イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

「のだ」駄目カンタービレ

2008年01月01日 23時29分50秒 | 翻訳について
あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。
皆様にとって、2008年が素晴らしい年になりますように!!

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さて、ものすごく唐突だけど、新年早々あることを告白したい。

ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きだ。

もちろん、これは「デ・アール」さんよりも「野田」さんの方が好きだという意味ではない。そう、ぼくが言いたいのは、文末の表現のことだ。つまりセンテンスを「~である。」と終わらせるよりも、「~のだ。」で終わらせる方が、――あくまでも個人的な好みの問題として――しっくりくるというか、かっこいいと思えるというか、生理的に好みにあう「のだ」。

もちろん、「である」には「である」の持ち味というものがあって、長い文章のなかには、ここは「である」だろう、という局面も多々あるわけで、そういうときにまであえて「である」を避けようとは思わない。そもそも、文章のタイプによっては、「である」をベースとすることがもっとも適切だと思えるものも多い。学術論文やジャーナリスティックな文章なんかがそうだ。そういうときは、ぼくも「である」を連発するし、そのことについてまったく気にならない。気になるのは、たとえば、いま書いているような文章もそうだけど、書き手の主観がわりと前に出ていて、文末を「た」や「る」で組み立てるのが相応しいと感じられる文章のときに使う、「である」なのである。「である」を使うと、なんとなく、「遠い」感じがしてしまうのだ。

ところで「である」と「のだ」の違いってそもそもなんだろう。実はよくわかっていない。ためしに、冒頭の文章を使って比較してみよう。もともとの文は、「だ」で終わっていた。

A(だ) ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きだ。
B(のだ) ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きなのだ。
C(である) ぼくは、「である」よりも「のだ」の方が好きである。

ぼくの印象では、Aの「だ」が一番平坦な感じがする。これに対し、Bの「のだ」はより書き手の熱い気持ちが強く出ているような気がする(ゆえに、ちょっとくどい)。だから、ぼくはここぞ、という文章の末尾によく「のだ」を使ってしまう。起承転結でいえば結のセンテンス。それによって、いくつかの文のまとまりを、「落とす」ことができるような気がするから。では、Cの「である」はどうだろうか。Bよりも客観的で、書き手の精神も落ち着いている感じがする。だから、よくいえば安定しているのだが、逆にいえばどことなく他人行儀な印象も受ける。スピード感もあんまり感じられないし、たたみかけるような効果が出しにくいんじゃないだろうか。言い換えれば、落ち着いた雰囲気の文章には相応しいということなのだけれども。なんか、大学の理系の(ちょっと年配の)先生が書いたエッセイみたいなイメージをどうしても浮かべてしまうのである。※理系の先生のエッセイは好きなのだが、自分のカラーには合わないと思うだけ。

「我輩は猫である」と猫が言うとき、猫は「我輩は(これは自他共に認めることなのだけども)猫だ」と暗黙裡にほのめかしているような気がする。これに対し、「我輩は猫なのだ」と言うときの猫は(猫のフリをしたバカボンのパパの台詞のような気がしないでもないが)、「我輩は(他人がどう思っているかは知らないけども)猫だ」とちゃぶ台を肉球でバンッとたたいて鼻息を荒くしているような姿が想像できる。

「のだ」が活きると思うのは、パラグラフの最後のセンテンスで使うとき。「~た」「~る」
「~い」「~。(体言止め)」などでセンテンスを組み立てておいて、最後にパラグラフの肝の一文で「のだ」を使うと、「決め」が効く場合が多い。もちろん、パラグラフの最後の文以外でも効果的に使うことはできる。でも、なんでも過ぎたるは及ばざるがごとしで、あんまり「のだ」を使うとだんだん文章が本当に天才バカボンみたいになってしまうので気をつけなければならない。一つのパラグラフに二回の「のだ」を使ってしまったときは、見直しのときに注意したほうがいいだろう。でもこれは「である」も同じで、「~である」「~である」を連発されると、なんとなく上からモノを言われているような気がしてなんとも鼻白んでしまう気がするのだ(おそらくぼくの個人的な感覚なのだろうけど)。

「た」と「る」ばかりでは文章が単調になる。だから「である」も「のだ」もおかずとして必要だと思うのだけど、あんまり多すぎると味が濃くなってしまう。なので、ちょっと我慢して使うことを心がけよう。でも、この今の好みもたぶん一過性のものだと思う。今は「のだ」が好きな時期だけなのかもしれない、と思う。使いすぎていると嫌になってくることもあるだろうし、ほかの文章に影響されて、別な語尾を得意技に切り替えることも十分に考えられる。

だから、何年か後には「である」の方が好きになっているかもしれない。
だから、何年か後には「である」の方が好きになっているかもしれないのである。
だから、何年か後には「である」の方が好きになっているかもしれないのだ。

(う~ん、今日のシメとしては、どれがよいのだろうか。だんだん、よくわからなくなってきた……)。