石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市長安寺町 長安寺宝塔

2007-05-09 00:17:25 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市長安寺町 長安寺宝塔

逢坂の関に程近い山寄りの斜面に閑静な境内を構える長安寺、本堂から一段下がった山裾の斜面を平坦に整地した場所にこの宝塔はある。21_1 この付近は、三井寺の有力子院であった関寺の旧地と伝えられるが鉄道がすぐ下を通り、民家が建て込んで宝塔のすぐ近くまで迫って、古の関寺のイメージはなかなか想像すべくもない。この長安寺宝塔には、関寺の霊牛の供養塔との伝承があり、数多い近江の宝塔の中でも古来著名なもののひとつである。関寺再建に使役された牛が実は迦葉仏の化身だということで、藤原道長をはじめ大勢が参詣したことが当時の貴族源経頼の日記である『左経記』などにみえる。万寿2年(1025年)のことで、まもなくこの霊牛は死亡し、堂後の山手に埋葬されたという。宝塔はその直後の造立で、関寺の鎌倉時代の伽藍の旧状を描いた三井寺所蔵の古図に霊牛の供養堂と思しき堂が見え、恐らく堂内にこの宝塔があったのではないかという推定がなされてきたのである。今日ではそこまでは遡らないだろうというのが定説になっている。近づいてまずその塔身のボリューム感に圧倒される。高さ約3.5m、高島市三尾里の鶴塚塔など近江には基礎や相輪を含めれば高さでこれを凌駕する宝塔はあるが、小さく低い基礎と相輪を欠いてこの大きさである。特に塔身は他の追随を許さないサイズである。サイズだけでなくデザインや構造形式においても規格外といえる。基礎は平面八角形で半ば埋まって下端は見えないが、低く平らなもので、23 塔身や笠に比較して小さい。側面は垂直に上端面に続かず、上端から10数cmのところで傾斜をつけた面を八方の側面に設けているが傾斜面は均等ではない。塔身は圧倒的な存在感を示す。平面円形で、軸部は重心をやや上に置く縦に長い壷型を呈し、全体にやや歪んでいる。扉型や匂欄、框はなく、素面で荒叩きに仕上げ、側面は全体にゆるく曲線を描き亀腹との区分は明確でない。背面には縦方向に大きくヒビが入っている。37 下端から40cm程のところに水平方向に1条の陰刻線が見えるが当初からのものか否かは不明。首部は円筒形で上部をやや細くして笠に続く。首部は比較的太くしっかりしてしかも短いものではない。匂欄の柱とも見える線が見えるが、当初からのものか不詳。笠は平面六角形。屋根の傾斜は緩く伸びやかで、屋根の勾配に反りはほとんど認められず、むしろややむくり気味に見える。底面は概ね平坦であるが、中央付近はやや窪んで、六角形の塔身受を薄く削り出し、各稜角部から放射状に隅木を表現している。10 隅木は軒先に至らず途中で消失している。軒先は薄く、各軒は緩く全体に反って真反に近い。背面側の軒の一端が大きく欠損している。露盤は丸みを帯びた六角形で露盤頂上を平らに整えている。露盤上には後補の平面正方形の平らな台部とその上の宝珠を一体整形したものが載っている。川勝博士は、塔身軸部の緩やかな曲線と長い首部、笠の屋根勾配や軒反の手法や、多角形の基礎や笠という奇抜なデザインから「悠容として迫らざる平安時代の気分」を見てとられた。また、鞍馬寺経塚出土の銅製宝塔を引き合いに、相輪よりも宝珠が似つかわしいとされている。(※1)一方、田岡香逸氏は各部の材質の違いと形式観によって平安時代説を明確に否定された。塔身のヒビ割を火中によるものとされ、笠、塔身、基礎それぞれが石質の違う花崗岩で、基礎と笠には火中の痕跡はなく、笠は鎌倉中期を降らないが、肩の張りが目立つ塔身や輪郭を持つ基礎は鎌倉後期以降のもので、結局寄せ集め塔であるとされた。(※2)川勝博士も一定これを認めながらも無視し難い平安後期的様式と、鴨長明が建暦初年(1211年)ごろ、この地を訪ね、「関寺より西へ2、3町ばかり行きて、道より北のつらに、少したちあがりたる所に、一丈ばかりなる石の塔有云々」と『無名秘抄』に記している点に注目され、万寿2年の霊牛供養塔との証明はできないが、平安末期に関寺近くに建てられた供養塔だろうと推定されている。(※1)小生としては川勝博士の説を支持し田岡氏の見解には賛成できない。確かに石の色が変色しているように見え、大きく縦に方向にヒビが入っているが、例えば東近江46市の今崎町の日吉神社(引接寺)宝篋印塔のようにはっきり火中した痕と小生の目には見えない。笠と基礎は塔身と花崗岩の質感が異なるが、それだけをもって寄せ集め塔と断定はできないと思う。基礎に輪郭があるというがそのようには見えず、田岡氏のごとく明確に断定すべきないだろう。類例のない多角形の笠と基礎の意匠やサイズはむしろ定型化以前の形式と見るべきで、 背の高い塔身軸部のややいびつで側面のなだらかな曲線、太く長い首部の形状など、近江において大吉寺塔(建長3年)や最勝寺塔(弘安8年)など鎌倉中期以降定型化していく一般的な宝塔のデザイン形式に連なっていくものとは到底考えられず、近江における鎌倉時代の宝塔の形式系譜の埒外にあるスタイルである。あえて近いものを考えれば、川勝博士も類似性を指摘された保安元年(1120年)銘の経筒が出土した鞍馬寺経塚上に建てられた国宝指定の石造宝塔であろう。

写真…左上:全景、左中:笠、左下:基礎、右上:塔身首部と笠裏、右下:六角形の笠や八角形の基礎がよくわかるアングル

(余談:結局のところ無銘であり結論は出ない。よって諸説あって構わない。川勝博士と田岡氏の両御大には著作を通じて多大な学恩に預かっている。ただ常識的で寛容な川勝博士の学風に比べ、自説の正当性や知見の豊富さをラジカルに時にヒステリックに訴える田岡氏の学風を小生はどうしても好きになれない。むろんその不朽の業績はリスペクトされなければならないのですが…。田岡ファンの皆さん気を悪くしないでくださいね。)

参考

※1 川勝政太郎 『石造美術』 98~99ページ

※2 田岡香逸 『近江の石造美術6』 17~18ページ