南木佳士 『急な青空』 の 「源流へ」 から、
そして、3時間、苔むした針葉樹林間にひっそりと建つ 「千曲川・信濃川水源地標」 にようやくたどり着いた。オニギリを食べ、源流の水をペットボトルに汲んだ。
帰りはゆっくりと景色を楽しみながら下った。登りでは足元に気をとられて気づかなかった絶景にあらためて驚いた。渓流の脇の草地で水音を聞きつつ木漏れ日を浴びながら寝ころぶと、いまこうして在ることのありがたさを感謝せずにはおられなかった。神は周囲の山川草木に満ちみちていた。
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「登りでは足元に気をとられて気づかなかった絶景にあらためて驚いた」。── そう、私も残りの人生は、こういう発見と感動をしながら、景色を楽しんでゆっくり下っていきたいと思う。
「神は周囲の山川草木に満ちみちていた」。
この黒潮あらう日本列島に生まれ、生きた人々は、縄文の昔から現代まで、「国敗れて山河在り」 という一時期さえもあったのだが、時代を超えて、山川草木のなかに神を感じてきた。
それは、生まれや肌の色によるのではなく、従って、身分や遺伝子によって身についたものではなく、また、この島国にやって来て長いか短いかということでもなく、この列島に生まれ育ち、 「日本語を母語としてきた人々」 に共通する感性であった。
この列島の風土と言語によって培われた、基調となる「文化」である。
好むと好まざるとにかかわらず、また、それぞれの思想・信条・宗教観などという表層を超えて、この列島に生まれ、育った人が共有する「文化」である。
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南木佳士『急な青空』の「源流へ」の続きから、
車を止めた場所の近くまで下りてくると、道の脇に小さな祠 (ホコラ) があった。これも行きには反対側の距離表示板に気をとられて目に入らなかった。無事の下山に感謝して深く頭を垂れた。
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神が、山川草木に満ちみちているということに気づかないのは、日常の何かに気をとられているからであって、目には見えていなくても、心には感じているのである。