、と深く思い知らされた研究会だった。翻訳やバーバルコミュニケーションにも、気がつかないうちに陥ってしまう穴が多くあるということ、なのだろう。

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『深爪』中山可穂を読了。