石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 湖南市朝国 観音寺跡宝篋印塔

2009-03-01 23:22:45 | 宝篋印塔

滋賀県 湖南市朝国 観音寺跡宝篋印塔

甲賀市と湖南市の境、南東から北西に向かって流れる野洲川を挟んで南北から丘陵がせまる国道1号線横田橋付近は、川沿いの平地が最も狭隘になる場所である。この付近は渡河地点として野洲川沿いに往来する場合には、必ず通らなければならない交通の要となった場所である。01この横田橋の北方約500mの野洲川北岸、TOTO滋賀工場が位置する丘陵の西麓、物流会社の倉庫裏の雑木林が観音寺の跡とされており、ここに宝篋印塔が残されている。周辺は竹薮や雑木林で西側の水田よりも一段高いなだらかな平坦地で、東側は丘陵斜面に続いている。03丘陵裾の宝篋印塔がある場所だけは下草が刈られ、周囲よりもさらに一段高く、丘陵を背に南北に細長い土壇状に整形されている。宝篋印塔はこの土壇の北寄りの場所にある。脇には小形の五輪塔の残欠数点が無造作に積まれている。切石を組み合わせた一辺約146cmの基壇を備え、その上に基礎を置いている。きめの細かい緻密な感じの花崗岩製である。基壇はやや崩れぎみで下端が埋まっているが、高さは約18.5cmある。相輪を亡失して五輪塔の空風輪が代わりに載せてある。基礎から笠上までの現高約153cm。基礎の幅は約80cm、高さ約58cm、側面高約45cm。上2段式で、各側面とも輪郭枠取りとし、輪郭内にいっぱいに大ぶりな格狭間を入れる。輪郭の幅は比較的狭く、格狭間は、花頭部分が伸びやかに水平方向に広がり、左右の側線がはスムーズな曲線を描いてに短い脚部につながって整った形状を示す。輪郭内、格狭間ともに比較的彫りが深く、格狭間内は珍しく四面とも素面で近江式装飾文様は作らず平板に調整されている。基礎南面向かって左の束部分と西面向かって右の束部分に刻銘がある。「正和二年(1313年)癸丑三月十八日奉造/立之願主沙弥道念敬白」とあるらしいが、肉眼では部分的にしか判読できない。塔身は幅、高さとも約40cm。各面とも素面で正面、西側に「法界」の2文字を陰刻している。通常、宝篋印塔の塔身には四仏の像容か種子を表現するのが一般的であり、このような事例はまず見かけない。もっとも石材の質感や風化の程度が笠や基礎と若干異なることから、塔身は後補と思われる。現状の塔身でもサイズ的には違和感はないが、基礎上端の幅が約52.5cm、笠下端幅が約50cmであることから本来の塔身は若干(2cm前後)大きかったのではないかと思われる。05笠は上6段下2段で、軒幅約76cm、高さ約55cm。上端幅は約28cm。軒から2cm弱入って直線的にやや外傾する隅飾は、基底部幅約23cm、高さ約27cmと大ぶり。三弧輪郭付で、輪郭枠取の幅は約2.5cmと薄い。輪郭内は各面とも素面とし、装飾的なレリーフなどは見られない。現在失われている相輪について、池内順一郎氏は、大正15年刊の『甲賀郡志』にある台石を含む高さが8尺6寸5分(約260cm)との記事から、大正頃には相輪が残っていたものと推定され、基壇を含む現高から、相輪の高さが約87cmであったと推定されている。とすれば復元塔高は約240余cmとなり、まさに8尺塔となる。今の塔身は風化の程度から、補われた時期がかなり古いようであり、大正年間まであったらしい相輪が後補でない確証はないものの、まだそのあたりの藪の中などに転がっている可能性もある。なお、基壇と笠、基礎については、石材の質感やサイズから当初からのものとみて支障ないであろう。近江式装飾文様などの装飾的レリーフが見られないのでやや寂しい感じもするが、非常にシャープな全体的な彫成の出来映えとあいまって逆にスッキリした印象を与える。02_2なお、この石塔は古くから地元で「時頼小塔」と呼ばれ、最明寺入道道崇、すなわち執権北条時頼の供養塔との伝承がある。お忍びで全国を巡廻した時頼が朝国山観音寺の開基と伝えられているようで、正和2年は弘長3年(1263年)11月に没した彼の50年忌に当たる。興味深い話ではあるが事実関係については不詳とするしかない。観音寺は明治初期に廃寺となり、集落内の西徳院に併合されたらしく、今、現地には宝篋印塔や若干の石塔残欠のほかに何も残っていない。田岡香逸氏は、庶民仏教の所産である石塔類が、権門たる寺社の境内に建てられることはなく、たいていは埋め墓に立てられ、現在も寺社に残る石塔類は後世に移建されたか、近世の寺院がおしなべて中世の埋め墓の上に建てられているためだとする持論を元に、この場所が寺院の立地場所としてふさわしくないと判断されているが、丘陵裾が平坦に整地され、低い土壇状に整形された場所があるなど、いかにも寺院跡の趣を漂わせており、田岡氏の説を支持することはできない。このほか雑木の中には鎌倉時代に遡りうる大きい五輪塔の空風輪が転がっており、往時の寺観を彷彿とさせるものがある。市指定文化財。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 6~7ページ

   田岡香逸 「近江蒲生郡と甲賀郡の石造美術」(後)『民俗文化』131号

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 376、419~412ページ

   平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25

現地には説明板がありますが、非常に目立たない場所に立っている宝篋印塔で、捜すのに苦労しました、ハイ。

写真上左:どうですこの威厳にみちた佇まい。シビレますね。写真上右:三弧隅飾の裏側を上から見たところです。珍しいアングル。色っぽい「うなじ」ですね。カプスに沿って裏側まで溝を彫ってしっかり作り込んでいるのがわかると思います。写真下左:基壇が崩れかかっています。写真下右:近くにあった大きい五輪塔の空風輪。手前の四角いのはタバコの箱です。一抱えくらいはありました。