イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

姉さん、事件です

2009年05月30日 23時19分36秒 | Weblog
京都に住んでいた学生時代、二つ上の姉も京都で学生をしていた。歩いて10分くらいの距離で、お互い一人暮らしをしていた。めったに会わなかったけど、筆まめの姉はちょくちょく葉書をくれた。A型の彼女はO型でおおざっぱを絵に描いたような僕とは正反対の几帳面な性格で、葉書には定規で測ったみたいに正確な行と列のなかに、小さい字でびっしりと近況が綴られていた。姉は烏丸今出川にある某D女子大に通い家政科を専攻、合唱部に在籍していた。


姉さん、事件です。風邪を引きました。


風邪を引いて、どうにも頼る相手がいなくなると、そうやって姉に電話した。はじめての一人暮らしだった僕は、病気になったらなんだか妙に心細くなってしまうのだった。決まって、お店にご飯を食べにおいで、と言ってくれた。姉は烏丸今出川にある蕎麦屋さんでバイトをしていたのだ。フラフラになってそこに行くと、姉が「おざちゃん、大丈夫?」と心配してくれた。僕の名前は「おさむ」なのだけど、なぜか姉だけには昔から「おざ」と呼ばれているのだ(なぜだかはわからない)。僕の定番は、カツ丼か、カレーうどんだった。言うまでもないけど、蕎麦屋のカツ丼とカレーうどんは、美味しい。なぜか? 出汁が利いているから? そうかもしれない。だがここであらためて「なぜか」を問うのは愚問だ。それは宇宙の真理なのだ。食べたら、体に力がみなぎってくるような気がした。カツ丼とカレーうどんの効果は絶大で、しばらくすると、決まって風邪は治まってくれるのだった。

風邪を引いていてもいなくても、姉はいつも支払いは要らないといってくれた。代金を立て替えてくれていたのだ。当時、おそらくバイト代は1時間600円とか700円とか、そのくらいだったと思う。カツ丼もカレーうどんの値段は、ちょうど1時間分の稼ぎと同じくらいだ。つまり1時間働いた分が、ぼくのカツ丼で消えてしまう。だけど姉は、まったくそんなことは気にしていないようだった。「お金はいいからね」と言うときの彼女は、なんだかものすごく気前がよくて、頼もしく見えた。忙しくしてるだろうに、お金だってそんなにないだろうに、長女でしっかりものの真面目な姉なのに、てきぱきとお客さんをさばいているそのときの彼女の後ろ姿が、「そんなことどうだっていいのよ」と言っているように思えた。

だからいつまでたっても、僕はカツ丼が好きだし、カレーうどんが好きなのだ。今日は久々に自分でカツ丼を作ってみた。意外と美味しかった。カツ丼を食べるといつも姉を思い出す。ただそれだけなのだけど。

今、年をとった自分は、もう風邪を引こうが仕事で窮地に追い込まれようが、昔、姉に庇護を求めていたように、誰かに助けを求めようとするようなことはなくなってしまった。それがたんなる強がりであったとしても、自分の力でなんとかしてやろう、となぜだかそう思ってしまうのだ。他人に迷惑をかけるくらいなら、自分が苦しんだほうがマシだと。だけど、たまには誰かに甘えたっていいのかもしれないな~、なんて、カツ丼を食べながらしみじみしてしまった夜だったのでした。まあ、事件は起きないに越したことはないんだけど。