イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

あの鐘を鳴らすのは君だ

2009年05月06日 23時36分39秒 | 翻訳について
自分はどんな本を訳したいのか? と漠然と考えるとき、いろいろと思うことはあるのだけど、なんとなくピンとこない部分もある。でも、面白そうな原書を見つけて「あ、これ自分が訳したい!」と思うとき、それが現実のものになるかどうかは別として、そこで初めてそれまではっきりとは意識していなかった自分の趣向のようなものが見えてくることもある。この本はできれば他の人に渡したくない、と心から思えたら、たぶんかなりの確率でそれは自分にとって相性のいいテキスト、愛情を込められるテキストになるにちがいない。既読であれば、すでに愛情は宿っているかもしれない。当たり前のことかもしれないけど。

あるいは、すでに誰かの手によって訳された書籍を手にとり「ああ、これ自分が訳したかったな~」と地団太を踏むような気持ちになれば、それも自分の趣向に合った書籍であることはほぼ間違いない。訳の質があまりよくないという印象を持つのなら、なおさらその気持ちは強まる。ものすごくひどい訳だったら、「これじゃこの本が浮かばれない」と不遜にも思ったりする。鐘を鳴らすべき人が違うと思ってしまう。でも、その訳がとても上手で、訳者も名の知れた経験のある人だったら「自分が訳したいと思うけど、この人が相手なら身を引くしかないな」とも感じることもある。考えてみると、それは単に「こんないい本が訳せて、うらやましいな~」と思っているだけなのかもしれない。つまり「自分こそが」と心から思えない時点で、そこに「運命の赤い糸」的なものを見出すことはできない。その本を訳したいな、と大勢が思う中の、one of them に過ぎない。

それでも「自分が..」という気持ちが揺るがない場合、そこには何か特別なものがあるはずだ。自分より翻訳がうまい人など世界にはごまんといるはずなのだから、そう思ってしまえるのは単に傲慢で自分が見えていないだけなのかもしれない。だけど、本によっては「これは自分が訳したら絶対にいいものになる!」と強烈に感じるものもある。どんな大御所が相手だって「この分野のこの本だったら負けることはない!」と思えたら、やっぱりそれがその人の進むべき道になるのだと思う。そしてその通りに快心の仕事ができたら、こんなに喜ばしいことはない。それは出版社にとっても、読者にとっても幸福なことだ。

もちろん、仕事を依頼されて、翻訳をすることもとても楽しい。自分で本を探すのがお気に入りの店で気に入った服を買うことなら、出版社の人に依頼された本を訳すのは、他人に見つくろってもらった服を着るようなものだ(得てして、他人の見立ての方がよかったりする)。人から選んでもらんだ服を身につけることで、新たな自分を発見することもある。いろんな服を着ることで経験値が上がり、ファッション全般を見る目も肥えていく。

本にはジャンルや分野がある、だけど、1冊1冊が違う顔を持っている。たとえ同じ著者が書いた同分野の本であっても、Aはぜがひでも訳したいけど、Bはなんだか嫌だ、と思うこともある(現実にそういう場面に直面したことはないから、あくまでそう思っているというだけの話なのだけど)。そういう意味では、やはり常日頃から自分の趣向や特性を意識して、本を探し、「これだ!」と思うものを見つけることが大切だ。といいつつ、これまでの僕はほとんどそういう活動をしてこなかったので、これではいかんと、ここ最近はAmazonをそういう視点で彷徨っている。今日は、あわよくばという期待を込めて、某格闘技関係の洋書を注文した。いきつくところは、この分野? 現在のMMA界で最強と言われる、僕の大好きなエミリヤエンコ・ヒョードルの本があったので思わず興奮してしまったのだけど(今まで知らなかったなんて不覚)、それは彼個人の人生ついて書かれたものであるというよりも、彼の格闘技のテクニックの解説本みたいなものだった。残念ながら、その内容にも興味があるとはいえ、ぜひ自分が訳してみたいとは思わない。なぜなのかははっきりとはわからないけど、こういうところからも意外な自分の好みというものがわかってくるのだと実感した。

もっと自分の趣向にあったヒョードル本なら、ぜひに訳してみたい。ぶっちゃけ、誰が相手だろうが負けない自信はある。否、負けるかもしれないが、もし誰かがその本を訳すのなら、ぜひ負かしてほしいと思う。つまり、こちらが納得するだけのいい訳をして欲しいと思う。ヒョードルにも格闘技にも興味のない人には訳して欲しくない。逆に言えば、自分がやっている仕事も、常に他の翻訳者からそういう目で見られている可能性があるということなのだ。そう考えると怖いものもあるので、やっぱり出版翻訳は自分をプッシュする部分と身を引く部分をはっきりとさせるべきなのかもしれない。もちろん来たチャンスは逃しちゃいけないというのも別の側面では確固とした鉄則であるわけなのだけど。