ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

残雪の知床の山並み、そして、北海道東岸の岬へ … 岬めぐりのバスに乗って (北海道の岬をめぐる旅)5

2017年08月26日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

   ( 知床の車窓風景から…海別岳の麓 )

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残雪の知床連山を望む >

5月14日(日) 晴のち曇り 

   今朝も7時半出発。

 早朝の澄んだ空気。森や畑、そして、雪を戴いた知床の連山が、車窓に展開する。

 残雪の山は、心がときめく。

 

 昨夜は知床のホテルに泊まり、今日は、まず、知床五湖の一つ、一湖を観光する。

 パークサービスセンターのある駐車場で下車した。原生林に囲まれた駐車場からも、残雪の連山が見えた。 

 五湖というが、このあたりは湿地帯。融雪期には、知床の山々から、雪解け水がせせらぎとなって流れ込む。湖の数はさらに増えるそうだ。

 一般の観光客が入れるのは、高架木道が整備されている一湖だけ。他の4湖を訪ねたければ、ガイドツアーに入らなければならない。自然保護のためであり、また、ヒグマの被害を避けるためでもある。1日の入山数も、300人までと制限されている。

 一帯がヒグマの生息地で、頻繁に出没し、高架木道には電気柵も付けられているが、ヒグマが現れたら、入山禁止になることもある。この地の主人公は、ヒグマを含めた動植物と神々であって、都会の観光客ではない

 草原の丘に、高架木道が延びている。出発地点のパネルを詠むと、全長800m。一湖の展望台まで、往復15分とある。たいした距離ではない。

 さわやかな5月の青空。湿原の水蒸気が、霧となって立ち上っている。

 残雪の山並みに感動しながら歩いていると、一湖の展望台に到着した。

 湖から盛んに霧が立ち上って、絵に描いたような幻想的な光景である。

 と思う間に、霧が晴れ、湖が鏡となって、原生林の木立や、残雪の山並み、そして、青い空を映し出した。これもまた、一幅の絵のようである

 この旅で、こんな美しい景色に出会えるとは、思ってもいなかった。

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 若いころは、夏になると、よく信州に行った。北アルプスのアルペン的景観に心ときめいて登山もした。堀辰雄や立原道造が愛した白樺や落葉松の高原を、マツムシソウやクルマユリ、オダマキやナデシコを愛でながら散策した。

 北海道に初めて行ったのは、人生の半ばをとっくに過ぎてからだった。

 短い夏休みを使って、知らない北海道を訪ねる旅だったから、ツアーに入った。

 その夏はことさらに暑く、北海道も、バスから降りると炎暑だった。遥々とバスに揺られて、オシンコシンの滝を見たときは、がっかりした。この程度の滝を見るために、長時間バスに揺られたのかと。

 この一湖にも来た。夏、山々に残雪はなく、眠っているようで、湿原は茫々と見渡す限り草が生え、その中に小さな池が、草に埋もれるようにあるだけだった。

 かなりがっかりした。

 今回、期待せずにやって来て、予想外に美しい景色にふれた。自然の景観は、訪れる季節と、お天気に恵まれなければいけないのだ。今回、知床は、カムイがほほ笑んだ。 

 体力、体調が許せばだが、いつか四湖めぐりのガイドツアーに参加するのも良いかもしれない。

[ 知床斜里町観光協会のホームページから ]  

 ユネスコの自然遺産登録について、このように書かれている。

 「海に荒く削られた海岸線、世界でもっとも南端に接岸する流氷、流氷によりもたらされる豊富な魚介類、その魚介類を捕食するヒグマやオジロワシと、海、陸の食物連鎖を見ることができる貴重な自然環境を有する点が評価され、日本で初めて海洋を含む自然遺産の登録となりました」。

 3000万年前、ユーラシア大陸から切り離され、黒潮洗う列島となったこの島国は、世界でも類例のない豊かな自然に恵まれているらしい。現代人から見れば寒冷の地である北海道も、生き物からみれば豊穣の海と陸なのだ。

 冬季には、ウトロ港から流氷船が出ている。

 春から秋にかけては、ウトロ港から、知床半島のオホーツク海沿岸を巡る3種類の観光船が出ている。

 1時間コースがカムイワッカの滝コース、2時間コースがヒグマウォッチングコース、3時間コースが知床岬コース。

 とりあえず「流氷」はパス。人生、あれもこれもはムリというもの。

 今回の旅のテーマは、北海道の岬である。

 「知床岬 … 岬の上は標高30m~40mの台地で、周囲は断崖になっています。特別保護地域に指定されているため一般の観光客は上陸することができません。晴天時には太平洋に浮かぶ国後島を望むことができます」。

 せめて海からであろうと、知床岬を見なければ、北海道岬めぐりの旅は完結しないのではないか。いつか、良い季節のときに、3時間コースの観光船に乗りに来たいものである。

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知床の山懐を峠越えする > 

 バスは、オホーツク海側の斜里町と、根室海峡側の標津(シベツ)町とを結ぶ国道244号線に入って、知床半島の背骨の部分を横断する。

 右手の車窓には斜里岳(1545m)、左手には海別岳(1419m)が、入れ替わり見え隠れした。このあたりに生活する人々は、朝も昼も夕も、知床連山を仰ぎ見るのであろう。

 下の写真は、── 残雪の知床連山を映す一湖の写真とともに ── 、この旅で写した写真のなかで、特に好きな1枚である。

 走るバスの中から、しかも、紫外線カットの窓ガラス越しの撮影だから、多少のブレや画質の悪さは致し方ない。

 大自然のなかに、人間の営みを感じる風景は、心安らぐ。

     ( 海別岳の麓 )

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野付半島でトラクターバスに乗る

 根室海峡に出ると、空はどんよりと曇ってしまった。

   標津町の先の野付半島に寄り、観光する。

     ( 野付半島から野付湾を望む )

 野付半島は、砂嘴(サシ)である。

 砂嘴で最も有名なのは、丹後の「天橋立」であろう。博多湾の志賀海神社のある志賀島と九州本土とを結ぶ「海の中道」も有名である。

 だが、ここは、28㎞もの長さがあり、日本最大規模の砂嘴なのだそうだ。

 ( フラワーロードを走るトラクターバス )

 駐車場のあるネイチャーセンターから突端近くまで歩いて行くことができるが、料金を払って、「乗合バス」に乗ってみた。自然道だから、トラクターがゴロゴロと、牽引する。客を乗せる貨車も、どこかの廃品置き場から拾ってきたようなシロモノだ。だが、もしかしたら運転している長靴のお兄さんは、ネイチャーセンターの一番若い研究員かもしれない。

 横を、同じツアーの健脚の人たちがさっさっと歩いて行く。「バス」の方がわずかに速く、追い抜いた。

 この道も季節になると、原生花園のフラワーロードになるそうだ。

 3千万年をかけて自然がつくった砂嘴も、近年は浸食が激しく、海面の上昇もあり、いずれは寸断されて、島となり、やがてはなくなってしまうらしい。

 海水の侵食によって、トドマツが枯れている。トドワラと言うらしい。

    ( トドワラ )

 野付湾には干潟があって渡り鳥の飛来が多い。渡り鳥の天下であるだけでなく、オオワシやオジロワシ、それに、アザラシが昼寝したり、海水の深い所にはイルカもやって来るそうだ。

 人間の目には荒涼としているように見えるが、ここも、生き物たちにとっては豊穣の海なのであろう。

    ( 野付湾の干潟 )

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日の出ずる岬 … 納沙布岬 >

[ バスガイドの話 ]  根室は暖流と寒流がぶつかり、霧が発生して、夏の気温は、北海道でも一番低いのです。農業には向きません。

   農業ができないから、不毛の地というわけではない。暖流と寒流がぶつかる所は、豊かな漁場でもある。

 根室という北海道の果ての町について、遠い遠い少年の日の思い出がある。

 まだ敗戦の跡をとどめ、日本人がみな貧しかった時代、瀬戸内海の中都市の小学校に通っていた。

 5年生の時、20代中ごろという若い先生が赴任してきて、私たちの担任になった。

 長身痩躯。自分は、予科練から特攻隊にいって死ぬつもりだった、と語られたことが印象に残っている。大人にもいろんな人がいるが、一度は死を心に決めて生きたことのある大人にはかなわないと、少年たちは心の奥で感じていた。

 周囲の大人たち(保護者たち)の評は、「純情で、生一本な先生」。

 私たち教え子にとっては、自分たちと真っすぐに向き合う「大人」だった。

 「勉強せよ」と言う大人は、たくさんいる。子どもに対する愛や心配から出る言葉かもしれないが、すでに少年になった年齢の心には、まず響かないものだ。この先生が、「勉強せよ」と言ったかどうかは、覚えていない。

 覚えているのは、クラスの日々の活動や生活の中の具体的な場面で、子どもたちが何かを仕出かしたとき、時に激しく叱責し、またある時は一生懸命問いかけ諭して、ついには、事に当たって持つべき人としての処し方、「倫理」、守らなければならない姿勢などといったことに及んだことだ。

 私が、少年期を通じて、「倫理」を教えてもらった、と思う大人は、この先生だけである。

 だが、5年生の1年間が終わると、先生は転勤して、遠くへ去って行かれた。「日本の最北端の北海道の、その果てにある根室の小学校へ行きます」と、挨拶された。どうして1年で転勤することになったのか、どうしてそんなに遠くへ行かれるのか、何も語られなかった。もちろん、少年たちには何となく理由がわかっていた。ただ、誰もそれを口にしなかった。それは、大人の世界のことだから。

 霧の多い、暗い波濤の聞こえる根室という淋しい町のことが、私の頭の中に定着したのは、そのときからである。

 6年生になると、また新しく、若くて元気な先生がやって来て、私たちの担任になった。その6月ごろのことだったか?? クラスに、約束どおり、スズランの花がいっぱい送り届けられた。新担任が読んでくれた手紙には、綺麗なままのスズランを送るのに苦労したと書かれていた。今、思えば、宅急便はおろか、家庭に冷蔵庫もない時代、新幹線も走っていない時代のことである。飛行機便をつかうにしても、どのようにされたのだろう。新担任から、ぼそっと、「1か月分の給料をはたかれたみたいだよ」と、聞いた記憶がある。

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 バスは根室半島をひたすら東進し、ついに納沙布岬に到達した。

 バスを降りると、いきなり「四島のかけはし」というかなり無粋な建造物が目に飛び込み、違和感を覚えた。

 愛国的建造物だというかもしれないが、本当の愛国者は日本の美しい自然景観を壊したりしないものだ。

     ( 「四島のかけはし」 )

 歯舞群島の貝殻島まで3.7㎞だが、今日は曇天で何も見えない。

 「四島のかけはし」の先に、「本土最東端 納沙布岬」と書かれた木の標柱が立っていた。この方が、ずっと心に響くものがある。

 さらに行くと、納沙布岬灯台があった。

 パネルがあり、「日本は、古来より『日出ずる国』とされてきましたが、納沙布岬は本土最東端の地で、一番早く朝日が昇ります」。「納沙布岬灯台は、1872年(明治5年)に北海道で最初に設置した灯台(木造)で、1930年(昭和5年)に現在のコンクリート造りに改築されました」とあった。

 日本の灯台50選の一つ。

      ( 納沙布岬灯台 )

 昨年は、ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルのロカ岬に立った。そこにも灯台があった。

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霧多布岬を経て釧路へ >

 すでに日は傾きかけていたが、バスは、本日の2つ目の岬、霧多布(キリタップ)岬へ向かって走る。

 旅の初めは、日本海側をひたすら北上した。最北端の宗谷海峡を回って、今度は豊穣の海、オホーツク海の沿岸を走り、根室海峡に到達した。そして、今、車窓の海は、太平洋である。

 途中、根室本線の小さな踏切を越えた。キタキツネが出てきそうな単線の線路だった。

 

      ( 根室本線 )

 霧多布岬は、人けのない、いかにも最果ての岬だった。それでも、木でつくられた遊歩道があり、きれいに整備されている。

 名のとおり、霧の名所らしい。

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  江戸時代の国防の最前線基地であった厚岸を経て、日が暮れてから、釧路の町に入った。北海道で4番目に大きな町である。サンマ、シシャモなどの漁業の町。積出港。

 故郷を追われるように出た石川啄木は、函館、札幌、小樽と、職を求めて転々とし、ついに雪の釧路に来て、しばらく荒れた生活をした。やがて、意を決して、東京に出る。

 今夜の宿は、釧路のシティホテル。ホテルの部屋の窓から、釧路港がよく見えた。かつて、銀幕のスターであった高倉健や、石原裕次郎や、小林旭が出てきそうな町だ。

 

 

 

 

 

 

 

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