AKB48の旅

AKB48の旅

相対座標と絶対座標

2017年02月23日 | AKB
「ないものねだり」を我ながら呆れるくらいに、ずっと聞き倒してる。もう4日目でたぶん数百回のリピートにもなると思うけど、未だに飽きる気配がない。

これまでのヘビロテ曲ということで思い返して見て、一つ前にハマったのは「世界には愛しかない」だったけど、あちらは開放的な爽快感にしてカタルシス浴ということで、我ながらそれなりに説明が付く。けれども「ないものねだり」は内向きでクセの強いソロ曲という「三重苦」なわけで、むしろ中毒という表現が馴染む感じ。多少とも近似するのが「恋するフォーチュンクッキー」あたりになりそうだけど、あちらは健全性が担保されてて「ないものねだり」ほどのジャンキー感はもちろんなかった。

楽曲そのものの薬中感もそうなんだけど、この曲が表現する「世界観」を中心に据えて秋元グループを概観すると、呆気ないほど見通しが良くなるような錯覚に襲われてしまう。こっちの方がヤバいのかも知れない。

言わば複素平面の絶対座標。この曲が表現するであろう橋本奈々未さんの虚構というか虚数解のようなものを絶対座標の基準に置いて、子供と大人、成長と性成熟、出会いと別れ、生と死といった座標軸を設定すると、その上に乃木坂の解が一意的に確定される。AKBの位置情報が明らかになる。欅坂のテンソルが明瞭化する。そんな魔境に陥ってしまう。

もちろんそんな全能感のようなものは実際には酩酊感というか変性意識なんかと同等なんであり、正に魔境なわけで、言わばイデオロギー的な誤謬そのものでもあるんだろう。絶対座標は、それが「絶対」であるが故に、本質的な誤りを内在してしまう。自己了解像と世界認識のゆらぎを、矛盾することなくなめらかに遷移しながらの相対座標に如くはない。

ただ、この絶対座標が提示するかに見える秋元グループの俯瞰図は、魅力的であるが故にどうにも捨てがたいものがある。私にはどうしても仏は殺せない。何か言い訳はないかと考えてみて、それが絶対座標なんかではなくて、不動点定理によるニッチなのではないか、そういう認識はありかなとも思う。

とすれば、この「ないものねだり」は橋本奈々未さんという不動点に触れてしまったが故に、秋元氏の上手の手からうっかり漏れた復号鍵のようなものと見なせるのかも知れない。

オリジナル

2017年02月22日 | AKB
中途半端は淘汰される、AI時代の働き方
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170221-00118699-diamond-bus_all

 これは何を意味するかというと、AI時代においては、オリジナルを生み出す人とそうでない人間とでは、大きな格差が生まれるということだ。オリジナル素材としての声やビジュアル、あるいは小説や楽曲の作風を生み出せる人間は、「オリジナル使用権(著作権)」のようなものが確立されれば、莫大な印税を手にすることができる。一方、そうでない中途半端な(オリジナルを生み出せない)芸能人や作家は淘汰される、ということだ。AKBグループのようなアイドルグループは生き残れるかもしれないが、アーティストはかなりの才能がなければ生き残れない。少なくとも、洋楽のパクりでメシを食っているアーティストは全滅するだろう。

「ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表」という長ったらしい肩書きの竹井善昭氏による記事。大変秀逸な内容で、興味深く読ませていただいた。その中に「唐突」にオリジナルを産出する存在として、AKBグループの名前が出てくる不思議。

もちろん別に不思議なんかではぜんぜんなくて、私的には全面的に賛意を表させていただくところだけど、どういうコンテクストで竹井氏がこのように語ったのか、些か奇異な感触があった。さっそく、というほどでもないけど、「竹井善昭 AKB」でググってみて、いくつかの過去記事に目を通してみたけど、疑問は氷解、という訳には行かなかったかな。

まあいいや。渡りに船じゃないけど、この記事にかこつけて言ってみたかった「オリジナル」ということ。「予定調和を壊す」んだから当然なんだけど、秋元グループのオリジナリティは極めて高い。リスクを恐れることなく無から有をつかみ取ろうとする、創造しようとする秋元氏の、そしてそれについて行く、ついて行けるメンバーの偉大さを、声を大にして言いつのりたいところ。

「冷静と情熱の間」

2017年02月21日 | AKB
昨日の今日で、聞ける時間にはほぼ「ないものねだり」をヘビロテしてる。

この曲を書いた秋元氏、そして書かせた橋本さん、そしてスタッフの皆さんに心からのリスペクト。

なんかじっとしてるのがもったいなくなってググってみたけど、これといったテキストに巡り会えない。そんな中、以下の記事に目がとまった。

【コラム】冷静と情熱の間にいた孤高の人、乃木坂46橋本奈々未の集大成『サヨナラの意味』について語りたい
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161127-00152016-rorock-musi

表題曲“サヨナラの意味”はピアノの旋律によるイントロがバラードの始まりを予感させる。《サヨナラに強くなれ》《サヨナラを振り向くな》《サヨナラは通過点》と訴えかける歌詞も相まって、一切の余韻を許さない感じがかえって切なく、まるで卒業に際してキッパリと「やり残した事はありません」と答えた彼女の強い意志そのもののようだ。そして、アップテンポだからこそ描ける「別れ」の絶妙な温度感を再現した表題曲はもちろんのこと、カップリングに収録されている橋本のソロ曲“ないものねだり”にも注目したい。橋本が綴った日記を元に秋元康が作詞をしたという同曲(彼女が好きだと公言しているバンドの代表曲と同じタイトルであることも気になるが)は、“サヨナラの意味”から一転、ゆったりとした時間軸で進んでいくバラード。穏やかなサウンドの中で歌う彼女の声の揺らぎは、女性的な繊細さや柔らかさを象徴している。

AKB48の公式ライバルとして結成され最初からヒットを義務付けられていることへのプレッシャーと、そんな中で抱く「自分を変えたい」という想い。端的に言ってしまえば、乃木坂46とはその狭間で闘う少女たちの物語であり、もちろん橋本もその当事者ではあったが、彼女はどこか俯瞰した視点で自分自身を見つめることができる人でもあった。だからこそ初志貫徹の人だったのだと思うし、そのクールビューティーなルックスとは裏腹に、情に厚く芯の通ったところもあった。冷静と情熱の間を行き来する、ゆえに孤高であり続けた人。今回のシングルに収録された“サヨナラの意味”と“ないものねだり”はそんな彼女の筋道の通った二面性を表しているように思える。


奇しくも蜂須賀ちなみ氏のコラムだった。

以下は書くかどうか迷ったけど、えいやっと書いてしまおう。

「ないものねだり」のあまりの完成度に引きずられるように、奇怪なイメージがわき上がってしまった。この楽曲と私の理解するところの乃木坂の存在様式が、表裏一体の関係性に思えて仕方がない。つまりは「乃木坂の虚構性」と言う時、その裏付けというか「実態」のようなものを体現していたのは、橋本奈々未さんだったのではないか。

この曲には間接的ではあるけど「性」としての女性が露出してる。一方で乃木坂もまた漂白されてはいるけど、実はやはり人格とかを置きざりにした、「性」の露出こそが最大の特徴だったのではないか。そこがAKBとの決定的な違いとなったのではないか。

そしてその差異は、秋元氏が画策したとかではもちろんなくて、まったくの偶発的な乃木坂1期生の人格構成と人間関係の中、とりわけ橋本さんの存在によって決定づけられたのではないか。

事実として当初のセンターであった生駒さんは、おそらくはもっとも「性」から遠い立ち位置にあった。その事実が、秋元氏の当初の目論見との違いを浮き彫りにしてくれてる。AKBとは決定的に異なった乃木坂の「虚構性」、表面的かつ構造化の希薄さ、言わば「女性」性・・・、そんな諸々の特徴の正に隠れた当事者が橋本さんだったのではないか。乃木坂とは、その「冷静と情熱の間」に存在したということなんではないか。

うーむ、まだもう少し踏み込めそうだけど、この辺りで自重かな。

「ないものねだり」の衝撃

2017年02月20日 | AKB
18日放送の「乃木坂46SHOW」は橋本奈々未さんの特集だったけど、そのラストで歌われた「ないものねだり」に衝撃を受けた。ここでの「衝撃」とは、「得意」としてるところの誇張とかではなく、正真正銘の驚嘆の表現。これは掛け値なしの傑作だと思う。

何を今更なんだろうけど、乃木坂46にはあまり関心を払ってはいなかったこともあって、「ないものねだり」は今回が初聞だった。もちろん橋本さんの「引退」は情報としては知ってたし、表題曲の「サヨナラの意味」が、特に触れては来なかったけど良曲であることも認識してた。けれども卒業曲の「ないものねだり」は今日まで知らなかった。

これは何なんだろう。結論から言うと秋元氏のプロデューサーとしての凄み、クリエーターとしての力量を再確認させられた思い。橋本さんという存在を鮮やかに描き切ってる、いや恐らくは実存としての橋本さんを振り切ってるのであろう凄み。けれどもその凄みは見事に折り合いをつけられて、表面的には外連味のない「佳曲」に仕上げてある。ちゃんとエンターテインメントに設えられている。なのに、あるいはだからこそ、底知れない奥深さに圧倒される。

当然のことだけど私が橋本さんの何を知っているわけではない。ほとんど何も知らない。けれどもこの曲を一曲聴くだけで、橋本さんがどういう人物なのか、どんな女性なのかが分かった気になる。言い方は嫌みに聞こえるかも知れないけど、見事に騙される。それだけの説得力が込められている。いや凄いわ。

乃木坂の「虚構性」ということについては何度か書いた。その「虚構性」には、当然ながら秋元氏も関与してるわけで、言わば「共犯」みたいなものなんだろう。けれどもそんな「虚構性」とリアルの間には境界線はないとも思われる。逆に言うなら、その「虚構性」もまたバーチャルリアリティの一表現ということになる。

AKBの存在様式がリアルバーチャル連続体であると書いたのはもうずいぶん前になるけど、それだけ書くと当たり前のことを言ってるだけに聞こえるかも知れないけど、そういう視点で言うなら、乃木坂はリアルの部分が大幅に後退しただけで、意外なくらいに類似した構造とも言えてしまえる。端的に言ってアイドルとはそういうものということなんだろう。

そんな乃木坂の「虚構性」の様式は、若い女性(=妊娠可能女性)の動物としての「演出」と見事に重なるものであって、それが女性アイドルとしての言わば「釣り針」として機能する。実にゲスな物言いではあるけどそういうことなんだろうとも決めつけられる。

そんな範囲までも視野に入れてた上で、けれどもそんなそぶりはおくびにも出さず、たくみに糊塗して、美しくラッピングしてみせる。けれども背後を伺えば、どこまでも掘り下げられそうな気がする。そういう気にさせる。

ここまで奥深さ(と言う名の虚構)を感じさせてくれる卒業曲は、少なくともAKBサイドにはなかったように思う。ざっと思い浮かべてみてももっとストレートで合理的な感触の、言わば「男性的」な曲ばかりだった。まあそこは卒業曲であると同時に引退曲でもある、そういう特殊性はあるのかも知れない。対立軸的な表現になってしまうけど、実に「女性的」に感じられるし、乃木坂というその「虚構性」までも繰り込んでの、アイドル橋本奈々未を表現しきってるとも言えそう。

あるいは勝手に穿った思い込みに過ぎないかも知れないけど、もしかして秋元氏は橋本さんを一人の女性として見ていたのかも知れない。この曲は、そんな心根の吐露になってるのかも知れないし、そういう別レイヤに属する、また異なった「虚構」の表現であるのかも知れない。

MVも見たけど、よくできてるとは思うけど、楽曲のファーストインパクトに勝るものではなかったかな。橋本さんというキャラクターの賜なのかも知れないけど、この「ないものねだり」は、乃木坂の歴史の中でも随一の(隠れた)名曲ということになりそう。

それと、いろいろなイメージ元は大貫妙子氏なのかなとか、ふと思った。

“Zeppツアーの壁”

2017年02月19日 | AKB
欅坂46のブレイクと“Zeppツアーの壁”ーー2017年のアイドルシーンを占う
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170217-00010013-realsound-ent

そしてこの約2、3000人が、48系やハロプロ系、スタダ系などの専オタではない「熱心に現場に通うタイプのライブアイドルDD」の総数ではないだろうか。ライブアイドルDDであるなら、毎週末の普段のライブには通わなくとも、「メモリアルな単独公演なら観に行きたい」と考える。ライブアイドルがブレイクするためには、まずはそこを総動員できるほどの人気を得たうえで、さらにその人気をアイドルシーンの外部へと繋げて行く必要がある。

引用部分だけでなく、記事の全編にわたって興味深い指摘のてんこ盛り。ただし、いかにもマーケットリサーチ的と言うか、目的合理性指向の視点からの理解なり分析になってるとも言えるわけで、とすれば、この記事の「予想」的な要素はほぼ当たらないことになる。

そんな中、エラソに言うのもなんだけど、この“Zeppツアーの壁”というキャッチコピーはなかなか秀逸に思えるし、この部分の分析にはなかなかの説得力がありそう。