田舎者ですが(^◇^)

会津の四季やローカルな話題、日常の出来事などを不定期ながら少しずつ綴っていきます。

N君のこと

2008-05-25 00:35:20 | 障がい者のこと

僕が障がい者の方たちと関わるきっかけを作ってくれたのは亡きN君でした。
もしもN君と出会っていなかったら、僕は今この仕事に就いてはいなかったと思います。
僕はこれまでに数回いろんなところでN君のことを紹介し、ブログにも書きました。
以前、自分のブログで「N君の生涯」と題して書いた文章を基にこの記事を書いています。
平成16年12月28日午後8時51分、一人の偉大な障がい者が肺炎の為急逝しました。
その人がN君で、彼は僕の出身地である会津若松市に障がい者の為の自立生活センターを設立する為に尽力し、初代の代表を務めそこに集う障がい者達のリーダー的な存在だったのです。
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N君は7ヶ月の早産で未熟児として、しかも仮死状態で生まれましたが、産婆さんの努力で奇跡的に命を取り戻しました。
しかし3歳の時高熱から脳性まひになってしまい、言葉がうまくしゃべれない上に下肢が不自由になりました。
障がいの程度はそんなに重い方ではなかったのですが、保育園に入る年齢になって役所から養護学校への入学を奨める話が出ました。
彼のお父さんが「養護学校に入りたいか?」と訊ねると彼は「いやだ!」と答えたそうです。
結局お父さんが彼の意思を尊重してくれたお蔭で彼は保育園から高校まで普通学校で過ごせたそうです。
お父さんが言ってくれた「お前は身体が弱いけれど皆の中で一緒に生きて行くのだから強くならないといけないよ」という言葉が彼の宝物だったそうです。
それは、彼にとっては自分の人生を自分で選び、地域の中で皆と生きて行く事だったのです。
彼は高校に入ると、「女の子にもてる強い男になりたい」と思い山岳部に入り、もつれる足で山登りもしました。
高校卒業後はバイクや車の免許も取り、専門学校で印刷技術を学び、印刷会社に就職しました。
仕事の傍ら、重度の障がい者の送り迎えをしたり相談相手になるなどのボランティア活動を通じて、多くの障がい者仲間と親交を深めました。
僕がN君と初めて知り合ったのはその頃でした。
僕は彼の自宅と同じ町内の老舗の家具店に勤務していて、家具の営業と配送の仕事をしていました。
彼のお父さんは自宅近くの病院前で従業員を一人雇い小さな花屋を営み、お母さんは自宅兼店舗の食堂を一人で切り盛りしていました。
まだ独身だった僕はいつも仕事帰りにこの食堂で夕食をとっていました。
この食堂の家庭的な雰囲気がとても好きだったからです。
N君が仕事休みで自宅にいる日曜日の夕方の時間などに僕は仕事帰りに食事しに立ち寄り、彼といろんな話をしたりする内お互いに打ち解け合うようになりました。
この頃の彼は、普段は通勤などにバイクを乗り回していましたが、不自由な身体もなんのそので健常者と全く変わらないような素晴らしいライディング・テクを披露してくれました。
更に連休には仲間と登山をしたり、一人で四駆を運転して泊りがけのアウトドア・ライフを楽しむアクティブな青年でした。
彼の行動を見ていると障がいというハンディなんて微塵も感じられませんでした。
彼の性格はとても素直で、誰に対しても分け隔てなくごく自然な態度で接し、穏かなその話し振りは誰よりもユーモアがありかつ知性に溢れていました。
僕が仕事上のことで悩んでいる時に彼の明るい笑顔と、ハンディに負けずにがんばっている彼の力強い姿を見るたびに勇気と元気を奮い起こす事ができました。
その後僕は妻と知り合い結婚を決意し、彼のご両親に仲人をお願いしました。
それ以降彼は僕達夫婦を実の兄と姉の様に慕ってくれたのです。
そんな彼も加齢に伴い体全体の筋力が急激に衰え始めました。
これは病気自体の進行ではなく、脳性まひ特有である症状のひとつなのです。
30代後半になって、車椅子が必要な生活になり20年間勤め続けた会社を辞めざるを得なくなりました。
「体が思う様に動かなくなってから、重度の障がいの人達の悩みが分かった。何とかしなければ」と思った彼は仲間に呼びかけ、地道な努力を重ねながら行政を少しずつ動かしてついに会津の地に自立生活センターを立ち上げたのです。
「障がい者はどんなに重度でも、街の中で生きたいと願っている。健常者と共に暮らせる地域社会にして行きたい」と彼は常々熱く語っていました。
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彼の死後、残念な事にリーダーを失った自立生活センターは分裂しやがて解散してしまいました。
一応それを引き継いだ形で現在のNPO法人があるのですが、自立生活センター設立時のメンバーは次々と去って行き、今では当時とかなり違う顔ぶれになってしまっています。
年老いたご両親も彼の後を追うように相次いで他界され、彼についての思い出話を語り合える相手も数少なくなってしまい寂しい限りの昨今です。
でも、彼の遺志を受け継ぐ者の一人としてこれからも彼の足跡と偉業を新しいメンバーに伝えて行くのが僕の義務だと思っています。

コメント (4)
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