石造美術紀行

石造美術の探訪記

古典などに登場する石造(その4)「道陸神発明の事」

2016-02-21 09:19:34 | うんちく・小ネタ

古典などに登場する石造(その4)「道陸神発明の事」
 今回は『百物語評判』の第3巻の2「道陸神発明の事」というお話を取り上げます。石仏のことが出てきます。
内容は、道陸神、つまり道祖神の説明から始まっています。その部分はだいたい次のような感じです。道陸神は道祖神や祖道とも言って、『春秋左氏伝』では「祖す」といい、『袖中抄』には「みちぶりの神」とある…以下和漢の古今の故事を引いて…要するに旅路の安全を祈る神であると…。そのあと話は突如、路傍に捨てられた石仏に進みます。道祖神が旅の安全を祈る神だと説明し、唐突に路傍の石仏に話がとぶのに少し違和感があります。道祖神と石仏が混同されているようです。なぜでしょうか。おそらく当時、路傍の石仏に旅の安全を祈る習慣があったためではないかと思います。そして石仏と墓標に関して説明が続きますが面白いので煩をいとわず原文をあげます。「然るを今の世に、田舎も京も女童部の云ひならはし侍るは、道路に捨てたる石仏、さまざまの妖怪をなし、人を欺き、世を驚かすと云へり。つらつら按ずるに、中昔のころ、なき人のしるしの石をたつとては、かならず仏体をきざみて、其の下に亡者の法名をしるせり。今の石塔毎に名号をゑりつくるがごとし。その法名などは、星霜ふるに随ひて、石とても消えうせ侍るに、仏体ばかりは、鼻かけ、唇かけながらのこりけるを、聞き伝ふるばかりの末々も、はかなく成りうせて、道に捨てられ、岐にはふらかされて、何れの人のしるしとも覚束なし。只、石仏とのみ、みな人おもへり。思ふに仏は抜苦与楽の本願、六波羅蜜の行体なり。菩薩常不経の法身を具し給へば、まして仏体において、人に捨てられ、世に用ひられずとて、かかる災をなし給ふべきや。その妖をなせるは石仏にはあらず。其のとぶらはるべき子孫もなき、亡者の妄念によりて、天地の間に流転せる亡魂、時に乗じ気につれて、或ひは瘧の鬼となり、又は疫神ともなりて、人をなやまし侍るなるべし。それゆへ、世に瘧疾、疫癘はやり侍る時は、道端に捨てられたる石塔を、縄もてしばり、或ひは牛馬の枯骨を門戸にかけて、其の悪鬼をおどし侍る、まじなひあり。…中略…是れ仏をしばるにあらず。其の石塔に属する所の、亡魂をいましめこらすなり。」そして、疫病が快復した後は、縛った石仏を引き続き供養すべき旨が述べられており、こうした理屈をよくわかってない者が行う「まじない」にも効果はあり、最初に「まじない」を考案した者の功績は大きいと結ばれています。
 17世紀後半当時、京都やその郊外で、路傍に捨てられた石仏が怪異をなすと物見高く口さがない若者たちがまことしやかに言っていたというのです。今でいう都市伝説のような感じだと思います。先に取り上げた『平仮名本・因果物語』「石仏の妖けたる事」もその一種かもしれません。小型の
石仏が元は墓標だったことは、山岡元隣のような一部の識者からは認識されていたようですが、一般的にはすでに忘れ去られようとしていたことがわかります。「中昔」というのは、鎌倉・室町時代でしょうか、その頃は石に仏の像容を彫って墓標とし、法名を刻んだのだと言っています。またそれは、江戸時代前期当時一般的だった石塔に名号を刻むようなものだとも言っています。ここでいう石塔は駒型や櫛型の石塔と思われ、選り作るとあるので、六字名号ではなく戒名でしょう。墓標として造立された石仏も長い年月を経て風化が進み、法名は判読不能となり像容もおぼろげになってしまう。祀るべき子孫も絶えて誰の墓標かもわからなくなり、やがて道や巷に放擲されているのだという解釈は、実に的を射ていると思われます。
 現在でも京都や奈良では古い墓地などに中世に遡る小型の石仏(双仏石、
龕仏、像容板碑を含む)がたくさん見られます。おそらくこうしたものを指していると思われます。そして瘧(マラリア)などの疫病が起きると、石仏を縄で縛る「まじない」が行われていたというのはたいへん興味深い話です。この頃は赤い前掛けはまだ無かったのでしょうか…。
 
今日見る小型の石仏の多くは無銘で、紀年銘や法名を刻むのはむしろ稀です。したがって必ず像容とともに法名を刻んだという点は少し正確ではないようです(法名などは墨書されていた可能性もあります…)。ともあれ、石塔に比べ石仏、特に無銘の小型石仏の詳しい研究はあまり進んでいないように思われ実態はよくわかっていません。かなり古い段階から中世を通じて造立されていた可能性もあります。石仏を考える時、『百物語評判』の記述は興味深い示唆を含んでいます。なお、道祖神というと、ふつう男女の神像を彫った石像を思い浮かべますが、これはたいてい江戸中期以降のものらしく、中世以来の小型石仏とは分けて考えるべきかと思います。少なくともここでははっきり「仏」と言っている点は注意すべきです。地蔵や阿弥陀の像容を刻んだ双仏石が、道祖神と混同されはじめたのもこの頃かもしれません。

参考:高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)

『百物語評判』:『諸国
物語評判』ともいい、編者は山岡元恕。貞享3年(1686年)開板。寛文12年(1672年)に42歳で亡くなった俳人で歌学者の山岡元隣が京都六条の自宅で開いた百物語怪談会の話題を一話ごとに批評していく内容です。編者の山岡元恕は元隣の子息で、亡父の遺稿を編集刊行したのだそうです。陰陽五行説を中心に広和漢の典籍を引用してさまざまな怪異現象をQ&A形式で分析・解説していきます。怪談モノと言ってしまえばそれまでですが、当時一流の知識人が、その幅広い知見に基づいて怪異現象を合理的に解釈しようとする姿勢は、むしろ科学的ですらあります。むろん現代の知識からみれば、トンデモなところも含まれますが、卑俗な怪談モノとは一線を画するものです。合理的といっても霊的な世界や信仰宗教を否定しているわけでなく、懐深さのある視点も特長でしょう。江戸時代前期、当時一流の文化人による物事に対する理解の仕方の一端をうかがわせるものと評価できると考えられます。

無縁仏として集積された小型石仏。多くが中世に遡ると見られる(京都市内)


双体の道祖神(現代)「わたしたちは墓標じゃないですよ」

双仏石(三重県伊勢市内 寛永年間)「わたしたちは墓標ですが…何か?」

「そんじゃ、わたしたちは誰なんでしょう?」
辻の小祠に祀られる小型石仏。赤い前掛け&顔が描き直されています。(京都市内)


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