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脳の神経活動と「私」

2012-08-14 16:18:57 | ブログ

 西洋の近代的合理主義およびこれに基づく個人主義は、デカルトの思想にその哲学的基礎を置くものと考えられている。その合理主義は、大きな発現をみせ、今日の科学・技術の成果を人類にもたらした。一方、「私」を主体として考える個人主義は、脳と心についてのデカルトの二元論哲学に由来している。すなわち、脳という物理的化学的に動作する物質とは別に、「私」、自己、心、魂というものが存在すると仮定する。

 そして、脳の神経生理学や認知心理学が進歩するとともに、神経回路網の活動プロセスから「私」や心を連続的に説明することが益々困難になってきている。これは、脳との比較対象として考えるときのコンピュータがハードウェアの動作からソフトウェアの動作に至るまでのプロセスを連続的に説明できることとの決定的な違いである。

 「私」が主体となる個人主義の考え方は、欧米の言語に深く浸透している。すなわち、英文など欧米の文章には主体が何を示すかを示す主語が必要であり、しかも、主語が私、あなた、彼、彼等などの違いによって動詞の形まで変わってくる。欧米の言語は、個人の主張するところを他者に伝えるコミュニケーションのための道具として欧米文化の中核的な役割を果たしてきたとともに、神経回路網をたどって「私」を説明するという哲学的難問を欧米人につきつけることにもなったのである。「生命の音楽」(新曜社)の著者であるノーブルは、欧米人が、長い間、心身問題という哲学的問題について議論してきた状況を総括して、「個人的な言語」の議論に陥っていると評している。

 これに対して、日本語や韓国語など東アジアの言語では、「自己の不在」という慣習が深く浸透しており、主語はあまり使われない、とノーブルは続ける。「私」ということば、そして「あなた」ということばはなおのこと、強調したいときにしか使われない。これらの言語では、主語が重要視されないから、主語の違いによって動詞の形が変わることはない。

 さらにノーブルの主張を引用する:これらの言語がしているのは、物事が「すること」、発生するプロセス、すなわち動詞を強調することで、「であること」や「すること」の所有者である主語を強調することではないように思える。当然ながら、そのような文化では「自己」という概念も、ものというよりプロセスにずっと多くの共通点を持っている。自己すなわち「私」とは、私の体がある場所だ、と考えると、欧米文化と言語の制限から逃れられる。なぜなら、自己とは、私の体のもっとも重要な総合的プロセスのひとつだからである。実にシステムバイオロジーそのものである。このように考えると、「個人的な言語」の中でいとも簡単に迷ってしまう哲学の迷宮を避けやすくなる。対象としての「私」を考える必要がないので、それが位置している脳の一部も探す必要がなくなる。

 東アジアの言語を含む文化には、仏教と老荘思想が少なからず反映されている。「無神」「無自己」の宗教である禅の伝統は、形而上学に曇らされていない。悟りに達する過程の一部として、瞑想によって心を抑制し、最終的には自己という錯覚を「忘却」することができる。瞑想している脳は、「自己」に関する思考から解放されているとして、脳内ではどのような神経活動が行われているのだろうか。最近の研究成果によると、瞑想している脳は、内側前頭前皮質、後帯状皮質などをつないだ「デフォールトモード神経回路」を0.1ヘルツの脳信号が循環するという神経活動を行っていることがわかってきた。これは、無意識に行われる脳の活動プロセスであり、しかも自然状態に置かれた脳がつくるゆっくりしたリズムを示唆している。

 こう見てくると、英語や日本語のような自然言語は、人間の社会生活の中で生まれた言語であり、神経活動とは無関係と言ってよいほど遠い存在であるから、神経活動のプロセスを記述するには不適当な言語であると言える。神経生理学と自然言語との中間に位置し、脳の活動プロセスを記述するに適した中間言語が望まれる。

 あくまで比喩としてとらえたいが、自然言語を操ることより音楽の方が脳のプロセスに近いと言える。音楽には、楽器によって演奏される音符のシーケンスというプロセスは必要不可欠であるが、演奏する主体を意識する必要がない。演奏者のキャラクタは、演奏される音楽の流れの中に塗りこめられている。ピアノやバイオリンのような楽器も楽譜も、ともに脳内の神経回路によって実現されるものと考えることができる。ただし、楽器はただ1台ではなく、脳内に無数に存在し、オーケストラを構成すると考えると、より実際の脳に近い比喩となる。また、楽器の演奏によってつくりだされるダイナミックに変化する音楽の流れは、聴く者の脳内の神経回路に、その音楽に同期したリズムとパターンをつくるように作用する。これもまた、無意識に行われる脳の活動プロセスであり、瞑想しているときの神経活動と同じものではないにしても、類似したものであるように思われる。

 アインシュタインは、量子力学の理論体系が原理的なところに確率論を持ち込んだことを嫌って、「神様はサイコロ遊びをしない」と言った。欧米では、人間の脳が神経活動をするためには、「私」の存在が不可欠と考える。同様に、神様がこの世界をつくり、神様が、この世界を構成する恒星や惑星、分子、原子、電子、陽子などを駆動していると考える。そうであれば、神様という主体がなければ、粒子の存在場所はどこかということが確率的な事象になることに問題はないはずである。