石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 近江八幡市東川町 東川町公民館宝篋印塔

2007-09-18 10:15:09 | 宝篋印塔

滋賀県 近江八幡市東川町 東川町公民館宝篋印塔

近江八幡市の南西端、集落のそばを流れる日野川のすぐ南は竜王町弓削である。集落内南西寄りにある公民館前の広場の南隅に目指す宝篋印塔がある。高さ2.65m、花崗岩製。01_14 基礎は、大半が埋まっているが、ほぼ同形同大の切石二石を並べ、上端に別石の反花座を載せて塔身を受ける。埋まっている基礎下端を確認できないが、田岡香逸氏の報文によるとそのサイズは高さ35.8cm、幅95.5cmで、基礎の下に基壇はなく、直接地上に据えられているという。側面は四面とも素面のようである。反花座は、左右隅弁の間に3弁をはさむ複弁式で、弁間に小花が覗く。反花は比較的平板で傾斜がきつく弁先がやや反るものの花弁全体から抑揚感はそれ程感じない。反花の下に薄い框状の一段を設けている。塔身は四側面に金剛界四仏の種子を薬研彫し、アク面を除き種子の周りに月輪と蓮華座を陰刻する。文字のタッチは弱い。アク面だけは月輪がなく蓮華座のみで、左右に各一行の刻銘がある。肉眼では判読できないが、川勝博士によれば「正和四季(1315年)乙卯八月日願主/源円阿弥陀仏為二親」という。「おそらくこの地方の土豪源氏が在俗出家して円弥陀仏の法名を名のったもので、両親の追善のための造塔」との川勝博士の考察のとおり、鎌倉後期、14世紀前半、大きい宝篋印塔を造立できるだけの経済力のある相応の階層に属する人物である源の某が(法名の阿弥号から浄土教系の影響をみる)両親の供養のためにこの宝篋印塔を造立したことが分かるのである。なお、現状各面と02_23も東西南北が逆で180度方角がずれている。笠は上6段下2段で、軒以下と以上、隅飾が別石である。軒は厚く、各段形はやや傾斜がついて彫成は少々甘い。隅飾は3弧輪郭式で、輪郭が下辺に及んでいる。輪郭内に種子があるようにも見えるが肉眼でははっきり確認できない。川勝博士、田岡氏ともこのことには触れられていないので隅飾輪郭内は素面なのかもしれない。隅飾はかなり長大で先端部は段形の5段目の高さに及びやや直線的に外傾する。相輪は異形で、伏鉢上がすぐ九輪で下請花がなく、単弁の上請花は低く、宝珠との間に広い首03_8部を作り付けている。宝珠は重心が低く押しつぶしたような形状である。九輪は逓減が少ない。川勝博士は基礎と相輪を後補とされ、田岡氏は相輪について後補の可能性を指摘しつつ一具ものとされている。小生としては、このような各部別石式の宝篋印塔では基礎二石の例が少なくないので、基礎は当初からのものとしてよいと思うが、相輪については後補の可能性が高いと思う。このような各部別石式の宝篋印塔は、先に紹介した嵯峨清涼寺源融塔や二尊院塔、誠心院塔や勝林院塔など京都に比較的多く、高山寺式宝篋印塔の流れを汲むものと推定している。この式のものは、大和には、壺坂寺や須川神宮寺、奈良国立博物館など優品があるが、管見の及ぶ限り近江には他に例をみない。しかも紀年銘を有し、その点からも極めて注目すべきものである。なお、傍らにある小形の宝篋印塔の残欠の笠は、室町時代に降りそうな小さいものであるが、よくみると笠上が8段もあって非常に珍しいものである。

参考

田岡香逸 『近江東川と稲垂の宝篋印塔』 「民俗文化」44号

川勝政太郎 『新装版日本石造美術辞典』 215ページ

橋を渡ってすぐ南、竜王町弓削の集落内にある阿弥陀寺に、正安2年銘の立派な宝篋印塔があるのであわせて見学されることをお勧めしたい。


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