2014年・平成26年、最初の議会報告、とだ*やすこのいまここ✽島本14号の印刷があがってきました。たくさんの方に協力していただき、全戸配布をめざしています。2月中には、島本町(約12700世帯)のみなさんにお届けできる予定です。
紙面にも書きましたが、「リアルな現実と夢をみよう」それが今年の議員活動のキーワードです。これは関西学院大学・松藤保孝先生の最終講演のタイトルからいただきました。さまざまな活動を通じて、住民がみずから幸福力を高める地域力の再生をめざしたいと思います。
先週末、わたしは映画「ハンナ・アーレント」を観ました。ハンナ・アーレントは、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人です。アメリカ合衆国で、主に政治哲学、政治思想の分野で活躍した女性。映画を通じてはじめて知りました。
世間から激しい非難を浴びながら、何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの「悪の凡庸さ」を主張し続けました。1960年代、わたしが生まれた頃のことです。戦争やファシズムは、平凡で善良な市民を凶悪に変える力があることを、この映画は伝えています。会場は男女を問わず多くの若者でいっぱい、密かな話題作でした。
日本版NSC(国家安全保障会議)、特定秘密保護法などは、憲法を変えずに戦争ができる環境を整えるものといわれています。アメリカと足並みを揃え、民族、宗教が複雑に絡まり合った戦争において日本と日本人がまさかの当事者になることが「日本をとり戻す」ことなのか、政治家の存在の軽さが危ぶまれます。
平和憲法のもと、戦後約70年戦争で人を殺めていないという事実。これによって日本人が国際的に、とりわけアジア諸国においてどれほどに信頼を得ているか、わたしたち日本人はなかなか気づくことができません。
かつてわたしはアジア最後の植民地といわれた国際都市香港で、さまざまなアジアの人々と日々暮らしました。1997年7月1日、英国植民地から中華人民共和国香港特別行政区となる歴史的瞬間、この日突然に歴史が動いたわけではありません。歴史はゆっくりと、着実に動いています。あっ、戦争もきっとこういうふうに起こる、そう思いました。
1945年8月の終戦時までの3年8か月間、日本が香港を統治し、香港軍政庁をザ・ペニンシュラ香港に設置していたことを多くの日本人は知りません。知らないまま、ロビーでアフターヌーンティとコンサート、そして買い物を楽しんでいます。
すっかり日本人の人気観光地となっていた香港。けれども、暮らしていた1992年から1999年の間にも、日本の敗戦によって価値を失ってしまった日本軍政府発行の軍票をめぐって経済的補償を要求する運動は続いていました。わたしには忘れられない個人的な経験があります。
住みはじめて間もない頃、日本語を学ぶ友人に招かれた席で刺すように厳しい視線を浴びました。友人の親族が当時わたしが住んでいた集合住宅のフラットを購入され、そのオープンハウスと後の宴席に招かれて香港人の素顔に触れた日でした。居合わせた人びとの冷たい対応。なにより彼女の祖母の瞳の奥にある悲しみと憎しみの深さは底がないように思え、今なお忘れることができません。
まったく英語を話せないご両親が凍りつく場の雰囲気からわたしをなんとかして救おうと、慈しみのある笑顔で接してくださり、そのご好意に甘え平常心を保ちました。後日、友人の祖母が日本軍による拷問の席に居合わせた女性だったということを知りました。妊娠しておられたため、ある軍人がそっと彼女を逃がしてくれたというのです。なおかつ、その日は香港人にとって日本との屈辱的な関係を思い起こす特別な記念日だったらしく「なぜこの日、この席に日本人がいるのだ」と従兄弟に叱られたそうです。その従兄弟は学校の先生でした。
友人は日本企業で現地スタッフとして働いている20代の女性。ご両親はあなたの就職に反対しなかったのか、と問うと「かつて両親は日本で働いていました。日本人は本当はとても優しいと知っています。だから反対はしなかった。ただ母は、もしも軍票が補償されたら悔しくてたまらないと言っています。だって、泣きながら全部火にくべてご飯を炊いちゃったからね」と笑いました。淡々と朗らかに。
「多くのアジアの人びとが忘れてはいない」「許してもらっている」ということを知っておく必要があると、わたしは思うようになりました。日本人観光客が増えたことによる「お金の力」もあったでしょう。しかし、ひとたび紛争や戦争が起これば、民と民とのつながり、絶え間ない努力でようやく手にできた信頼は引き裂かれ、お金でつながっていた「信頼のようなもの」は一瞬で壊れます。
アジア諸国に住んでいる日本人に外出を控えるよう通告が出され(実際、わたしは経験している)、日本人学校の校門前に旭日旗が描かれて生徒はこれを踏まないと帰宅できないというようなこと(そういう出来事が駐在中にありました)が起こります。平成のファシズムの足音を感じる、と鳥越俊太郎さんの発言が新聞に掲載されていましたが、大げさな表現ではないと、わたしは思います。
***************
学習会のお知らせ
一から学ぶ「集団的自衛権」
2月2日(日)14:00~16:00
高槻市立総合市民交流センター5階・視聴覚室
JR高槻駅南すぐ
資料代500円
講師:武村二三夫さん(弁護士)
主催:変えたらあかん!平和憲法in高槻・島本
ご参加をお待ちしています
紙面にも書きましたが、「リアルな現実と夢をみよう」それが今年の議員活動のキーワードです。これは関西学院大学・松藤保孝先生の最終講演のタイトルからいただきました。さまざまな活動を通じて、住民がみずから幸福力を高める地域力の再生をめざしたいと思います。
先週末、わたしは映画「ハンナ・アーレント」を観ました。ハンナ・アーレントは、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人です。アメリカ合衆国で、主に政治哲学、政治思想の分野で活躍した女性。映画を通じてはじめて知りました。
世間から激しい非難を浴びながら、何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの「悪の凡庸さ」を主張し続けました。1960年代、わたしが生まれた頃のことです。戦争やファシズムは、平凡で善良な市民を凶悪に変える力があることを、この映画は伝えています。会場は男女を問わず多くの若者でいっぱい、密かな話題作でした。
日本版NSC(国家安全保障会議)、特定秘密保護法などは、憲法を変えずに戦争ができる環境を整えるものといわれています。アメリカと足並みを揃え、民族、宗教が複雑に絡まり合った戦争において日本と日本人がまさかの当事者になることが「日本をとり戻す」ことなのか、政治家の存在の軽さが危ぶまれます。
平和憲法のもと、戦後約70年戦争で人を殺めていないという事実。これによって日本人が国際的に、とりわけアジア諸国においてどれほどに信頼を得ているか、わたしたち日本人はなかなか気づくことができません。
かつてわたしはアジア最後の植民地といわれた国際都市香港で、さまざまなアジアの人々と日々暮らしました。1997年7月1日、英国植民地から中華人民共和国香港特別行政区となる歴史的瞬間、この日突然に歴史が動いたわけではありません。歴史はゆっくりと、着実に動いています。あっ、戦争もきっとこういうふうに起こる、そう思いました。
1945年8月の終戦時までの3年8か月間、日本が香港を統治し、香港軍政庁をザ・ペニンシュラ香港に設置していたことを多くの日本人は知りません。知らないまま、ロビーでアフターヌーンティとコンサート、そして買い物を楽しんでいます。
すっかり日本人の人気観光地となっていた香港。けれども、暮らしていた1992年から1999年の間にも、日本の敗戦によって価値を失ってしまった日本軍政府発行の軍票をめぐって経済的補償を要求する運動は続いていました。わたしには忘れられない個人的な経験があります。
住みはじめて間もない頃、日本語を学ぶ友人に招かれた席で刺すように厳しい視線を浴びました。友人の親族が当時わたしが住んでいた集合住宅のフラットを購入され、そのオープンハウスと後の宴席に招かれて香港人の素顔に触れた日でした。居合わせた人びとの冷たい対応。なにより彼女の祖母の瞳の奥にある悲しみと憎しみの深さは底がないように思え、今なお忘れることができません。
まったく英語を話せないご両親が凍りつく場の雰囲気からわたしをなんとかして救おうと、慈しみのある笑顔で接してくださり、そのご好意に甘え平常心を保ちました。後日、友人の祖母が日本軍による拷問の席に居合わせた女性だったということを知りました。妊娠しておられたため、ある軍人がそっと彼女を逃がしてくれたというのです。なおかつ、その日は香港人にとって日本との屈辱的な関係を思い起こす特別な記念日だったらしく「なぜこの日、この席に日本人がいるのだ」と従兄弟に叱られたそうです。その従兄弟は学校の先生でした。
友人は日本企業で現地スタッフとして働いている20代の女性。ご両親はあなたの就職に反対しなかったのか、と問うと「かつて両親は日本で働いていました。日本人は本当はとても優しいと知っています。だから反対はしなかった。ただ母は、もしも軍票が補償されたら悔しくてたまらないと言っています。だって、泣きながら全部火にくべてご飯を炊いちゃったからね」と笑いました。淡々と朗らかに。
「多くのアジアの人びとが忘れてはいない」「許してもらっている」ということを知っておく必要があると、わたしは思うようになりました。日本人観光客が増えたことによる「お金の力」もあったでしょう。しかし、ひとたび紛争や戦争が起これば、民と民とのつながり、絶え間ない努力でようやく手にできた信頼は引き裂かれ、お金でつながっていた「信頼のようなもの」は一瞬で壊れます。
アジア諸国に住んでいる日本人に外出を控えるよう通告が出され(実際、わたしは経験している)、日本人学校の校門前に旭日旗が描かれて生徒はこれを踏まないと帰宅できないというようなこと(そういう出来事が駐在中にありました)が起こります。平成のファシズムの足音を感じる、と鳥越俊太郎さんの発言が新聞に掲載されていましたが、大げさな表現ではないと、わたしは思います。
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学習会のお知らせ
一から学ぶ「集団的自衛権」
2月2日(日)14:00~16:00
高槻市立総合市民交流センター5階・視聴覚室
JR高槻駅南すぐ
資料代500円
講師:武村二三夫さん(弁護士)
主催:変えたらあかん!平和憲法in高槻・島本
ご参加をお待ちしています