石造美術紀行

石造美術の探訪記

三重県 伊賀市守田町 守田十三仏石仏

2011-10-31 22:48:50 | 三重県

三重県 伊賀市守田町 守田十三仏石仏

名阪国道上野インターチェンジのすぐ西の小高い場所に天台宗袖合山九品寺があり、寺の前の道を丘陵裾に沿って250m程行くと道路の左手(北側)、丘陵裾が少し削られたスペースがある。ここに幅約2.6m、高さ約1.75m、奥行き約1.6m程の花崗岩の岩塊がある。01_2ほぼ南面する扇形に見える平坦面に地蔵石仏と十三仏が刻まれている。正面向かって右側、岩の表面を高さ約63.cm、幅約32.cmの舟形光背形に彫り沈め、内に像高約60.5cmの地蔵菩薩立像が半肉彫されている。03彫沈めの外、下方には線刻(ないし薄肉彫)の蓮華座を刻出する。地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の姿で、衣文表現は簡略化が進み、面相表現もやや稚拙である。彫沈め光背の外、上部に地蔵菩薩の種子「カ」、向かって右側に「八幡大菩薩」、左側に「神主」、蓮華座下方に「永正十五天戊寅/四月廿四日」の刻銘があるというが、紀年銘以外は肉眼での判読は難しい。02あるいは「神主」というのは願主かもしれない。八幡大菩薩とはいうまでもなく八幡神の神仏習合時代の神号である。応神天皇を祭神とすることなどから皇祖神として、また源氏をはじめとする武家の守護神として全国で幅広い信仰を集めてきた。本地は阿弥陀如来とされ、錫杖を持つ僧形八幡神の姿も想起されるが、地蔵石仏との関係についてはよくわからない。04地蔵像の向かって左側、高さ約107cm、幅約46cmの縦長の長方形の彫沈め枠があり、下方は彫沈め左右端が約5cm程の幅で枠外下方に伸びているので、あたかも方形の台が薄肉彫りされたようになっている。枠内に3列4段に十三仏が半肉彫りされている。いずれも座像で像高は18cm内外である。肉眼ではほとんど判読できないが、各像容頭部右に尊像名が、また各像容間には多数の結縁者と思しい法名が陰刻されているという。さらに彫沈め枠の外側、やや下寄りの向かって右に「永正十七年庚辰二月時正」、左に「本願施主蓮()忍」の陰刻銘があるが、肉眼では判読が難しい。十三仏というのは、1不動明王(初七日:秦広王)、2釈迦如来(二七日:初江王)、3文殊菩薩(三七日:宋帝王)、4普賢菩薩(四七日:五官王)、5地蔵菩薩(五七日:閻魔王)、6弥勒菩薩(六七日:変成王)、7薬師如来(七七日:太山王)、8観音菩薩(百ヶ日:平等王)、9勢至菩薩(一年:都市王)、10阿弥陀如来(三年:五道転輪王)、11阿閦如来(七年:蓮上王or蓮華王)、12大日如来(十三年:抜苦王or祇園王)、13虚空蔵菩薩(三十三年:慈恩王or法界王)の13尊である。石造で各尊を並べる場合の配置にはいくつかのパターンがあるらしい。05_2本例では最下段が3,2,1、下から2段目は4,5,6、3段目が7,8,9、4段目は10,12,11と下から上にコ字状に進むよう配列され、13のみ単独で最上部中央に位置する。4段目は、阿閦と大日の順序が逆転している。密教の教主である大日如来を尊重してあえて中央に配するものと考えられているが変則的である。また、虚空蔵菩薩の上方には天蓋が薄肉彫りされる。十三仏信仰の起源については諸説あるらしいが、一般的には十王思想から発展したものと考えられている。冥府十王の本地仏に阿閦、大日の2如来と虚空蔵菩薩を加えた各年回忌の回向・供養の本尊で、概ね15世紀初め頃にその後につながるスタイルが定着したとされる。片岡長治氏によれば石造の遺例は全国に500以上あり、大部分は生前供養である逆修の目的で造立され、その造立主は六斎念仏などの様々な講衆であるらしい。07逆修供養をする場合の月日が定まっていて、1=1月16日、2=2月29日、3=3月25日、4=4月14日、5=5月24日、6=6月5日、7=7月8日、8=8月18日、9=9月23日、10=10月15日、11=11月15日、12=11月28日、13=12月13日となっているそうである。基本的に後生安楽の願意を元に作られたものと考えられ、庶民信仰として根付いたものである。六道輪廻の衆生を極楽浄土に引接する地蔵菩薩を脇に刻んでいることもそうした祖先の思いや祈りが表われていると見てよいのかもしれない。永正15年は西暦1518年、初め地蔵菩薩像が彫られ、2年後の永正17年(1520年)に十三仏が作られている。16世紀前半の十三仏は近畿地方では古い部類に属するという。

ここからさらに道沿いに100m程進むと道の右手の斜面、吹さらしのトタン屋根の覆屋の下にも岩塊が横たわっている。幅約2.1m、高さ約3m、奥行き2.5m程の花崗岩の自然石で、ここにも南面して地蔵菩薩と十三仏が見られる。こちらは地蔵像が左側にあり、舟形光背形を彫り沈め、内に単弁蓮華座に立つ錫杖、宝珠の地蔵菩薩立像を半肉彫りする。像高は約90cmあってひとまわり大きい。十三仏は縦約130cm、下方幅約67cm、上方幅約61cmのほぼ長方形の彫沈め内に像高20cm前後の座像を3列4段に配する。4段目を10,12,11とする配列は同じである。最下段のみ単弁蓮華座が薄肉彫りされる。虚空蔵菩薩の上の天蓋はこちらの方がやや表現が細かい。銘は確認されていないが造立時期は相前後する頃のものと考えられている。天蓋、蓮華座、地蔵像の衣文表現など全体にこちらの方が少し手が込んでいるように見受けられるので、若干先行するかもしれない。

 

参考:川勝政太郎『伊賀』近畿日本鉄道・近畿文化会編近畿日本ブックス4

     〃 「十三仏信仰の史的展開」『史迹と美術』第520号

        ※ オリジナルは「大手前女子大学論集第3号」

   片岡長治「十三仏シリーズ1 伊賀盆地(三重県)における石造遺品について」

       『史迹と美術』第493号

     〃 「十三仏碑について-付名号碑-」『日本の石仏』4近畿篇

 

地蔵石仏と十三仏のセットが2基というか2つ、至近距離に存在しているわけですが、川勝博士は前者を北、後者を南、片岡氏は前者をA、後者をBと呼んでおられます。とりあえず小生は「扇」と「トタン屋根」とでも名付けておきましょうかね…。前者は市の指定文化財に指定されており近くにはそれを示す石造の標柱や顕彰碑があります。「扇」の付近にはそのほか近世の地蔵石仏や小型の五輪塔の残欠数点ありました。

片岡氏の報文が載る『史迹と美術』493号は昭和54年4月発行で、前年末に亡くなられた川勝博士への追悼文集「故川勝主幹を偲んで(その一)」が掲載されており、博士のお人柄やエピソードが記されています。中でも坪井良平氏の追悼文にある博士と坪井氏との約束や「四十前後の会」のことなどたいへん興味深いものがありました。

なお、九品寺の墓地には塔身後補ながら基礎上・笠下各3段、笠上5段と段形がやや変則的ですが立派な宝篋印塔があり、川勝博士によれば鎌倉後期のものとのことです。


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