< 青春のフォークソング ── 「岬めぐり」 >
1970年代はフォークソングの時代だった。歌うのは苦手で、聞くともなしに聞いていたが、心に響き、いつまでも耳に残っている曲もある。そんな一つが、「岬めぐり」である。
今は、たいていのことはネットで調べられる。歌は昭和49年 (1974年) の作品で、作詞は山上路夫、作曲と歌は山本コータローとあった。
あなたがいつか/話してくれた
岬をぼくは/たずねて来た
ふたりで行くと/約束したが
今ではそれも/かなわないこと
岬めぐりの/バスは走る
窓にひろがる/青い海よ
悲しみ深く/胸にしずめたら
この旅を終えて/街に帰ろう
田舎のバスに乗って、漁村や、入り浜や、漁港や、岬を、とことこ走っていく … そんな軽やかなリズムで歌われる青春の歌である。
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< 北海道の岬をめぐる旅 >
2016年5月、「本州最北端の旅」で龍飛岬や大間崎をたずね、秋には「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」で、ロカ岬やサン・ヴィセンテ岬に立った。
そうすると、西の山際にかかる三日月のように、心の隅にかかっていたイメージが、しだいに大きくなってきた。
(北方領土は別にして) 日本の最北端・最東端の岬をめぐる北海道の旅は、実現しがたいがゆえに、あこがれであった。
実現しがたいと思うのは、自分で車を運転し、何日も何週間もかけて、岬をめぐって行く旅であるから。
「たどり着いたら岬のはずれ … 」 (「北の岬」石原裕次郎)。 「たどり着いたら」というのは、なかなか良い言葉だ。当てのない旅である。放浪の末に、岬のはずれに来ていたのである。
リタイアして、日々自足。時間は十分にある。だが、残念ながら、最近、長時間のドライブに自信がない。腕はまだ確かなのだが、車を長時間、運転していると、眠くなる。旅に出て、枕が変わって、夜、眠れないまま、翌日、北海道の単調な道路を長時間運転することに不安がある。
そういうとき、「北海道五大岬めぐり・5日間」というツアーを見つけた。
思い切って、このツアーに参加することにした。
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送られてきた日程表は、次のようになっていた。
[第1日目 ] (走行距離240㌔)
伊丹空港→新千歳空港
→積丹 (シャコタン) 半島・神威 (カムイ) 岬→赤井川
[第2日目 ] (走行距離390㌔)
→サロベツ原野→稚内
[第3日目 ] (走行距離405㌔)
→宗谷岬→サロマ湖→知床ウトロ
[第4日目 ] (走行距離410㌔)
→知床一湖→野付半島→納沙布 (ノサップ) 岬→霧多布 (キリタップ) 岬→釧路
[第5日目 ] (走行距離375㌔)
→えりも岬→新千歳空港→伊丹空港
全走行距離 1820㌔ の遥かなる旅である。
自分が運転しないだけに、この行程を運転するドライバーの大変さを思った。いくら仕事とはいえ、たった一人でこの距離を運転するドライバーに、バス会社は、それに見合うだけの給料を出してほしいものだ。
それにしても、旅というものの半分は、青春のやり直しかもしれない。そう思いながら、飛行機に乗った。
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< 「岬めぐり」の歌詞について >
ネットで「岬めぐり」の歌詞を調べたとき、歌詞の解釈をめぐって若干の議論があることを知った。
「古い曲のことですみません。 『岬めぐり』 で 『あなた』 と呼ばれている人ですが、亡くなったという設定なのだと思い込んでいました。友人に何気なく話したら、 『ちがう。フラれたの』 と、にべもない。理由は 『曲が明るい』 というのですが、何人にもこう言われて自信がなくなりました。それなら、『悲しみ深く海に沈めて』 という表現が、妙に大げさな気がします」 という投稿があり、次の投稿がベストアンサーに選ばれていた。
「『ふたりで行くと/約束したが/今ではそれも/かなわないこと』 ですから、『あなた』 は亡くなったと考えるのが普通じゃないでしょうか。失恋の場合だと、『約束したのに…今は一人で…』 という感じになると思います。2番の 「幸せそうな/人々たちと/岬を回る/ひとりでぼくは」 というのも、失恋だと、仲の良いカップルを見る気にはならないでしょう。『あなたをもっと/愛したかった』 とか、『ぼくはどうして/生きてゆこう』 というのも、失恋じゃ、女々しすぎますよ」。
失恋の喪失感を抱えて岬めぐりの旅をしているのか、相思相愛の若いカップルの相手が不治の病の結果、亡くなってしまって、その喪失感のゆえに旅に出たのか。人それぞれに、自分の思いの中で受け止めて歌えばよいのであろう。
ただ、いくつか反論を試みると、
あえて反論したくなったのは、ベストアンサー氏が、「『 ぼくはどうして/生きていこう』 というのは、失恋じゃ、女々しすぎますよ」 と書いていたから。
私に言わせれば、青春とは、傷つきやすく、女々しく、あとで振り返れば、みっともないものなのです。そう、半年か、1年もたてば、立ち直れるにもかかわらず、です。青春とはそういうもので、感受性が豊かなのです。それを 「女々しすぎる」 というのは、すでに「おっちゃん」 「おばちゃん」になってしまった人の感想だと思いますね。 (私は、ベストアンサー氏よりも年上だと思いますが)。
逆に、愛する女性が亡くなった喪失感から旅に出たとして、そういう悲痛極まりない旅で、「悲しみ深く/胸にしずめたら/この旅を終えて/街に帰ろう」 となりますかねえ。そんなに簡単に、「旅を終え」ること、「街」に帰ることを、歌いますかねえ。もっと切々と悲しみが歌われ、旅を終える歌詞など登場しないのではないでしょうか。
なお、質問者が、「それなら (失恋の場合なら)、『悲しみ深く/海に沈めて』 という表現が、妙に大げさな気がします」と書いていますが、正しい歌詞は「悲しみ深く/胸にしずめたら」です。もちろん、散骨の旅などではありません。
ベストアンサー氏も、読み違えをしています。このバスは、ローカルな路線バスです。田舎の路線バスです。ですから、「幸せそうな/人々たちと/岬を回る/ひとりでぼくは」 の 「幸せそうな/人々たち」 とは、ベストアンサー氏が言うような、都会からやって来た何組もの「カップル」ではありません。地元のおばちゃんや、もしかしたら親子連れ、地元の高校生たちであって、日常性のなかにいる人たちです。旅をしている、しかも失恋の旅をしている 「ぼく」 は、今、一人、非日常の世界にいるのです。
最後に、私の主観的なイメージを書きます。
「きみ」 ではなく、「あなた」 と言っているのは、高校時代、大学時代を通じて上級生であった「あこがれの人」であったかもしれないと、私は想像します。今の人は、女性に「かわゆさ」 を求めますが、「あなた」 は、多分、知性や教養や気品のある年上の女性です。そして、「ぼく」 から見ても、彼女にふさわしいと思える、「大人の」男性と相思相愛になったのだろうと想像します。
ですから、今は、敗北を自らに認め、彼女の幸せを祝い、一人で、悲しみを克服して、また「街」 (日常性) に帰らないといけないのです。
青春とは、そういうものです。
そういう青春の愛おしい一コマと考えたら、歌の軽やかさも、明るさも、理解できると思います。
ただし、「亡くなった」説を否定しているわけではありません。少なくとも、そういう悲痛な経験をもって旅に出た人にとって、この歌の明るさ、軽やかさは、かえって口ずさみやすいかもしれません。自分のつらさとは少々異質の歌の方が、口ずさみやすいと思います。