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センチメンタリズムという感染症

2010-03-18 17:02:08 | 社会・経済

 3/17の朝日新聞夕刊に掲載の文化精神医学が専門という一橋大学の宮地尚子教授の「人の価値が下がる時代-張りつく薄い寂しさ」と題する記事を読んでいた。先生は、現今の世相のやりきれなさについて述べ、「剥がしても剥がしても張りついてくる薄い寂しさのようなものを、私たちは今抱えている気がする。人の価値が下がっている。」との感想を吐露されておられる。

 この記事の内容は平易であり、先生の感じるところは、多くの日本人が共感するものであろうと推測できる。しかし、私見を一言で要約するならば、それは一種のセンチメンタリズムという感想を拭えない。それは、自分の将来を悲観的にみるものであり、他人の言動を否定するものであり、日本の将来に大きな不安を抱くものではなかろうか。多くの日本人は、この種のセンチメンタリズムに感染しやすい。特に、先生のように精神医学において指導的な立場にある人に言ってほしくない感想であった。先生は、自分の感想がすでに多くの日本人の共感しているものであり、事実を述べているだけだと反論されるかも知れないが。

 先生の感想をセンチメンタルであると決めつけた手前、私の哲学について述べざるを得ないでしょう。私の考えるところによれば、人がどのように生きるかという生存の履歴は、必然的なものであり、悲観的になることも楽観的になることもないという理屈をまず言いたい。人生の履歴がいかに偶然的に見えようとも、すべてに何らかの理由があり、そこに偶然が入り込む余地はないと言いたい。極言すれば、人生には特に希望もなければ絶望もないと言いたい。人間は、38億年に及ぶ生物の進化の歴史と、少なくとも5000年に亘る文化・文明の履歴を踏まえている生き物であり、それは現今の世相のような時間に関する一時的な微分傾向に左右されるものだろうか。このような人間の悠久な歴史を考慮に入れると、現今の世相などは一時的なゆらぎに過ぎない。また個人の人生など無視できるほどの微小時間に過ぎない。人間の歴史に比べて個人の人生はあまりに短いが、人間という生物が安定に生存し続ければ、それでよいではないか。

 人間を含む自然の原理の大枠は分かったとして、各人の人生という器に将来盛り込まれる内容は全く分からない。自分の将来がどうなるのか、他人の将来がどうなるのか、日本の将来がどうなるのか予測できない。この人生がこの先どうなるのか、やってみなければわからないということが、実に人生の面白さでしょう。結果だけ見ると必然的なのだけれど、結果が出るまでは一種の期待感をもって物事を継続できるということは、理屈と現実とが両立し得るということで、これこそ人生の醍醐味と言ってよいでしょう。もっとも、このような人生の面白さが分かるのは、人が60歳を過ぎてからかも知れない。このような考えは、なにも新しいものではなく、昔の人々がよく言っていた「人知を尽くして天命を待つ」という言葉に凝縮されています。

 それでは、多くの日本人は何故宮地先生のようにセンチメンタルになり易いのでしょうか。外国人のDNAとは違い日本人のDNAにそのような性癖が刻み込まれているとは考え難いので、日本という生活環境が日本人の脳に外部からのセンチメンタリズムに共振しやすいような固有振動をもった神経回路を形成するのではないでしょうか。すなわち、日本という環境が日本人の脳をセンチメンタリズムで洗脳し易いということです。

 宮地先生の指摘されたような世相にあって、各人はどのような態度で身を処したらよいのでしょうか。人間というものが、いかに進化の極致に達した産物であろうとも、生物の構造やその営みがいかに精妙であろうとも、世界がいかに複雑で驚嘆すべきものであったとしても、生身の人間の知り得て行動できる範囲はごく限られているので、理想的なことを唱えても、実行できない。すなわち、どのような知識人であろうとも、所詮は自分とその周辺しか知らない井の中の蛙になるように運命づけられているのであるから、誰でも実行可能な処世方法でなければならないという前提があります。

 私の見るところでは、3つ位の選択肢しかないと考えます。1つ目はまともな宗教を信仰してスピリチュアリティの世界に浸ること、2つ目は自分の哲学を確立すること、3つ目は敢えて世相に流されるような生き方を選択することです。人がスピリチュアリティの世界にあれば、少なくともその間は望まないようなセンチメンタリズムを避けることができます。また、自分の哲学が生き方の基軸になっていれば、世相がどう変わってもそれによって生き方がぶれることはないでしょう。スピリチュアリティも自分の哲学も苦手という人は、敢えて自分はセンチメンタルに生きるのだと宣言しても構わないと思います。世の中は皮肉にできているので、このような人々の中には、他人の心情をよく理解でき、精神的に落ち込んだ他人を救えるような人を期待できるかも知れない。


チューリングの反応拡散方程式

2010-03-08 08:31:53 | 学問

 この記事のタイトルを見ただけで、多くの人々は読む気をなくすに違いない。私も、だれもこれを読まないことを期待しながらこの記事を書いていますから。

 私は、21世紀の科学技術のキーワードとも言われる自己組織化というテーマに関心をもっており、これに関する文献をいくつか読んでいます。しかし、自己組織化のしくみの中心となる概念は、時間に関するリズムと空間的なパターンであるとの教えにも何か身につくまでに理解したという実感をもてませんでした。

 このようなときに、以前新聞で紹介されたことのあるチューリングの反応拡散方程式を思い出したのでした。新聞の記事によると、シマウマのしま模様、カエルの斑点、ヒョウの網目などのパターンが何故できるかの問題は、チューリングが提案した反応拡散方程式によってよく説明できるというものです。この方程式は、見かけ上は極めて単純なものであり、式の左辺は各物質の濃度をベクトル表現したものの時間に関する微分を表わしており、式の右辺は第1項と第2項とから成っています。第1項はこの濃度ベクトルに関して反応を示す関数を示しており、第2項はこの濃度ベクトルに関して空間的な拡散を示す第2次微分を表現しています。右辺が第1項だけなら、それはよく知られた化学反応速度を示す方程式に他ならないし、第2項だけなら、これまたよく知られた拡散方程式に他ならないという代物です。すなわち、チューリングの反応拡散方程式とは、周知の化学反応式と拡散方程式とを単に加えただけのものということです。しかし、このような単純明解な方程式を提案できるか否かが天才と凡人の違いということになるのでしょう。

 私がこの方程式を思い出したのは、この式が自己触媒反応を含む化学反応に関する自己組織化を表現する一般的な方程式になっているのではないかと考えたからでした。ある種の化学反応モデルについての計算結果によると、触媒となる物質の濃度は、時間に関して周期的に振動することが示されています。これは、反応拡散方程式の右辺の第1項で表現されていると考えることができます。このような系の規則的な周期動作は、化学時計とも呼ばれ、生体内のクロックとして機能するのではないかと考えられています。

 一方、系が非平衡であるために、触媒となる物質X,Yの濃度が時間的にリズムを発生させるだけでなく、物質X,Yの拡散によって空間的な振動も出現します。このような物質の空間的な拡散が反応拡散方程式の右辺の第2項で表現されていると考えることができます。もし物質X,Yの色が異なっていれば、空間的なパターンが形成されることが視覚的に確認できます。物質X,Yの濃度はリズム振動するとともに、物質の拡散により濃度の進行波となって空間を伝播して行きます。つまり、リズム振動が安定化したときも系は空間的に不安定な状態にあり、系内に生じたわずかなゆらぎをきっかけとしてこのような濃度の進行波が開始されます。空間の境界条件がこのような濃度波と固有振動の関係にあれば、時間的に定常な定常波を形成することもあり得るわけです。

 チューリングの反応拡散方程式のおかげで、それまでもやもやしていた自己組織化におけるリズムとパターンという概念が統合的に理解され、自己組織化のしくみについて見通しがよくなったように思われます。

 それでは、この反応拡散方程式は、ニュートンの運動方程式や量子力学におけるシュレディンガー方程式のように自然哲学の数学的原理を表現するか、あるいは象徴するものになるのでしょうか。現代の自然哲学の教えるところによれば、その答えは否を示唆しているようです。

 反応拡散方程式は、運動方程式やシュレディンガー方程式と同様に、微分方程式であり、その解である時間発展は時間に関して可逆的であることを示しています。また、微分方程式というものは、決定論的な過程を記述するものです。平衡な系であれば熱力学的なゆらぎに対して常に安定ですが、非平衡な系では系に存在するゆらぎに対して不安定であり、わずかなゆらぎがその後系がたどる分枝を確率的に選択することになります。また、化学過程は、不可逆過程に対応しています。すなわち、系の挙動は、もはや微分方程式で表現できる範囲を超えてしまっているということです。

 ここまでの説明を読まれて、微分方程式などという難しいことを考えることはないではないか、この世はやはり偶然に身を任せるような生き方が最も賢いのではないかと考えるのもありと思います。以前の記事で書いたように、原生生物の行動原理も単純明解な「ゆらぎと選択」であるし、人間の頭脳活動も「思考のゆらぎ」に基づいているので、結局偶然に身を任せることになるのではないか。しかし、ちょっと待って下さい。「思考のゆらぎ」に基づいて人間の認知速度をボルツマン式で表現したとき、その変数の1つが個人の能力を示すパラメータでしたよね。例えば、自己組織化のしくみを学習するとき、チューリングの反応拡散方程式を頭脳に記憶しておき、この記憶を参照するのとこの方程式を知らないのとでは、個人の能力に格差がつくのではないか、と考えたくなるのです。


ヨーロッパの指導力

2010-03-05 15:35:19 | 国際・政治

 タイム誌3/8号に掲載されているヨーロッパの世界に及ぼす指導力が低下しているとする記事を読み、より平和な世界を構築するためには、ヨーロッパの世界に向けた指導力が必要であろうと感じてこの記事を書くことにした。

 タイム誌の記事によれば、第二次世界大戦後の世界では、米国-ソ連間にいわゆる冷戦状態が続き、このとき西ヨーロッパは米国と強力なきずなを築き、その世界的な地位は充分存在感のあるものであった。このとき、中国は、世界的な存在感という点では小さいものであった。日本の世界的な存在感は、その経済規模の大きさにもかかわらず小さいものであった。

 ところが、冷戦が終了した後、中国の経済規模が次第に大きくなり、中国が台頭してくることになった。現在では、米国と中国とは、互いに小競り合いをしながらも、いわゆる2極として世界的に大きな存在感をもつようになった。それは、単に中国がまもなく世界第2位の経済大国になるためだけではない。最近コペンハーゲンで行われた気候変動についての会議では、中国は、ヨーロッパを抑えて世界的な指導力を発揮したではないか、というわけである。このような状態において、米国は、ヨーロッパよりも中国を含めたアジアにより多くの関心を示し、その結果として、米国とヨーロッパとの間のきずなは相対的に弱まり、ヨーロッパの存在感が低下していることが指摘されている。なお、世界における日本の存在感は、小さいままであり、以前と変わっていない。

 タイム誌の記事を読んだ当初、ヨーロッパあるいはEUは、現在のままでいいのではないかと思った。米国と中国とは、いずれも経済規模の大きな単一国家であることから、良きにつけ悪しきにつけ帝国主義的な態度で振る舞うこともあるだろう。EUは、現在27ヵ国の集合体であるから、EUに良い面での帝国主義を期待するのは無理であろう。言い換えれば、EUに世界的な指導力を期待するのは無理ではないか、と思えた。ヨーロッパは、科学技術の分野での貢献が大きいし、世界の模範となるような平和的な連合組織を形成しているのであるから、それだけで充分存在感があると思えるのである。しかし、EUが平和連合であればこそ、世界平和のためにもっと貢献できるのではないかという期待感をもってしまうのである。

 中東は、メソポタミア文明の発祥地であり、5000年にも及ぶ古い歴史をもつ地域である。例えば、イランやアフガニスタンの人々は、主としてイスラム教を信仰し、この宗教に則った生活を営み、政治的には政府役人の言うことよりも所属する部族の長やイスラム教教師の言うことを尊重する人々である。すなわち、中東の国々は、欧米とは全く異なる文化と伝統をもち、欧米の文化や自由・平等、民主主義の思想と相容れないことは明らかである。米国は、中東の国々と比べたら300年程度の歴史しかもたない新興国と言ってもよい。米国は、もっと中東の国々に住む人々を尊重してしかるべきである。

 しかるに、米国は、ソ連との冷戦時代には共産主義国の拡大を防ぐという名目でアフガニスタンを戦場とし、冷戦が終わってテロリズムの脅威が増したとき再びアフガニスタンに侵攻した。米国は、「テロリズムに対する戦争」と言っているが、再びアフガニスタンの人々を戦争に巻き込んでしまったのである。その結果、米国は、元々テロの意志がない敵と戦闘し、罪のない一般市民を犠牲としてきたのである。すなわち、米国には、イラクやアフガニスタンに侵攻する目的があいまいになってしまったのに対し、アルカイダやタリバンは、自分の国を守るという立派な大義名分の下に戦っているのである。米国の対アフガニスタン戦は、すでに戦争のための戦争となっている。戦争というものは、いつの時代の戦争もそうであるが、なんと不条理で非人道的な行為であることか。そこでは、米国が中国に対して主張する人権尊重は何の意味ももたない。

 心ある人々は、ヨーロッパがリスボン条約の締結を終え、EUの組織を強化することを契機として、その指導力を発揮し、戦争好きの米国の前に立ちはだかってこれを抑制することを期待していたようである。しかし、この期待は、早くも期待外れになりそうである。EUは、国の集合体という事情があって、単一国による帝国主義的な世界支配には、かないそうもないし、EU自身がアフガニスタンにNATO軍を出兵しているという弱みもある。さらに、選出されたEUの初代大統領と外務大臣の顔ぶれをみても、ヨーロッパの指導力と言うとき、期待感よりも失望感の方が大きいようである。しかし、人々がそこまでヨーロッパに期待するのは、世界平和と言うとき、期待できるのは、ヨーロッパをおいて外にはないという世界平和への願いが込められているためであろう。