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科学を信じるか、それとも宗教を信じるか

2022-03-20 08:30:16 | ブログ
 科学と宗教との対立という話題は、しばしば対談のテーマとしてとり上げられる。また、人が人生の残り時間が少ないと感じる頃、多くの人々は、科学の方にではなく、仏教のような世界的な宗教の方に関心を向ける。

 科学はエントリーするのに敷居が高いが、宗教は多くの人々が注目する趣味や生涯教育の類と同様にエントリーしやすいから、というのも理由の一つかも知れないが、宗教を選ぶいくつかの理由のうちの一つに過ぎないように思える。

 そこで、今読みかけている参考文献の中で、宗教について論じている一章を参考にしながら、科学と宗教との係わりについて語りたい。

 参考文献は、宗教はなぜ生じ、現在に至るまで繁栄しているのか、という疑問に対して、宗教を通じてヒトの集団が社会的結束を図ることは、亡くなった先祖を敬うことにもなり、遺伝的に生き残りの可能性を高めたという説は、宗教的な絆がなくとも人々が助け合いながら集団生活を営むことが可能であろうと考えられることから、多くの人々を納得させる考えではない。

 社会的結束説とは別に、集団よりも個人レベルでの適応のために宗教が果たした役割は大きいという説は、かなり説得力のある考えである。なるほど、宗教を信仰する個人が、目に見えない何者かが見ていることをおそれて犯罪的行為を思いとどまったり、信仰によって死の恐怖がやわらげられるように感じたり、ご利益を期待して祈ったりすることは、個人がよく行う宗教的行為であろう。

 参考文献によれば、「ヒンズー教と仏教は、日常の知覚が与える幻影を超える実在を探求するが、過去100年間に起こった驚異的な科学的進展の多くもまた、同じことをやろうとしてきた。」という。

 仏教を信仰する人々も、「同じことをやろうとしてきた」と信じているためか、「これらの宗教と現代物理学にはつながりがあると考え、そのつながりを明らかにすると称する記事や本を書いたり、映画を作ったりする人たちがいる。(中略) 現代物理学は極東で何千年前に見出された教えを要約したものだとする本が非常に多い」という。

 私の考えでは、仏教は日常生活に根ざした哲学思想である。人の日常生活とは、ヒトがその感覚器官から受け取った刺激に基づいて、その筋肉を動かすとともに、頭脳を働かす生命活動のことである。仏教の信仰者、特に浄土宗や浄土真宗の信者は、阿弥陀仏による救済を信じ、念仏によって極楽往生することを目的としている。人の死後に西方浄土で暮らすということは、日常の生命活動の延長を意味するのであり、生命活動の停止とは相いれないものである。現代物理学は、ヒトの感覚器官が受け取る刺激を超えた世界を探求している。

 この考えに対して、仏教の信仰者は、次のように反論するであろう。極楽浄土は、仏教の一派が喧伝しているものであって、決して仏教がもつ哲学思想の根幹をなす教えではない。仏教は、日常の知覚がもたらす世界を超えたところにある実在を探求せよと教えているのであり、参考文献の著者であるブライアン・グリーンもそれを認めているではないか、と。

 私は続ける。古典力学は、微積分学などの数学を用いて理論化した物理学の一分野であるが、多分にヒトの感覚器官が受け取る刺激に寄り添った展開をしているので、なじみやすいし、人の日常生活との相性もよい。しかし、古典力学を革命的に発展させた量子力学となると、そのような期待は完膚なきまでに裏切られる。量子力学が教えるものは、実験と観測によって確認できるが、その本質は数学的構造にあり、量子力学からその数学的構造をとってしまったら、何も残らないと言ってよい。つまり、量子力学の実存とは、ヒトが知覚として受け取ったり、物質的な実体を類推したりすることが困難なあるいは不可能な数学的構造のことなのである。現代物理学は何千年前に見出されたヒンズー教や仏教の教えを要約したものだと言うのなら、量子力学の教科書に出てくる数式に相当するものを記載した仏典を提示してほしい。

 人間が日常の知覚がもたらす世界を超えたところにある実在を探求するということは、結局、人間の精神を探求することになり、これは自己言及に陥ることに他ならない。量子力学がもつ数学的構造は、このような人間の自己言及が及ぶ範囲を超えたところにある実在であると信じる。

 私は、60歳ごろから、むかし大学で物理学を専攻した同期生10人くらいと時々集まっては、だべったり、議論したりしている。ここのところ2年半ぐらいはコロナ禍のため会合は中止しているが、それでもメールでお互いの近況を報告し合っている。

 我々が70歳台の頃までは、科学技術に関するテーマを持ち出して議論すると、それなりの関心があり、コメントが返ってきた。しかし、私が83歳に近い最近では、私以外メンバーの誰もが最近の科学的話題に関心をもたなくなった。科学よりも西方浄土のことが気になるようだ。

 もはや彼らを科学の世界に引き戻すことは期待できないであろう。日本の隠居した多くの年寄がしてきたように、彼らも仏信仰の道を歩むことであろう。私は科学信仰の道を選ぶことにする。どちらの道を選んでも死後にたどり着くところは同じであるように思えるが。

 参考文献
 ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」(講談社)

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