ここで寅王丸が出演するとは驚きでした
それも、平蔵にそそのかされ刺客として
信玄を狙うとは
父の諏訪頼重や姉の由布姫の事をあれだけ
云われると憎悪が込み上げて来ますよね。
鎌倉幕府の二代将軍、源頼家の子供の公暁
が叔父の三代将軍実朝を殺した事件とだぶっ
てしまう僕なのです
ブログで何度か書いていますが、実のところ
寅王丸のその後の消息は全く分かっていない
のです
おそらく、人知れず殺害されたのでしょうが…
幼名の寅王丸は事実で、寅年に生まれたので
命名されたそうです。
後に「千代宮丸」と改名したという説も有り
ますし、その後僧籍に入り長岌(ちょうきゅう)
となったと云う説も有るのです。
今回のドラマではこの説を採用したのでしょうね
折角改心した寅王丸に罵声を浴びせる義信、やはり
器が小さいのでしょうね
大々名の武田家の当主としては、物足りなさを感じ
るのは僕だけでしょうか??
どこかの小大名の息子に生まれていれば、違った
人生だったのかも知れませんね
寿桂尼に怒りを覚える勘助
武田家側から見ると、勘助の怒りも理解出来るのですが…
寿桂尼は雪齋亡き後の今川の実質的な軍師?かも知れません。
信玄と義元の戦いではなく、勘介と寿桂尼の戦いの始まりですね
自ら寅王丸に会い、信玄を亡き者にする為に善人を演じる寿桂尼。
したたかさでは雪斎の上をいっているのかも知れません
寿桂尼、正式には「瑞光院寿桂尼」
中流の公家、中御門宣胤の娘なのですが、本名はこれまた
不明なのです
自分の夫、今川氏親の死後、跡を継いだ息子の氏輝を補佐
したと云うのですが、自らの名前で領国支配の文章を発給
している処を見ると、実質的に今川を動かしていたのは彼女
だったと思うのです
戦国時代に女性が国を動かした例は、寿桂尼意外に僕は記憶
が無いのです
女戦国大名とも言われている所以ですよね。
そう云う意味では、彼女は北条政子以来の女傑なのです
差し詰め、戦国大名、今川寿桂尼と云った処でしょうか
北条政子と違うところは、実家の為ではなく子供の為に政務
をとったところなのです。
氏輝も義元もそうですが、子供が一人前になると政務から身
を引くのです。
勿論、全く係わり合いを持たなかった訳では有りませんが…
寿桂尼が領国の差配をしたのは、息子の氏輝が家督を継いだ
14歳から20歳の間らしいのです。
ところが、氏輝の世は長くは続きません
24歳で亡くなった氏輝なのですが、その死にも謎が残ります。
氏輝が亡くなった日に同母弟彦五郎も亡くなってしまいます。
毒殺であったかも知れません。
いや、多分毒殺されたのでしょうね
おそらく、この毒殺?事件は、三男「玄広恵探」の母の実家、
福島氏の策謀ではないかと僕は思っているのですが、今川家は
内紛の耐えない家なので可能性は大いにあるのです
二人の子供を亡くした寿桂尼ですが、悲しみに暮れている時間
はありません。
急いで跡取りを決めなければならないのです。
候補は二人
三男で重臣の福島氏の娘が生んだ「玄広恵探」と五男で寿桂尼
が生んだ「梅岳承芳」の争いとなるのです
このドラマの最初の方でも放映されましだが「花倉の乱」の勃発
ですね
「梅岳承芳」の後見人でもあった雪齋の力もあり、「梅岳承芳」
が大多数の家臣の賛同を受け勝利を得るのです
氏親の死後、家督を継いだ氏輝の補佐をした寿桂尼の政治手腕
にも家臣たちが期待したのではないでしょうか
おそらく、事実はその辺に有ったのではないかと僕は想像して
いるのです
争いの後には平穏を求めるのが人間の心理だと思うので
後を継いだ「梅岳承芳」は義元と名を改め、今川家の最盛期を
作るのですが、おそらく寿桂尼が一番穏やかに暮らした時期
ではなかったでしょうか
しかし、絶頂は長続きはしません。
まさか義元が、桶狭間で織田信長に負けるとは、さすがの
寿桂尼自信にも想像出来なかったでしょうね
その後、色々ありますが寿桂尼は1568年に亡くなったといいます。
寿桂尼の死後一年弱で今川家は滅びてしまいます
寿桂尼の死と共に今川家は滅びたと言っても云い過ぎではないのです。
寿桂尼は、今川家の絶頂から衰退の全てを共にした事になるのです。
夫の氏親とは親子ほど年が離れていたみたいですが、夫婦仲も良く
女性として決して不幸な人生ではなかった様です
盛者必衰を目の当たりにしてきた寿桂尼の人生、人の一生とは
つくづく諸行無常なものですね
それも、平蔵にそそのかされ刺客として
信玄を狙うとは
父の諏訪頼重や姉の由布姫の事をあれだけ
云われると憎悪が込み上げて来ますよね。
鎌倉幕府の二代将軍、源頼家の子供の公暁
が叔父の三代将軍実朝を殺した事件とだぶっ
てしまう僕なのです
ブログで何度か書いていますが、実のところ
寅王丸のその後の消息は全く分かっていない
のです
おそらく、人知れず殺害されたのでしょうが…
幼名の寅王丸は事実で、寅年に生まれたので
命名されたそうです。
後に「千代宮丸」と改名したという説も有り
ますし、その後僧籍に入り長岌(ちょうきゅう)
となったと云う説も有るのです。
今回のドラマではこの説を採用したのでしょうね
折角改心した寅王丸に罵声を浴びせる義信、やはり
器が小さいのでしょうね
大々名の武田家の当主としては、物足りなさを感じ
るのは僕だけでしょうか??
どこかの小大名の息子に生まれていれば、違った
人生だったのかも知れませんね
寿桂尼に怒りを覚える勘助
武田家側から見ると、勘助の怒りも理解出来るのですが…
寿桂尼は雪齋亡き後の今川の実質的な軍師?かも知れません。
信玄と義元の戦いではなく、勘介と寿桂尼の戦いの始まりですね
自ら寅王丸に会い、信玄を亡き者にする為に善人を演じる寿桂尼。
したたかさでは雪斎の上をいっているのかも知れません
寿桂尼、正式には「瑞光院寿桂尼」
中流の公家、中御門宣胤の娘なのですが、本名はこれまた
不明なのです
自分の夫、今川氏親の死後、跡を継いだ息子の氏輝を補佐
したと云うのですが、自らの名前で領国支配の文章を発給
している処を見ると、実質的に今川を動かしていたのは彼女
だったと思うのです
戦国時代に女性が国を動かした例は、寿桂尼意外に僕は記憶
が無いのです
女戦国大名とも言われている所以ですよね。
そう云う意味では、彼女は北条政子以来の女傑なのです
差し詰め、戦国大名、今川寿桂尼と云った処でしょうか
北条政子と違うところは、実家の為ではなく子供の為に政務
をとったところなのです。
氏輝も義元もそうですが、子供が一人前になると政務から身
を引くのです。
勿論、全く係わり合いを持たなかった訳では有りませんが…
寿桂尼が領国の差配をしたのは、息子の氏輝が家督を継いだ
14歳から20歳の間らしいのです。
ところが、氏輝の世は長くは続きません
24歳で亡くなった氏輝なのですが、その死にも謎が残ります。
氏輝が亡くなった日に同母弟彦五郎も亡くなってしまいます。
毒殺であったかも知れません。
いや、多分毒殺されたのでしょうね
おそらく、この毒殺?事件は、三男「玄広恵探」の母の実家、
福島氏の策謀ではないかと僕は思っているのですが、今川家は
内紛の耐えない家なので可能性は大いにあるのです
二人の子供を亡くした寿桂尼ですが、悲しみに暮れている時間
はありません。
急いで跡取りを決めなければならないのです。
候補は二人
三男で重臣の福島氏の娘が生んだ「玄広恵探」と五男で寿桂尼
が生んだ「梅岳承芳」の争いとなるのです
このドラマの最初の方でも放映されましだが「花倉の乱」の勃発
ですね
「梅岳承芳」の後見人でもあった雪齋の力もあり、「梅岳承芳」
が大多数の家臣の賛同を受け勝利を得るのです
氏親の死後、家督を継いだ氏輝の補佐をした寿桂尼の政治手腕
にも家臣たちが期待したのではないでしょうか
おそらく、事実はその辺に有ったのではないかと僕は想像して
いるのです
争いの後には平穏を求めるのが人間の心理だと思うので
後を継いだ「梅岳承芳」は義元と名を改め、今川家の最盛期を
作るのですが、おそらく寿桂尼が一番穏やかに暮らした時期
ではなかったでしょうか
しかし、絶頂は長続きはしません。
まさか義元が、桶狭間で織田信長に負けるとは、さすがの
寿桂尼自信にも想像出来なかったでしょうね
その後、色々ありますが寿桂尼は1568年に亡くなったといいます。
寿桂尼の死後一年弱で今川家は滅びてしまいます
寿桂尼の死と共に今川家は滅びたと言っても云い過ぎではないのです。
寿桂尼は、今川家の絶頂から衰退の全てを共にした事になるのです。
夫の氏親とは親子ほど年が離れていたみたいですが、夫婦仲も良く
女性として決して不幸な人生ではなかった様です
盛者必衰を目の当たりにしてきた寿桂尼の人生、人の一生とは
つくづく諸行無常なものですね