小説って
もうすでに小なのに
短までつける辺り
かなりの少なさを感じる
長編小説とか言われたら
もう狂気の沙汰
いわゆるノベルに対する
日本語訳が間違えたってことかと察します
察するに
明治なりなんかの時の維新なり文化的な改新の際に
当時の本がほとんど分厚く長きに渡って編成されていたのに対して
改新の参考になるものが偉く小さく短い物であったため
当時の日本人達は小説とした
ということでしょう
彼らの正直さ・真面目さの表れでしょう
それは至る所に表れていて
その都度、顔が赤らむような照れ恥ずかしい気持ちになるのですが
年輪を重ねると
タイムスリップじゃないけど、その場にいてその時を共有できるじゃないけど
彼らの身になって物事を考えることができるようになったりすることもあるわけです
ザッツ’文化’
18とか19の時に
なにかに
例えば
サイクロンみたいなタイフーンみたいな豪雨みたいなクロスファイヤーハリケーンみたいな雷雨みたいな洪水みたいな
とにかくすごいものに巻かれたというか、それになっていたような気がしてならないのですが
その時に無性に
いわゆる小説を読みまくった時期があって
言うて芥川・漱石・サリンジャーくらいでしたけど。
貞子も何故か読みました。
サリンジャーのナインストーリーズがいわゆる短編小説の短編集でした。
多分ですけど、原稿用紙数十枚分が9つあるようないわゆる小説でした。
まあ、芥川・漱石・サリンジャーは執筆当時
初老だったりそれ以前だったりしてた筈で、
初老真っ盛りになって
そういう気分がわかるようになった
というのが率直な気持ちです。
若い頃にはなかった欲です。
酔っ払って騒いだり
かっこいい音楽聴いたり
ゲームしたり
車を爆走させたりといった
若い欲は完全に消え失せて
何かを求めだしまして
ずっと考えると
それは短編小説だった
ような気がする