今日は朝から良く晴れ渡りやや春めいたお天気でしたが、夕方になって雨が降り出しました。
東日本大震災発生から今日で丁度1年になりました。
僕は1年前のあの日あの瞬間には勤務先の病棟で清掃作業に従事していましたが、震度5強というこれまでに経験した事もない激しい揺れに襲われ、その場で足がすくんだまましばらく身動きもできなかったのを今でも鮮明に記憶しています。
地震やその後に発生した大津波の被害などにより亡くなられた方達は全国で1万6千人で、さらに3千人余りの方達が未だに行方不明のままとなっています。
今日は地震発生時刻の14時46分に自宅で黙祷し、犠牲になられた方達のために追悼の祈りを捧げました。
皆さんもご存知の通り、我が福島県は地震や大津波の被害に加え福島原発事故の影響が復興の大きな妨げとなっています。
現在県の内外へ避難している福島県民は16万人(内県外避難者数6万3千人)です。
原発事故後に指定された警戒区域・計画的避難区域からの避難者の数は合わせて9万人ですが、その他に放射線量が比較的高い二本松市などの区域から7万人が自主避難をしています。
その方達が避難した大きな理由は放射線の影響を受けやすいであろう子供達の将来を考えたからという事でした。
しかも、大半は両親と子供達があるいは夫と妻や子供が親の仕事の都合などで離れ離れに暮らすという苦渋の決断になりました。
その結果は・・・お互いに遠く離れて月に一・二度しか会えずに家族の絆がばらばらになってしまい、夫婦が離婚したとか夫が鬱病に罹ってしまったとか子供が情緒不安定に陥りキレやすくなったという信じられないような悲劇も生じているとのことでした。
同じ福島県民なのに震災後も以前と変わらず何不自由なく生活ができている僕がこの事実を知った時には胸がつぶれる思いがしました。
福島第一原発がある大熊町では1万1千人の町民全員が避難を強いられ、その内の3千3百人は約100km離れた会津若松市内にある仮設住宅で暮らしています。
たまたまその避難者の方達と話をする機会があったのですが、今の心境を次のように語っていらっしゃいました。
「早く我が家に帰りたい・・・でもいつ帰れるかも分からずに先の見通しがつかない内は帰るのを諦める事すらできず、悲しさや辛さよりもただただ悔しいだけ・・・どうしてもその感情を押さえる事ができないでいる。原発に対して今言いたいのは自分達の町を元に戻して欲しいという事だけだ。」
この話を聞きながら相手を励ます言葉を発す事もできずに、心の中でただ涙を流していただけの僕は自分の無力さを痛感しました。
例えば、こんな時に「がんばってください!」とか「一緒にがんばりましょう!」なんてありきたりの言葉をかけたとしても・・・「じゃあ、どういう風にがんばればいいんだ?」と聞かれて言葉に詰まってしまっていたかも知れません。
原発事故で避難されている区域の方達の心の内も知らずに、会津は風評被害で迷惑を被っているとか思っていた頃の自分の身勝手さを今はただ恥じたい気持でいっぱいです。
.
この1年間福島県に対してご支援くださった世界中の方達に一県民として深く感謝いたします。
福島県民全体にとってこの1年はひとつの区切りではなく、これからの数十年間も原発の不安を抱えながら生きて行かなければならない事をどうか忘れないでいてください。