( シャルトルの薔薇窓 )
加藤周一『続羊の歌…わが回想 』 (岩波新書) から
「東京でフランスの美術を考えた私が、まっ先に思い浮かべていたのは、19世紀の絵画であった。 …… しかし、フランスに暮しはじめて間もなく、12、3世紀の建築・彫刻・ステンドグラスがくらべものにならぬほどの重みをもって感じられるようになった。…… もしイタリアが文芸復興期の国であるとすれば、フランスはゴティックの中世の国である」。
「塔はあるときには、夕暮れの遠い地平線に細い錐のように現れ、あるときには吹雪の空に高くそびえてゆるがず、またあるときには群青の空にのどかな鐘の音をまきちらしていた。そして教会の外には聖者の彫像が、内にはステンドグラスの窓があった」。
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「群青の空にのどかな鐘の音をまきちらしていた」
この美しいフレーズも、シャルトルの大聖堂を下絵にして書かれた文に違いない。誰しもが認めることだが、数あるフランス・ゴシック大聖堂の頂点に立つのは、シャルトルの大聖堂をおいて他にない。
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アミアンから急行に乗り、パリ北駅へ。1時間20分。
タクシーで、北駅からパリ・モンパルナス駅へ移動。
若いアラブ系のタクシーの運転手は、車と歩行者で混雑するパリの雑踏の中を、或いは車間距離を思い切り詰め、或いは罵り、或いは1秒を争うかのごとく激しく競り合い、また追い抜き(ガッツ‼)、ついにモンパルナス駅にたどり着く。
ヨーロッパのタクシーは、そのスピード、前後の車との車間距離の取り方、追い抜き方など、気にしだしたら後部座席でカラダが固まってしまうから、車窓風景を楽しみ、道行く人々を眺め、身を任せることにしている。
それでも、この運転手の荒っぽさと不機嫌さはいささか怖い。カネを払うとき、どんな要求をされるかと思いつつ(過去の旅でいろいろあった)、車から降りた。
ところが意外にシャイでおとなしい青年だった。少しチップをプラスして料金を渡すと、恥じらいを浮かべつつ、丁寧に感謝し、見送ってくれた。…… 洋の東西を変えず、車の運転は人を変えますぞ。気をつけましょう。
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パリ・モンパルナス駅から鈍行で1時間。
シャルトルへ行くのは、もう何回目だろう。16年前は、ツアーに入らない、初めての列車の一人旅だった。
モンパルナス駅の窓口で、シャルトルまでの往復切符を、緊張しながら買った。とても綺麗で、優しい、窓口のパリジェンヌが、切符の文字を指さしながら、英語で丁寧に説明してくれ、「ボンボヤージュ」と笑顔で送ってくれた。
大きな駅の構内に入ると、出発のホームを見つけるのが難しかった。やっと列車に乗り込んだときも、小学生が夏休みに田舎のおじいちゃんの所へ初めて一人で行くときみたいに緊張していた。全感覚が研ぎ澄まされ、じかに異国と触れ合っていた。どこにも、頼るべき「日本」はなかった。
発車のアナウンスも、ベルもなく、列車が静かにホームを滑り出した時、これがヨーロッパだと、感動した。
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さて、今回の旅の話に戻る。ヴェルサイユを過ぎてボース平野に入ると、いつも森や畑が深い霧に閉ざされるが、今日は霧に加えて雨も降ってきた。
シャルトルは雨。
ボース平野の中の、人口わずか4万人の小さな町である。
駅を出ると、雨の中に、街並みを圧するようにシャルトルの大聖堂がそびえていた。
( 街を圧するシャルトルの大聖堂 )
右は106m、ロマネスク様式の旧塔。左は115m、刺繍のように装飾の多いゴシック様式の新塔。
彫刻家ロダンは、「装飾は銀である。だが、装飾のない方は金である」と、素朴な右側の塔を称賛したという。確かに、この塔にかぎらず、素朴なロマネスク様式は好ましい。
予約していたホテルは、今回の旅で泊まったどのホテルよりも料金が安い。それもかなり安い。 にもかかわらず、大聖堂から最も近い、一等地のホテルである。何しろ、大聖堂付属の修道院だった建物なのだから。部屋に飾り気はまったくないが、広々としていて、この辺りは高台だから、窓からの眺めも最高に好い。この値段で申し訳ないようなホテルだった。
(宿泊したホテル)
(部屋の窓からの眺め)
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シャルトルの大聖堂は、1155年にロマネスク様式の集大成として、また、新しく興ったゴシック様式を取り入れた大聖堂として建設された。が、1192年6月の大火で、西正面部を残して全て焼け落ちてしまう。
歴史家は、そのあとに起こったことは、まるで奇跡のようであったと言う。
この大聖堂を再建するために、財ある者は私財を投げ打ち、財なき者も石切場から石を切り出し、材木を運び、ボース平野に大聖堂再建の十字軍が起こったような光景が現出した。そして、大火からわずか36年目の1220年、当時としては最大のスケールをもつ新様式の大聖堂が完成したのである。
暗黒の中世と言われるが、12世紀の西欧は農業生産力が増し、商業も興り、人々は豊かになり、余裕ができた。余裕ができると精神の世界も広がり、それが「最高の大聖堂を建設しよう!!」という形で表現されたのであろう。
それに、何よりもマリア信仰。この時代、マリア信仰が大ブームとなっていたという背景がある。当時のゴシック大聖堂は、すべて、聖母マリアに捧げられたものである。ゴシック建築様式とマリア信仰は、この時代の気分を象徴する事象である。
しかも、シャルトルには、何と!! マリアの聖遺物、「聖母マリアの衣」があったのだ。「聖母マリアの衣」を持つシャルトルは超特別なのである。シャルトルは、キリスト教徒の重要な巡礼地の一つとなっていた。
そして、あの大火のとき、マリアの衣はクリプトに安置されていたため、無傷だった。聖母の衣が焼失しなかった!! このことが、民衆の心に火を点じたのである。
かくして、シャルトル大聖堂再建のときに、他の大聖堂にまして、巨大なエネルギーが沸き起こったのである。
今も、パリ大学の学生は、年に1回、シャルトルまで徒歩の巡礼をする。
須賀敦子の短編 「大聖堂まで」 には、1950年代、筆者も含むパリの高校生、大学生3万人が、食料や寝袋を持ち、シャルトルに巡礼に行った様子が描かれている。
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この大聖堂は、このような経緯をもつ。ゆえに、この大聖堂の、特に西正面の聖者の彫像群や、西正面の扉口から入って振り返ると目にとびこむステンドグラスは、大火のときに焼け残った、現存する最も古い、初期ゴシックの素晴らしい文化遺産なのである。
そればかりではない。再建された北や南の袖廊の門を飾る聖者の彫像や、堂内に入って南、北、東の窓を飾るステンドグラスは、盛期ゴシックを代表する最高の傑作とされる作品群と言われている。
( 北袖廊の中央扉口 )
上の写真は、北袖廊の中央扉口。
上部の半円のティンパニムに聖母がイエスから冠をいただいている彫像、その下には聖母の死と聖母被昇天の像、その下の中央柱には、何と、幼な子キリストを抱くマリアではなく、マリアの母アンナが幼な子の聖母マリアを抱いている像が彫られている。
これほどにマリアが称えられている大聖堂は、他にない。
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「教会の外には聖者の彫像が、内にはステンドグラスの窓があった」(同上)。
「シャルトルほど素晴らしいステンドグラスをもつ大聖堂はほかにない。それは、質・量、両面で、最高のステンドグラスの輝きに満たされている。それらは、太陽の動きや雲の動きとともに、微妙な色彩の変化を見せる。これほどまでに感動的空間があろうか」 (馬杉宗夫 『大聖堂のコスモロジー』 講談社現代新書 )
その中でも、入り口を入って振り返った高所にある、もっとも初期のステンドグラス、「シャルトルのブルー」 と呼ばれるステンドグラスは、本当に美しい。
ロダンがロマネスク様式の塔を称賛したように、ステンドグラスも初期のものがいちばん美しい。
一方、例えば北袖廊の13世紀のステンドグラスは、もう少し華やかな彩がある。
( シャルトルのブルー )
( 北袖廊のステンドグラス )
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夜、大聖堂のそばのレストランで食べたフォアグラとラム肉は、あっさりして美味しかった。
外は風雨がやまず、殊に大聖堂のそばは突風が吹き抜け、寒さが厳しかった。
( 風雨のシャルトル大聖堂 )
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翌日は大聖堂の丘を少し下った、ウール川の川辺を散策した。
( ウール川川べり )
(ウール側から大聖堂を望む)
川べりには、フランスでは珍しく、赤い紅葉の樹木があった。
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