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複眼的な思考

2010-02-21 16:02:54 | 日記・エッセイ・コラム

「複眼的な思考が豊かな心を育む」と言う人がいる。「複眼的な思考」には、色々なケースが含まれると思うが、科学技術や社会科学が到達した普遍的な知識に基づいて「人間とは何か」など色々な問題を思考することと、インスタンスとしての他人の各々を理解するよう努めることの両方を実行することも、「複眼的な思考」をすることに含まれると思う。現在までに科学技術や社会科学が到達したすべての知識をもってしてもこの世のすべての仕組みを知るにはあまりにも貧弱であり、人類のもつ普遍的な知識は、完全なものからは程遠い。一方、他人としての各個人の考えは、その過去の履歴に依存しているから、各個人の考えを理解することは容易ではなく、個人を完全に理解することから程遠い。そうであれば、両者を共に考慮する「複眼的な思考」も完全な知識に基づく思考からは程遠いということになる。しかし、この両者のうちのいずれか一方しか重視しないという態度よりはましと思われるのである。また、普遍的な知識も他人の考えもともに軽視する自己中心的な思考・態度よりはましと思われるのである。

 人間だれしも知識が不足しているという点において井の中の蛙である。たとえ複眼的な思考をもっていたとしてもそうであると認めざるを得ないだろう。しかし、複眼的な思考がそうでない思考よりも豊かな心になりやすいのなら、ありがたいことである。科学技術に関する知識を含めた教養を身につけることの重要さが理解できる。「教養」を辞書で引くと出てくる「文化に関する、広い知識を身につけることによって養われる心の豊かさ・たしなみ」という解釈とも合致する。ただし、複眼的な思考の立場から言えば、他人の考えを理解しようと努める場合において、という注釈が付くのである。


人間の頭脳活動にみられるゆらぎと選択

2010-02-15 22:15:45 | 学問

 ミドリムシ、大腸菌、ゾウリムシなど単細胞の原生生物が、おかれている環境によってどのように行動するかについては、実験データがとられている。その実験データから原生生物の行動パターンをモデル化すると、その行動原理は、次のようになると考えられる。環境となる水または溶媒中を移動した結果、原生生物は、移動前の環境と移動後の環境が変化しているか否か検知する。もし環境が良くなっていれば、原生生物は、その鞭毛を動かして直進運動を続けるよう選択する。その結果、原生生物は、自分のエネルギーを消費して直進運動を続ける。もし前より環境が悪くなっていれば、原生生物は、できるだけ媒体となる水分子のブラウン運動に身を任せるよう選択する。その結果、原生生物は、溶媒分子のブラウン運動の方向に移動し、消エネ運転を図る。環境の良し悪しに関係なく、移動前と移動後で環境に変化なしと判定すると、原生生物は、ブラウン運動に身を任せるよう選択する。

 ミドリムシにとって良い環境とは、主として光合成に都合がよいように光の強度が強くなる環境であり、悪い環境とはその逆の環境である。また、大腸菌にとって良い環境とは、例えばガラクトースの濃度の高い環境である。また、ゾウリムシにとって良い環境とは、例えば適温の環境である。自力で直進運動を続けるときの移動距離は、原生生物の判定と運動能力次第となるから、バラつくであろう。また、ブラウン運動に身を任せるときの移動方向と距離は、ランダムなものになるであろう。一定方向のブラウン運動後の選択原理は、上記の3通りと同じである。

 以上のように考えれば、原生生物の行動原理は、きわめて単純明解なモデルとなることが分かる。ただし、原生生物は、脳をもたないので、記憶力もなく、直近の環境状態と現在の環境状態との違いを検知できるだけであり、過去に経験した環境状態の変化の履歴を記憶することはできない。また、原生生物は、当然のことであるが、現在の環境状態より先に遭遇するであろう将来の環境状態の変化を読むことはできない。

 人間の頭脳の活動も、基本的には原生生物の行動パターンに類似しており、思考のゆらぎの状態と、次に何をするかを選択する状態とがみられる。「思考のゆらぎ」の状態では、現在の思考環境において、良い方向を探索するために試行錯誤のまま思考をする状態である。この状態では、人間のもつ直観力が発揮される。頭脳の初期状態では、何も思考していない瞑想状態(無思考の状態)であり、この状態のときには、何かのヒントとなる思考をきっかけにして「思考のゆらぎ」の状態に移り得る。選択状態において良い方向をキャッチしたならば、その方向に進んだ上でまた新たな「思考のゆらぎ」の状態に入る。選択状態で何も利得をキャッチしていなければ、再び「思考のゆらぎ」の状態に戻るか、または今までの思考をリセットして初期状態に戻るかを選択できる。人間には記憶力があるので、過去に経験した思考環境の状態の履歴を記憶しておき、その知識を頭脳から引き出して将来の方向を思考するために役立たせることが可能である。また、思考のパターンにある種の規則性がある場合には、将来可能な一連のステップを選択肢としていくつか先読みし、各々選択肢の可能性の確率を予測することも可能である。

 以上述べた人間の頭脳活動のパターンは、すべての頭脳活動にみられる思考の作法とも言うべきものと考えられる。例えば、数学者のオイラーがいわゆるオイラー積というものを発見し、無限に続く素数列と円周率(<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 7.5pt; HEIGHT: 18pt"><imagedata chromakey="white" src="file:///C:UsersTakakiAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.png"></imagedata></shape>)とを関連づけたとき、ガウスが有名な素数定理を発見したとき、アインシュタインが重力場の方程式を発見するまでの思考過程などは、この思考作法に従って思考され、偉大な発見がなされたものと考えられる。もちろん、ルールが決まっている将棋のようなゲームにおいて、何手か先の手順を複数個読んでその中で最も成功する確率の高いと思われる手順の先頭の手を次の一手として選択するのも、この思考作法通りの頭脳活動を行っているのである。

 テレビの番組で、イメージの全体像のうちの一部断片しか表示しないあいまいイメージ、いわゆる隠し絵、を視聴者に見せて何かを当てさせることをやっている。大阪大学の柳田教授によれば、この場合、隠し絵を判断する視聴者は、脳内で生じる思考プロセスのゆらぎを利用して、イメージの全体像が何を表わすかを判断しているという。

 原生生物の溶媒分子によるブラウン運動は、ボルツマン式、すなわち、温度がTのときにエネルギーがE以上の分子の割合=Cexp(-E/RT)によって基礎づけられる。隠し絵の判断プロセスは、「思考のゆらぎ」状態と選択状態の連鎖かも知れないが、マクロにみれば初期状態のない単発の「思考のゆらぎ」プロセスとみなせる。柳田先生は、ブラウン運動も「思考のゆらぎ」もともにゆらぎであるならば、ボルツマン式という共通項があるはずと考えて、認知速度=1/認知時間=Cexp(-M/S)という式を提案された。ここで、Mは問題のむずかしさのレベルを示し、Sは個人の能力を示す数値である。STと記載してもよく、認知温度と言われる。柳田先生は、何人かの被験者から得た実験データによってこの式を検証された。


ゲームをしなさい

2010-02-15 12:09:40 | うんちく・小ネタ

 

 2/14に、サッカーの日韓戦をテレビで観戦した。結果は、1-3で韓国に負けてしまった。前にも新聞に書かれたことがあったと思い出されるのだが、日本のサッカー選手も日本人の国民性という呪縛を逃れることができないのではないか、と改めて感じた。日本人は、農耕民族という国民性が濃厚と言われる。そのためか、彼らは、他人の目を気にし、他人が暗黙のうちにこう言っているのを感じてしまうのではないか: 「ゲームをしてはいけない。一生懸命に仕事をしなさい」と。

 以前に会社で仕事をしていたときも、大して仕事の成果が上がるわけでもないのに、同僚は、他人との協調を意識し、残業をしているらしかった。

 サッカーの日本代表選手に言いたい: 「一生懸命に仕事をしてはいけない。サッカーはゲームなのだから、ちゃんとゲームをしなさい」と。


男女性差に関する補足

2010-02-13 14:10:27 | 社会・経済

 先日のブログで、「汝、この生きづらき者」と題して、女性の生きづらい社会の現状と、何がその原因なのかについて述べた。その原因として、「胎児後期に、男児の大脳はその睾丸から分泌する男性ホルモンにさらされるが、女児の大脳はさらされないため、男女間で神経ネットワークの形成に違いが生じ、この男女差が社会生活において性差となって現れるためである」と書いた。

 2/12のサイエンスカフェで人間総合科学大学の新井康允先生の「女の脳、男の脳-脳科学の最前線-」という講演を聴き、基本的には上記の原因で間違いではないと確信した。しかし、男性および女性が置かれる社会環境という点で若干の補足があった方がよいと考えて、この記事を書くことにした。

 講演の最後に、人間のもつ「共感性」の多少と「システム化の脳」の多少について、一般の男子、一般の女子、アスペルガー症候群の人を対象にして採取されたデータの紹介があった。ここで、「共感性」とは、「他の人の気持ちや感じ方を理解し、自分を同調させ、相手が考えていること、感じていることが引き金となって自分の中にも何らかの感情が生じる。」と定義される。また、「システム化の脳」とは、「機械いじり、ルール、規則性、因果関係、数学、物理学、工学を得意とする脳」と定義される。実験データによれば、女子は、一般に「共感性」の得点が高いが、男子に比べて「システム化」の得点が低い。また、男子は、一般に女子に比べて「共感性」の得点が低いが、「システム化」の得点がより高い。さらに、アスペルガー症候群は、著しく「共感性」に欠けるが、「システム化」の得点が高い人も少なくないという統計データの結果となった。

 新井先生は、一般に女子は男子よりも「共感性」が高い、すなわちコミュニケーション能力が高いと説明された。それならば、女子が男子より「社会性」に欠けるとみなされるのは何故かという疑問が生じる。これについては、こう説明するのが妥当であろう。「共感性」あるいはコミュニケーション能力とは、程度の差こそあれ、正常な人間が男女ともにもつプリミティブな能力であり、すなわち母性本能に近いような能力であり、「システム化」の能力とはかなりレベルが違うのではないかということである。「社会性」と言ったとき、それは「共感性」とは直接関係がなく、男性支配の社会において主として男性本位に構築されたルールや規則に適合できる能力とみるべきではなかろうか、という疑問が生じるのである。つまり、男性に比べて、女性は、社会のルールや規則に適合するためのポテンシャル壁が高いというハンディがあるのではなかろうか、という疑問である。確かに、そのような側面を否定できないが、それが話の全体なのかとなると、納得できないものがある。

 自由、平等というと、現在ではあたり前の概念のように見えるが、実は人類が到達した至高の理想なのである。例えば、一種類の猿が集団で生活する社会において、2匹の猿は支配するものと支配されるものとの非対称の関係においてのみ両者が存立し得るものであり、対等の関係というものは存在し得ないのである。これは、集団生活するすべての動物、昆虫について当てはまる生物の性癖なのである。人間ですら、長い人類の歴史を通じて自由、平等の思想を確立したのは、ごく最近のことと言っても過言ではない。そのために、この世に生まれ落ちた人間、特に女性の頭脳は、その後の学校教育や学習の機会があるにもかかわらず、自由、平等、すなわち自分と相手との間の対等な関係という考え方にまだ容易に追いつけない状態なのである。そもそも、自分の要求と相手の要求とがコンフリクトするとき、自由と平等が両立することは困難である。自分が自由を主張すると支配する側となって相手の自由を抑制して相手を支配される側とするので、バランスを保った対等の関係を維持するのが難しい。どうしても、非対称の関係になり勝ちである。

 社会生活において、二者の利害が対立するということは、ごく通常の状態であるので、いかにしてできるだけ対等の立場を保ちつつ平静に問題を解決するかとい能力は、「社会性」というものの中で大きなウェイトを占める能力であろう。女性は、学習によって理屈では分かっているつもりであっても、相手と利害が対立するという現実のプラクティスの場面となると、相手との対話を通じてできるだけ対等の立場を保ちつつ問題を解決するというプロセスに辛抱できず、支配するものとされるものという大脳が元々もっていたプリミティブな思考回路が優先的に働き、怒りが爆発することになるのであろう。そして、この女性の性癖は、一般にほとんど終生変わらずに繰り返し発揮されるものとみられる。男性であっても、現実のプラクティスの場面で相手と対等の立場を保ちつつ問題を解決するというプロセスを実行するのは難しい。しかし、男性の頭脳は、元々女性との間にある性差と、社会生活の経験を通じて磨かれたスキルによって、女性よりは「社会性」を発揮して平静に問題を解決できるように見える。

 以上のような考察の結果として、男女性差の根源は、やはり基本的には胎児後期に形成される大脳の男女差に大きく依存するものと考えざるを得ないのである。ただし、学校教育など社会環境の影響を受けて、大脳の男女差は、概して誕生時よりも縮まっているであろうと推測されるのだが。

 サイエンスカフェの受講者の1(女性)がコメントされていたことであるが、女性は、「共感性」とか「言語能力」のように女性の得意とするスキルを生かして仕事をしてもらうのが女性の幸福のためにも社会のためにも望ましいことであろう。もちろん、女性がその美貌を売り物にすることも可であろうが、例えば看護師のように男性よりも優秀な能力を発揮する分野で活躍してもらうのが望ましいことである。女性が、男性の得意とする分野に挑戦し、男性と肩を並べるかそれ以上のキャリアを取得し、成功したという例も少なくない。しかし、男女性差によって男性よりもポテンシャル壁が高いというハンディのある分野に敢えて挑戦するのは、成功したときのリターンが大きいかも知れないが、失敗するリスクも大きいように思われる。