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自然の中に人間を尋ねる

2012-10-14 14:01:46 | ブログ

 この宇宙は広大であるが、そのどの一部分をとっても、同じ物理や化学の法則が適用されるという。つまり、宇宙のどの部分をとっても万有引力の法則や重力定数は同じであるし、地球上に存在しない元素や化合物がどこか遠い太陽系外の惑星上に存在しているということはないものとみなされている。科学者にとっては、地球周辺に適用される物理法則と10億光年離れた銀河に適用される物理法則とが異なっている方が面白いのかも知れないが、現実にはそういうことはないようだ。この事実は、宇宙がビッグバンのときに獲得した唯一無二の物理法則が、その後宇宙が膨張して広大になるとともに137億年の時間が経過しても何も変化していないことを示している。このことは、あたりまえのことではなく、宇宙背景放射光が全宇宙を満たしているという事実と同様に、やはりビッグバンがなければ宇宙がこういう状態になることはなかったろう、と納得してよいことなのである。というのも、ビッグバン時に宇宙が別の物理法則を採用する余地も充分あったのであり、現在の物理法則に決定したということは、偶然の選択の所産に過ぎない、と考えられているからである。

 地球上のすべての生物は、動物であれ植物であれ菌類であれ、DNAの基本構成要素である4種類の核酸塩基は同じ、3個の塩基によって構成される遺伝コードは同じ、その遺伝コードによって指定される20種類のアミノ酸は同じである。また、生物がタンパク質の生成に利用するアミノ酸はL型に限られており、D型のアミノ酸を合成することも利用することもできない。これらの事実は、我々の知るすべての生物がただ1つの始源生物を先祖として進化してきたものであることを強く示唆している。宇宙に地球生物以外の生物がいるとすれば、DNAの構成要素として他の形の塩基が可能である。また、地球生物の遺伝コードは、偶然決まったものと考えるしかなく、その必然性は全くないので、他のコード体系が可能である。さらに、指定されるアミノ酸は20種類以外のものも可能であり、D型のアミノ酸を利用するかも知れない。

 現在の地球には5つの大陸があるが、これらの陸地は、大昔、ただ1つのゴンドワナ大陸が分裂してできたものである。しかし、それよりも注目すべきことは、現在地球上に生存するすべての人類は、十数万年から20万年くらい前にアフリカに誕生したカップルを最初の祖先とするものであるという説であり、この説はほぼ定説になっている。

 以上の議論から洞察されることは、宇宙や生物の長い歴史を通じて、すべての人間個人は物質的にも生物的にも同一の存在とみなす他はない、ということである。それなのに、世界各地に住む人々は、文化的にも宗教的にも生活スタイルからも、何故かくも違って見えるのか。それは、各個人のDNAに記録された遺伝情報と、各個人が育てられる環境に応じて脳に形成される神経ネットワークの違いということになる。個人ごとの遺伝情報の違いと神経細胞の連結状態の違いとは、一つにまとめられ、個人が保有する履歴情報だけの違いということになる。人間が誕生した後の履歴情報の違いは、その人をとりまく環境要因に依存するものが大きいと言われる。

 各人の履歴状態は、状態空間とよばれるn次元空間上の一点で表される。つまり、履歴状態は、n個の独立した変数で表現され、この一点の位置は、時間とともに変化するということである。状態空間上の点の運動を駆動するものは、人体を構成する細胞内で生じる化学反応や、神経細胞の間で生じる電気信号の伝送など、人体で行われる物理的化学的なプロセスである。そうすると、n個の変数とは、各人の身体条件を物理的化学的に規定するパラメータであるということになる。細胞内のミクロな空間領域で行われる化学反応は、各化合物の濃度などを状態変数とする発展方程式で表現される。この発展方程式の解である状態変数の組は、まさに状態空間上の一点を指している。宇宙の一部分に適用される物理法則が宇宙全体にも適用されるように、細胞内のミクロな空間に適用される状態空間や発展方程式という考え方は、人体というシステム全体にも同様に適用されると考えてよいだろう。

 また、ミクロな空間の状態の総数は、エントロピーという量で表現できる。熱力学的に局所平衡が成り立っている系のエントロピーは、各エントロピーの和で与えられるから、人体というシステム全体のエントロピーは、熱平衡が成り立つミクロな空間のエントロピーの和となる。より詳細には、人体は、非平衡開放系であるから、外部からもらった分だけのエネルギーを放出し、発生したエントロピー分と等量のエントロピーを排出するエネルギーの散逸構造をもっている。そうすると、人体は、局所的に熱平衡なエントロピーの和となっている部分と、エントロピーを排出する非平衡部分とに分けられ、人体に定常的にとどまるエントロピーは一定と考えてよいであろう。各人の履歴状態の違いは大きいが、マクロに見たときのエントロピーの差は、体重の差のような体格の差ぐらいのものだろうか。

 各人の履歴状態の時間発展は、本人の自由意志によるというよりも、むしろ無意識に行われる部分が圧倒的に大きいようである。つまり、人間の意志決定や選択は、偶然が入り込むように見えるけれど、その履歴の推移は、ほぼ運命的、決定論的であると言えよう。

 以上の議論から、すべての人間が平等であるという信条は、当然のこととして受け入れられる。しかし、原則は原則として、現実の世の中は、経済的格差が大きく、犯罪が増えこそすれなくなることは期待できず、また世界のどこかの地域では紛争や戦争が絶えることのないものとなっている。このような状況は、人類が長い時間をかけて築き上げてきた高度な文明を享受するにふさわしい人間の世界とは言い難いように思える。

 しかし、長い生物の進化の歴史は、また生存競争の歴史でもあり、人間としてこの世に誕生した後も人間世界での生存競争を回避することはできない。世界に存在する情報の量はあまりにも多く、人間が50年や60年生きてきたからといって身についた知識と経験はあまりにも少ない。むしろ、20年のような成長期を過ぎた後は、人間の脳の神経回路はある決まった行動原理を基盤として固定され、別の行動原理に乗り移ることは、例えばイスラム教徒がキリスト教に改宗するようなもので、極めて困難である。また、人の生活スタイルは、一日を周期とする同じような生活パターンとならざるを得ないから、その生活パターンは決まった行動原理に基づいたものとならざるを得ない。また、それは、空間的には、グローバルな知識と経験が必要と認識しながらも、主としてローカルな地域や仲間が中心とならざるを得ない。

 それにしても、世の中には、高度な文明にふさわしいとも思えないような世間的・社会的な制約が多い。これらの制約には、情緒と情動の日本人といった伝統的な国民性からくるものもある。このような制約を乗り越え、もっと自由をと思うが、世界や社会といっても人間が生きていく中での生活環境である。人間が自然環境と同様に社会環境にどう適合しあるいはどう反発し、意志決定や選択を行っていくかは、自由意志の問題というより、やはり自然の中の人間という文脈でとらえることにし、決定論的なものと考えることにしたい。