ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

地果てる所・神威岬 … 岬めぐりのバスに乗って (北海道の岬をめぐる旅 ) 2

2017年05月31日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

 宗谷岬は、晴れた日にはくっきりとサハリンが見えるという。隣の大国が意識される岬である。

 納沙布(ノサップ)岬の沖には、本来、日本の領土である島々が続く。

 それらと比べ、積丹半島の神威(カムイ)岬は、地果てる所という感じがする。その地形というか、たたずまいが、そういう感慨をもたらす。「カムイ」は、アイヌ語で「神」のこと。神の岬である。

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< 第1日 (5/11) 積丹半島・神威岬へ >

 11時過ぎ、新千歳空港に着く。

 今日の昼食は各自で用意せよということなので、空港の売店で弁当を買って、観光バスに乗り込んだ。

 ほぼ満席で36人。今回のツアーの参加者である。それに添乗員の明るいお兄さんと、なかなかの美人の中年のバスガイド、無口でかっこいい運転手。

 北海道の風光明媚な名勝をめぐり、海の幸や、乳製品を土産に買い、カニを食べて秘湯に入るという、よくあるツアーではない。5日間もかけて、広大な北海道の岬から岬を巡ろうというツアーである。ほとんどがバスの中で、岬以外には何もない。それでも、これだけの参加者がある。もちろん、その多くは、それなりの年恰好の人たちである。それぞれどういう思いで参加されたのだろう?

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 バスは空港からすぐに「札幌自動車道」に入り、やがて、左手に広々とした札幌の街並みを眺め、高速道路の終点の小樽で、国道229号線に降りた。

 見覚えのあるガラス工芸品店や小樽運河の横を、今日は車窓に眺めるだけで、素通りして行く。

 5月の北海道は、やっと春が訪れたという季節だ。

 ピンク色の山桜が車窓を流れていく。シラカバ、ダケカンバはすっかり芽吹いて、やわらかな緑が目に心地よい。だが、多くの樹木は、まだ冬枯れの黒っぽい枝のままである。所々の土のくぼみに、残雪が残っていたりする。

 余市の街に入り、トイレ休憩。

[ バスガイドの話 ] 余市町は、会津藩が開拓した町。… 1934年(昭和9年)には、ニッカウヰスキーの工場が創業した。

 かつてはおじさんたちの社員旅行が立ち寄る町だった。それが、NHKの朝ドラ「マッサン」の舞台になって以来、女性や家族づれの観光客がやって来る町に一変した。ニッカウヰスキー余市蒸留所は、「行って良かった工場見学、社会見学」の全国第1位 になった、そうだ。

 バスが、ニッカウヰスキーの工場群の横を通った。赤煉瓦の美しい建物が並び、オシャレだった。これからの日本は、地方の町や村が、生き生きと、それぞれに個性を発揮して、輝かねばならない時代だ。頑張って

 余市の街並みを過ぎると、バスは海岸線を走るようになる。

[ バスガイドの話 ] 北海道と言えば、ホッケ。そのホッケが獲れず、高級魚になった。タラも、イカも獲れない。ホタテ貝も昨年の台風で大きな被害を受けた。マグロが獲れる。だが、北海道では、マグロを売りさばくノウハウがない。市場ができていない。台風の影響と、遠因は地球温暖化…。

 … そればかりではないだろうと思う。太平洋一人ぼっちの有名なヨットマンが言っていたそうだ。昔は、日本の港を出てからサンフランシスコに着くまで、ほとんど一人ぼっちだった。今は、驚いたことに、日付変更線のあたりの真っ暗な海に、中国の巨大な漁船がずらっと並んで、煌々と明かりを灯して魚を獲っている … まるで根こそぎさらっている感じで、恐ろしい光景だと。

 残念ながら、小雨が降り、海は鉛色で、半島も、岬も、小島も、岩礁も、霞んでいる。

[ バスガイドの話 ] 積丹半島には、入り江を挟んで、2つの岬がある。積丹岬と神威岬。向こうに霞んで見えるのが、積丹岬。

 …… などと聞くと、積丹岬にも行ってみたくなる。

 やがて、神威岬のパーキングに着いた。季節外れのせいか、トイレ以外は何もない原っぱだ。

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小雨の中、神威岬の先端まで歩く >

 (斜めに登った先に「女人禁制の門」が見える)

 [ バスガイドの話 ] 2時間ものサスペンスドラマのように、自分の罪を思わず全部告白してしまいたくなるようなステキな岬です(笑い)。ただし、岬の先端まで、写真撮影などせず、どんどん歩いても片道20分。語らいながらゆっくり歩いたら、30分かかります。かなりの登り下りがあって、足元が悪く、風の強い日は入山禁止になる道です。先端まで行かれるという方も、決して無理をしないで、十分注意して、集合時間に遅れないよう、帰りの時間を計算しながら、歩いてください。

 ここでの自由見学時間は50分。だが、旅に出る前に、ネットで写真を見て、5つの岬のなかでも、一番岬らしい風情のある岬だと思ったから、何とか先端まで行ってみたかった。5日間の行程で、体力を必要とするのは、ここだけだ。

 それで、気を付けながらも、役の行者か烏天狗のように、進んだ。

 少し雨に濡れ、それ以上に登りで汗をかき、下りで左膝に痛みを感じ、何回か写真撮影し、40分で往復した。

 ちょっと堪えたが、一行のなかで先端まで行った人は数少ないようだから、年齢を考えれば、これぐらいのダメージは仕方ない。

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   ( 女人禁制の門 ) 

 「江刺追分」のながーい歌詞に、こんな一節がある。

 「松前江差の津花の浜で / 好いた同志の泣き別れ / 連れて行く気は山々なれど / 女通さぬ場所がある」。… 「蝦夷地海路のお神威さまは / なぜに女の足止める」。

 「波の上飛ぶカモメを眺め / 目には思わずひとしずく / 翼あるならあの山越えて / 飛んで行きたい主のそば」。「音に名高いお神威さまは / なぜに女の足とめた」。「出船入り船数あるなかに / わしの待つ船ただ一つ」。

   このツアーは、明日、一路、日本海の海岸線を北上し、稚内・宗谷岬へ向かう。だが、国防の観点から1855年、幕府直轄地になるまでは、海路であろうと陸路であろうと、宗谷岬方面へ向けて、積丹半島・神威岬より北へ、女性を連れて行くことはかたく禁じられていたのである。

 「音に名高いお神威さまは / なぜに女の足とめた」。… 止めたのは、「お神威さま」、ということになっている。(実際は、和人の経済的進出をいやがった松前藩ではないかと言われる)。

 伝説がある。義経伝説である。東北北部でも、北海道でも、… 奥州平泉で炎のなかで自害して果てた義経は、影武者なのである。義経は落ち延びて、大陸に渡る。

 去年、「本州最北端の旅」に行った。日本海側から龍飛岬に出て、車で東海岸に差し掛かったとき、三厩(ミンマヤ)という所があった。ここに伝説が残り、高台には義経寺まであった。

 北海道に落ち延びようとした義経主従は、津軽海峡を前にして途方に暮れ、3晩、観音に祈ったところ、3頭の龍馬を与えられ、無事海峡を渡ったという。(参考 : 「本州最北端の旅(4)…「龍飛岬で『津軽海峡冬景色』を歌う」)。

 その続編のような伝説が、ここ北海道に残っている。 

[ バスガイドの話 ] 義経は日高の平取という集落にたどり着く。平取は新千歳空港の東方にある津軽海峡に近い里だ。この村で義経は傷の手当をし、疲れを癒やした。そのアイヌの村の首長の娘チャレンカが義経に恋をする。

 しかし、兄、頼朝の手は執拗に蝦夷地にも伸びてくる。義経は秘かに平取を抜け出し、西へ西へと走る。

 気づいたチヤレンカは義経の後を追った。積丹半島にたどり着き、さらに西へと神威岬の先端まで追って行くが、義経らを乗せた船は、すでに海上遥かに、点のようにしか見えなかった。

 悲しみのあまり、チヤレンカは、海に身を投じて、自ら命を絶ってしまった。海に身を投じるとき、「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐれば、すなわち覆沈せん」という恨みの言葉を残した。 

 神威岬の沖合に、今も岩が屹立する。チヤレンカの悲しみが形になり、この岩になったという。神威岩という。

 以来、神威岬周辺で女性を乗せた船が通り過ぎようとすると、必ず転覆し、そのため、これより北は女人禁制の地になった、という。

 現在でも、神威岬は潮流が速く、岩礁が多く、海難事故の多い場所である。

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 「女人禁制の門」をくぐると、前方に視界が広がり、岬の尾根を縫うようにして、遥かに小道が続いていた。

 「チヤレンカの小道」と名付けられている。

 はるばると、遥かに続く尾根の道。この遥けさが、いかにも地の果ての岬という感じを起こさせるのだろう。

 昔は、もっと荒々しい道で、荒磯まで降り下ったり、そこからまたよじ登ったり、したらしい。

          ( チャレンカの小道 )

 この積丹半島の海は透明度が高く、「積丹ブルー」と言われるそうだ。あいにくの天気だったが、それでも、片鱗は感じられた。

        ( 積丹ブルーの海 )

 岬の先端近く、灯台が見えた。

 JAFの選んだ「灯台のある岬50景」の一つ。

  ( 神威岬灯台 ) 

 灯台の前に説明のパネルがある。

 この灯台ができたのは明治21年(1888年)。

 職員3名が勤務し、余別の集落からここまて片道4㌔の難路を歩かねばならなかった。水は天水を貯め、ランプを灯し、米、味噌、醤油などは備え付けの木船で買い出しに行った。

 大正元年(1912年)、食料を買い出しに行った灯台長の妻、3歳の次男、補助員の女性の3名が、波にさらわれて死亡した。これに心を痛めた村人たちが、ハンマーやタガネで、7年もかけて、遭難個所を迂回するトンネルを掘り抜いた。

 昭和35年(1960年)に無人化になるまで、職員90人とその家族により、この灯台は守られてきた、と書いてあった。

 昔、灯台守の夫婦の半生を描いた『喜びも悲しみも幾年月』という映画があった(1957年作)。主演・佐田啓二(中井貴一の父)と高峰秀子。監督は名監督といわれた木下恵介。公務員として、11の灯台を異動している。「名もなく、貧しく、美しく」という、かつての日本人の一つの典型が描かれていた。

 「貧しくても、美しい」ということが、美徳かどうかは、わからない。だが、そのころから、日本は高度経済成長、そしてバブルへと時代は進み、人々も、都市も、田園も、日本中がギラギラとして、金持ちになり、心が荒廃した。

 戦後の70年だけでも、日本はいろんな経験をしてきた。

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  灯台のすぐ先が、神威岬の先端の展望台だった。駐車場から20分。距離は770m。

   ここまで延々と伸びてきた尾根が、そのまま一気に海へ落ち込んでいるという感じだ。

 300度の展望があるが、あいにくのお天気である。

               ( 神威岬 )

 それでも、積丹ブルーの海に、神威岩が立っているのが、見えた。

 積丹半島の尾根の続きが、なお、海中に残る。神の岩である。

   ( 神威岩 )

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 その夜は、余市のキロロというリゾートホテルに泊まった。以前、泊まったことがあるような既視感があった。

 

 

 

 

 

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