石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)地蔵石仏

2012-06-12 22:53:54 | 奈良県

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)地蔵石仏

大和郡山市域西方、矢田丘陵の東山腹に位置する矢田寺は、境内の1万株とも言われるアジサイの名所として著名である。08_2正式には矢田山金剛山寺といい、高野山真言宗の別格本山である。05_2麓の山門から石段を登っていくとやがて西に真っすぐ伸びる石畳の参道の正面突き当りに本堂を望む場所に達する。その少し手前、石段を登り切る直前の左手の一画に大きい石地蔵が立っており見送り地蔵と称される。参詣を終え参道を帰る者を見送るように東を向いているが、中興満米上人が小野篁に案内されて地獄を訪ね、亡者を救う地蔵菩薩を目撃、そのお姿を模して今のご本尊の地蔵像を作るに際して、その造像を手助けした4人の翁に応現化身した春日明神が春日山に戻られるのを見送ったという伝承があるらしい。01自然石の台石の上に載せられており、花崗岩製。高さ190cmの舟形光背に像高156cmの等身大の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしている。側面から見ると全体にかなり薄く彫成され、背面には横方向のノミ痕が幾筋も残っている。光背下端には複弁反花を刻み、その上に覆輪付単弁の請花を載せた二重の蓮華座上に立つ。03右手は錫杖を持たず、胸元に掲げて人差指を親指に添えて輪をつくり、左手は腹前に横にして親指と残りの指で輪をつくる。掌に宝珠を載せていたものが欠損したと考える向きもあるようだが、欠損したようには見えない。このように両手の指で輪をつくる印相は阿弥陀如来の来迎印と同じで、地蔵菩薩がこの印相を示す点は春日大社祭神の一柱である天児屋根命の本地と目される若草山地蔵石仏と共通する。一般に矢田寺型の地蔵と言われているが、矢田寺のご本尊は宝珠を持っておられるので左手の様子が異なる。したがって厳密には矢田寺型の地蔵というのは右手に錫杖を持たず来迎印を結ぶが、左手は宝珠を持つ場合と持たない場合があるということになるのだろうか。04_2いずれにせよ寺の縁起や伝承も含め、春日大社との浅からぬ関係がうかがわれ興味深い。02頭部はかなり厚く彫り出し、面相は柔和で痩身撫肩、体躯のバランスも悪くない。手先や足先、面相など入念に作られているが、眉や目の作り方、平板で形式的な衣文からは室町時代の大和の地蔵石仏に通有の作風が看取される。光背面頭上に阿弥陀如来の「キリーク」、さらに左右の側頭部から肩口にかけて梵字が6つ薬研彫りされている。向かって左上はカーン、次はウーンであろうか、その下はバン、右上はカ、その下はよくわからない、右下はタラークかもしれない。07_2これらの梵字の意味するところはよくわからない。六地蔵の種子との説もあるがそうではないように思う。さらに光背面左右の腰付近から足元にかけて「永正十二年(1515年)乙□四月八日本願妙円/以過去現世…奉立者也」の陰刻銘があり16世紀前半の造立と知られる。全体に表面の風化が進み頸の辺りで折損したのを接いであるものの、総じて遺存状態は悪くない。在銘の矢田寺型地蔵石仏では最古のものとされており、印相も含め矢田寺型の地蔵石仏を考えていく上で貴重な存在といえる。なお、すぐ近くには高さ1.5m程の自然石の表面を舟形を彫り沈め、内に南無阿弥陀佛の六字を大書陰刻した名号碑がある。向かって左に「天正元年(1585年)癸酉十二月十五日」、右に「夜念仏供養法界衆生」の陰刻銘があるのが肉眼でも確認できる。花崗岩製。特に珍しいものではないが、なかなか立派な名号碑で、「夜念仏供養」という面白い銘もあって見落とすべきものではないので注意して欲しい。

 

参考:清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

 

この季節、たくさんの紫陽花に彩られた境内が美しい矢田寺には、このほかにもみるべき石造美術が少なくありません。追ってご紹介したいと思います。山麓を見下ろす本堂に向かって直線的に伸びる参道とその両側に子院が甍を並べる伽藍配置は、同様の山腹にある寺院跡でしばしば目撃するパターンです。矢田寺のように現在進行形で存在しているこうした寺観は注意しておいて然るべきものと考えます。さてもさてもあじさいは見事です。


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