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文明の進歩発展がその特異点に近づきつつあるとき

2011-03-09 15:33:40 | 日記・エッセイ・コラム

 今の世の中は、情報にあふれている。その気になりさえすれば、書籍からでも、インターネットからでも、好きなだけの情報が好きなだけの精度で入手できる。しかし、我々の頭を通過する情報の量が多いために、情報を皮相にとらえてしまい、その情報が本質的に意味するものを見逃してしまうことも少なくない。

 私が若い頃、夏目漱石の「吾輩は猫である」の最初の1章を読んで、面白い小説とは言えないなと思い、それ以上先の章を読む気にならなかったのを憶えている。題名からしても小説の主人公は猫だと考え、猫の目から主人が教師をしている家庭の様子を観察して記録した小説のように受け取っていたらしい。年をとってから再び「吾輩は猫である」を読んでみて、特に、知識人と世俗派に属する人々との対立、言い換えれば、理性と自由による生と金銭と権力による生との対立、という古くて新しいテーマの扱い方に感心した。そうであれば、猫は、知識人・世俗派の各々の立場に属する人間から独立した第三者的存在であり、どちらに属する人間をも批判的に観察できる存在ということになる。この小説の猫は、自然主義文学の観点からすれば、非現実的な存在ということになろうが、猫に人間の生きざまを語らせるという小説の手法は、なかなか巧妙であると言える。

 さて、前置きはこの位にして、本論に入ることにしましょう。コンピュータの性能向上に関して、数十年前から、コンピュータの性能は2年で倍になる程のピッチで向上するというムーアの法則が知られていたが、ここに来て、今後数十年に亘って、同様の指数関数的な性能向上が続くことが予想され、2023年にはコンピュータの性能が人間の頭脳力を越え、2045年には全人類の頭脳力を合わせた能力を越えるという。

 実際のところ、1997年には、IBMの開発した「ディープブルー」と呼ばれる人工知能が当時のチェスの世界チャンピオンを打ち負かした。また、今年2月には、「ワトソン」と呼ばれるIBMの人工知能が2人のクイズのチャンピオンと競い、圧倒的な勝利を収めたという。

 これは、コンピュータの性能の進歩についての話であって、自分にはあまり関係ないな、と考えてはいけない。コンピュータの性能向上についての数値は、科学技術全般の進歩の程度を象徴的に示すインデックスと見るべきであって、問題は科学技術全般に及ぶ話である。米国のある科学者は、2045年を特異点とみている。特異点とは何か。正確に定義することは難しいが、平たく言って、今までの常識というものが通用しなくなる時点とでも言えば、当たらずと言えども遠からずか。

 現在でも、すでに常識というものが通用しているのか否か怪しい。例えば、年金生活者が年金だけでは生活が苦しいので、それまでに貯えた貯金をとりくずして生活費を補填しようとする。毎年100万円ずつとりくずすので、これから10年生きるとして、1000万円の貯金が必要となる、と計算する。しかし、これは、年金額が現在と同じ、物価も変わらず、臨時に大金が必要になることもないと仮定した上での線形計算であって、そもそもこのような線形計算が通用するという仮定が疑わしい。しかし、人間は線形計算するしか知恵はない。学校では、基本的に線形計算しか教えないから、それ以上の知恵を授かっていない。だからと言って、学校教育が無意味と言っているわけではない。学校教育などで授かった基本的な知識があればこそ、その限界も認識できるのであるから。しかし、科学技術の進歩が指数関数的であるのならば、生来的に線形計算しか考えのない人間の頭が対応できるのか否か怪しい。

 先日、テレビで放送していたが、人間の頭の外部に電極をとりつけ、非侵襲的に(大脳を傷つけることなく)脳波の信号を測定し、コンピュータを用いた複雑な計算によって測定した脳波を分析し、被験者が何を考えているかを読み取ることが可能になりつつある。このように人間の脳活動を読み取ることによって、例えば、人が頭の中で念じるだけで、自動車を運転したり、電動車椅子を操作したり、パソコンなどの機器を自由に操作することが可能になるだろう。また、被験者に写真や商品をみせて、そのときの脳活動を読み取ることによって、好きな食べ物や好みの異性のタイプなどを推定できるようになるだろう。

 さらに、欧米では、人間の寿命を延ばそうとする研究が盛んである。将来には、細胞に課せられた寿命という制約をとり払ったり、細胞に生じた傷を修復するような薬が出てくる可能性が大きい。このようにして、薬などの投与によって人間の寿命が延長されると、今までキリスト教や仏教などの宗教を通じて信じられていた死生観も変わってしまうかも知れない。

 考えてみれば、文明が急激に進歩発展しているのに対し、我々人間のだれもが誕生したとき知識や技能0から出発するわけだから、50年や60年学習しながら生きてきたと言っても、到底文明の進歩に追い付くということはないはずだ。多くの人々は、人生の大半を自分の生活費を稼ぐことに専念したり、食事や睡眠などの日常生活に費やしており、新しい知識を仕入れたり、創造的な仕事をするために残される時間は少ない。すなわち、人が知識人であろうがなかろうが、五十歩百歩であって、生涯学習などは気休めに過ぎない。夏目漱石は、早くも「吾輩は猫である」の中で、主人の苦沙弥先生に、「とにかくこの勢いで文明が進んで行った日にや僕は生きているのはいやだ」とまで言わせている。

 このような状況を前にして、人はどのように覚悟しておけばよいのであろうか。どうせ個々人の知恵の及ぶところではないので、今まで通り生活するしかないとするか。人類全体が直前する状況だから、皆で渡れば怖くないとみるか。文明が進歩発展すれば、それだけ楽しみも増えると、楽観的に考えるか。科学技術が進歩すれば、すべての物がブラックボックス化の方向に向かい、バカチョン式になるので、むずかしいことは考えずに便利な商品やサービスを無心に享受すればよいとするか。生涯学習など、文明の進歩に対して到底対策に値するものではないが、すくなくとも人間の間に格差をもたらすもの、としておこうか。


複眼的な思考

2010-02-21 16:02:54 | 日記・エッセイ・コラム

「複眼的な思考が豊かな心を育む」と言う人がいる。「複眼的な思考」には、色々なケースが含まれると思うが、科学技術や社会科学が到達した普遍的な知識に基づいて「人間とは何か」など色々な問題を思考することと、インスタンスとしての他人の各々を理解するよう努めることの両方を実行することも、「複眼的な思考」をすることに含まれると思う。現在までに科学技術や社会科学が到達したすべての知識をもってしてもこの世のすべての仕組みを知るにはあまりにも貧弱であり、人類のもつ普遍的な知識は、完全なものからは程遠い。一方、他人としての各個人の考えは、その過去の履歴に依存しているから、各個人の考えを理解することは容易ではなく、個人を完全に理解することから程遠い。そうであれば、両者を共に考慮する「複眼的な思考」も完全な知識に基づく思考からは程遠いということになる。しかし、この両者のうちのいずれか一方しか重視しないという態度よりはましと思われるのである。また、普遍的な知識も他人の考えもともに軽視する自己中心的な思考・態度よりはましと思われるのである。

 人間だれしも知識が不足しているという点において井の中の蛙である。たとえ複眼的な思考をもっていたとしてもそうであると認めざるを得ないだろう。しかし、複眼的な思考がそうでない思考よりも豊かな心になりやすいのなら、ありがたいことである。科学技術に関する知識を含めた教養を身につけることの重要さが理解できる。「教養」を辞書で引くと出てくる「文化に関する、広い知識を身につけることによって養われる心の豊かさ・たしなみ」という解釈とも合致する。ただし、複眼的な思考の立場から言えば、他人の考えを理解しようと努める場合において、という注釈が付くのである。