石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 高島市新旭町針江 日吉神社宝塔及び板碑

2009-03-10 23:30:39 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市新旭町針江 日吉神社宝塔及び板碑

針江集落の西寄り、鳥居の前を流れる水路の澄んだ水が印象深い日吉神社は、永仁2年開基の石津寺の鎮守社として寺と同時に創建されたと伝えられる。祭神は玉依姫。明治初期までは石津十禅師と称した。22境内は手入が行き届き、社杜の木立は遠くからもよく目立つ。石津寺の方はすっかり退転しているが今も境内を接するように小宇が残されている。拝殿の北東側の境内東側、椋の巨木の根元に古い石造宝塔が立っている。17あるいは石津寺の遺品なのかもしれない。宝塔の北側には板碑が、南側には層塔の残欠が接するように並んでいる。宝塔は花崗岩製で直接地面に基礎を据えているらしく基壇や台座は確認できない。相輪を亡失し、現高約200cm余。元は10尺塔と推定される巨塔である。基礎は幅が約93cmもあって、高さは約56cm、側面は四面とも素面で、西側正面に2行にわたり「徳治弐年丁亥/11月日」の刻銘があるとされる。摩滅が進み辛うじて文字らしきものがあるのが認められる程度で肉眼では判読できない。塔身は軸部、匂欄部、首部の3部を一石で彫成し、高さ約83cm。円筒形の軸部は素面で鳥居型などの装飾は見られない。匂欄部、首部ともにやや高さがあってその分軸部の高さが足りない感じを受ける。笠は軒幅約80cm、笠裏には2段の段形により斗拱部を刻出する。軒口は厚く、隅に向かって厚みを増しながら反転する軒反は、下端に比べ上端の反りが目立つものの非常に力がこもっている。頂部には露盤を削りだし、四注の隅降棟の突帯は、断面かまぼこ状で明確な三筋になっていない。露盤下で左右が連結するのは通例どおりである。12相輪の代わりに五輪塔の空風輪を載せている。基礎と塔身のサイズに比べ笠がやや小さい感じがありアンバランス感を禁じえない。塔身首部の径が約40cm、笠裏の下端の幅が約42cmでほとんど同じ幅である点も不審である。石材の質感や風化の程度からは違和感はなく接合面の枘などを観察しないと即断できないが、笠は別物の可能性も完全には否定しきれないように思う。もっとも田岡香逸氏は一具のものとして支障ないと判断されており、もともとこういうデザインだったのかもしれない。格狭間や鳥居型などの装飾的表現を排したシンプルさは、笠の軒の力強さとあいまって何というか質実剛健な印象を受ける。石造宝塔の多い湖西でも屈指の巨塔で、徳治2年(1307年)の紀年銘がある点も貴重。また、宝塔の北側に2本の石柱が立っているのを見逃してはならない。これは近江では比較的珍しい板碑である。花崗岩製で石材の性質上、平らに彫成するのが難しいため、関東に多い扁平なタイプの板碑ではない。それでも幅が奥行きに勝る柱状を呈する碑伝系もので、現在の地上高はそれぞれ約1.2m前後、幅約36cm程である。手前西側の石柱は上端を山形に尖らせ、その下に2条線を刻み出し額部に続く。山形の先端は少し欠損している。23二条線及び額部の彫りは正面だけでなく左右側面に及んでいる。平らに彫成した身部に枠線はなく、正面上寄りに薬研彫された大きい梵字が上下に配されている。上は金剛界大日如来の種子「バン」、下は胎蔵界大日如来の種子「ア」で、金胎大日の種子碑というべきものである。東側後方のものは素面の断面長方形の石柱状で上端に円形の枘穴があり、前後の石を継ぎ合わせていたものと考えられている。2つあわせた高さは3mを越えると推定されている。現状では銘は確認できないが、埋まっている部分におそらく銘があるものと田岡香逸氏は述べておられる。また、田岡氏は日野町村井の杜氏墓地の延慶3年(1310年)銘の板碑などとの比較から、延慶初年から2年頃のものと推定されている。形状や細部表現の比較だけで1年や2年の違いを実証するのはいくらなんでも困難であると思われるので「延慶初年から2年」というのをそのまま受け入れることはできないにしても、造立年代として鎌倉時代後期14世紀初め頃というのはひとつの見方であろう。ただ、小生は種子の書体や二条線の切れ込みや額部の彫成にいまひとつ鋭さが感じられないことからもう少し新しく14世紀中葉頃に降るように思う。この点、後考を俟つしかない。南側の層塔残欠は、四面素面の基礎、四方仏の像容を舟形光背形に彫りくぼめた中に半肉彫りする初重塔身軸部、それに笠が1枚残る。五輪塔の水輪を一番上に載せている。塔身軸部と笠は一具のものと思われるが、基礎は風化の程度が異なり、別物か五輪塔の地輪かもしれない。寄せ集めの残欠に過ぎないがこれらも中世に遡る古いものである。

参考:田岡香逸 「近江の石造美術2」 民俗文化研究会

写真ではあまり大きさを感じませんが宝塔は相輪を欠いた現状でも2mを越える大きいものです。なお、田岡香逸氏の記述によれば、最初に徳治2年銘を判読されたのは川勝博士だそうです。流石です、ハイ。