いいしらせのグッドニュース[パート・Ⅱ]

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相模原には、その昔、士官学校がありました。 効外都市“相模原”その5

2012-04-23 09:52:14 | Weblog





       昭和11年6月、このあたりは陸軍に買収される。提示された条件は、
       (ア)天皇の行幸を仰ぐに便なること。(イ)富士山を眺めうること
       (これは叶わなかったが)。(ウ)用水その他生活に必要なものが
       十分であること。(エ)予算275万円をを限度とすること。 
       であったそうだ。
       相模原は、東京に近く、神奈川県北部の相模野台地上にあって起伏の
       ほとんどない平坦地であり、しかも土地価格が安価で、広大な土地で
       あった。
       軍人の養成機関、生産施設、医療施設などをつくる構想で、
       陸士・陸軍士官学校並びに同練兵場が、その柱だったようである。


       陸軍士官学校は、昭和12年9月に市ヶ谷から移ってくる。








       まあ、こんな顔つきのムードになっていったのでありましょうか。








       昭和12年12月20日、第50期生の卒業式に行幸された
       天皇陛下は、陸士所在地を「相武台」と命名される。
       写真が、その記念碑です。


       ここに、相模原の歴史がはじまり、敗戦後のアメリカ(一応、
       連合軍だが)“座間キャンプ”へとつながっていく。







       これは、天皇陛下のためにつくられた待避壕です。
       天井の厚さ、1.6㍍もあるとか。
       使用されたことはないと思われます。







       これは、キャンプ内で見かけた鳥居。
       他にも保存・管理される神社あとの鳥居があった。
       「相武台」の記念碑もそうだが、歴史の浅い米国人はこうした
       ものに想像以上に気を遣っている、大切にしているように
       思われました。


       昭和11年当時、座間・新磯・大野・麻溝の町村長が陸軍に
       呼ばれたとあります。
       以来、雑木林がきれいに管理されてきたという印象をもつ
       “相模原”一帯ですね。












       自衛隊広報のサトウさん。
       相模女子大の女子大生。
       “はやぶさ”の模型と研究施設。
       座間キャンプと米軍住宅などの広大な土地と施設。
       その他。


       効外都市“相模原”の歴史と現在です。

       これをどう、みますか。
       少なくとも、田中角栄論理で出来上がった都市ではありませんね。