ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「八重の桜 ─ 鶴ケ城開城」を見て … 70年後の日本の姿が

2013年07月25日 | エッセイ

殿様はなぜ生きたのか?? >

   NHK大河ドラマ『八重の桜 ── 鶴ヶ城開城』を見た。

 会津藩は幕府の要請を断れず、帝の願いもあり、「尊王攘夷」を叫ぶテロリズムから都の治安を守ろうとした。

 だが、「薩長史観」からすれば、会津は尊皇攘夷派の志士たちを弾圧し、さらに長州を京から追放した賊軍であり、憎むべき勢力であった。 

 故に、会津一藩を包囲した会津戦争は、壮絶な戦いになった。

 1日に3000発の砲弾が城に撃ち込まれ、城に立てこもっていた老人、女、子どもたちも死傷した。女性の薙刀隊も銃弾に倒れ、少年たちを組織した白虎隊も自刃し、家老家では家老の母、妻、娘たちまでもが全員、白装束で自決した。

 戦いの後、生き残った旧家臣たちのその後の人生も、悲惨を極めたと言う。

 にもかかわらず、殿様はなぜ生き延びたのか?

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みなは、生き抜いてほしい >

 矢尽き、刀折れ、糧食も尽き、精魂尽き果てて、降参、開城する。

 この一藩滅亡のとき、松平容保は、生き残った家臣たちを前に、「私が至らないために、事、ここに至った。すべて私の責任である」と謝り、「みなは、どうか生きて‥‥生き抜いてほしい」と訴える。

 激動する時代のなか、「藩主」であるという自覚をもって、藩の意思決定をリードしてきた殿様だから、一藩が精魂尽き果てた今、最後は自分の命を引きかえに、生き残った家臣やその家族の命を救うつもりであったのだろう。国は壊滅しても、せめて生き残っている者は、生き抜いてほしい。

 誠実で優秀なリーダーであるがゆえに、或いは、そうありたいと努めるほどに、歴史の渦に巻き込まれていき、いつの間にか歴史の敵役・標的とされ、その優しい心根に反して、藩と家臣・その家族を巻き込んで、一藩もろともに壊滅していく。その悔しさ、無念さ、悲劇性を、綾野剛が好演していた。

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祖国(郷土)防衛戦争 >

 思うに、会津の家臣たちは殿様のために戦ったのではない。女、子どもまでがその運命を引き受けたのは、殿様一己のためではない。

 松平容保という一人の殿様の、その命と肉体、その個人的誇りや、個人的幸福を守るために、多くの家臣とその家族が命を投げ出したわけではない。

 確かに容保は、殿様として仰ぐに足る心根をもった殿様だった。この殿様が中心に居たから、会津は一丸となって戦えた。

 だが、会津の人々にとって、会津戦争は、殿様を守るためだけのいくさではなく、祖国(郷土)防衛戦争であった、と思う。会津が守ろうとしたのは会津であり、「会津の心」であった。

 会津人の一人一人の「心」のバックグランドにあるのは、祖先たちの歴史であり、先祖から伝えられた教えであり、会津の言葉であり、祭りや行事であり、会津の山や川や田や風であり、四季の変化であり、会津の風土であった。

 目に見えるものもあれば、見えないものもある。故に、「会津の心」は、会津の野や山や川に居ます「神々」 のことであると言い換えてもいい。

 会津の「心」を守る戦いは、ふるさとを守る戦いであった。

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会津の山や川や風とともに >

 無数の砲弾・銃弾を受け、いよいよ「降参」し、「開城」するとなったとき、殿様は、「自分が至らぬために、申し訳なかった」と、家臣たちに頭を下げた。

 頭を下げたのは、既に死んでいった者たちへの思いからでもあろう。多くの死者の死を無駄にして降伏し、国を亡ぼすということは … 当然、万死に値する。

 だが、「殿様にだけは生きて、生き抜いてほしい 」というのが、降伏する家臣たちの心だった。

 ふるさとは、今からは敵に占領され、統治される。

 殿様にまで死なれたら、死んでいった者たちは、何のために死んだのか? 全てが無意味になる。 全てが無に帰してしまう。

 会津のために死んでいった、多くの男たちや女たちや年寄りたちや、少年や少女たちの魂はどこを漂うのか?

 声高に主張することはできないだろう。いや、そんなことはしなくてもいい。しかし、殿様が生きて、存在することによって、自分たちが何のために戦い、死んだのかというその証しが、存在することになる。殿様にまで死なれたら、何も残らないではないか!

 … だから、容保は生き続けなければならなかった。そして、生き続けた。

 会津の山や川や風や、美しいふるさとを守って命を捨てた多くの人々の心とともに。

 そのとき、容保は、死んでいった者たちとともに、神となる。

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絶望的な戦いを続けた70年後の日本の姿と >

 ドラマを見ながら、圧倒的な敵軍に対して絶望的な戦いを続ける会津が、その70年後の日本の姿にダブってくる。

 第二次世界大戦における日本もまた、会津を遥かに超えた形で、絶望的な戦いを続け、何百万人という将兵を死なせ、国土を文字通り焦土とし、挙句に、降伏し、「侵略国」のレッテルを貼られ、戦争指導者たちは「A級戦犯」として戦勝国に裁かれ、処刑された。

 戦争を正邪で判断することはできない。 非は会津にもあったろうが、それは薩長と同じくらいに、という意味においてである。

 ただ、戦いに敗れるということは、そういうことである。

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 だが、思うに、日本国民は、A級戦犯として処刑された戦争指導者からも、裁判の前に潔く自決した戦争指導者からも、裁判にもかけられず戦後を生き延びた多くの戦争指導者からも、「事、ここに至ったのは、自分が至らなかったからである」という悲痛な言葉を、ついに聞くことはなかった。

 彼らは、江戸時代の殿様よりも気位は高く、国民への責任感は低かったということであろう。

 彼らはただ、学校の成績において「秀才」であったというだけで指導者となった。ところが、不幸にも、軍人としても、政治家・外交官としても、彼らの力量は世界の中で三流だった。 

 問題は、彼らが自分の力量は三流であるということを自覚していなかったことにある。

 中央政府に対し極秘のうちに謀略を練り、勝手に兵を動かし、突如、満州国を作った関東軍のエリート参謀たち。

 何度も和平を結ぶチャンスがあったにもかかわらず、手柄を立てたくて、中国戦線を拡大していった軍人たち。

 かっこよく啖呵を切って国際連盟を脱退し、あろうことかヒトラーと同盟を結んだ外交官。

 自分たちが「井の中の蛙」と自覚せず、思いあがって、東京を戒厳下においた青年士官たち。

 圧倒的な国力の差を承知しながら、「やむにやまれぬ大和魂」とばかりに対米戦争を開始した軍人指導者。

 いずれも出世主義的で、鼻持ちならないほど自信過剰で、破れかぶれで、驚くほど単細胞であり、国益に反したスタンドプレーである。

 「追い込まれてやむなく起った」のが日本、などというセンチメンタリズムに酔っていてはいけない。防衛線の無秩序な拡大は膨張主義であり、その結果、多くの敵をつくり、追いつめられ、亡国に至ったのである。

 国際関係は力関係だから、国益を守れないときもあろう。 だが、亡国を招いた指導者は、万死に値する。

 会津藩の名誉のために言えば、会津は幕府の要請と帝の願いを受け、都の平穏を守ろうとしただけである。

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 以上は、日本国民の一人として、日本の戦争指導者の、指導者としての「責任」を追及しているのであって、彼らを、戦勝国が、一方的に「戦争犯罪人」として裁き、処刑したという蛮行を、肯定しているわけでは、ない。

 裁判という恰好だけつけてはいるが、戦国時代に立ち戻ったような野蛮な報復主義である。

   

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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