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国際的な養子縁組の話

2010-07-09 15:43:25 | 国際・政治

 タイム誌712号に出ていた国際的な養子縁組の話に感銘を受け、ここでも「人間とは何か」という原理原則的な考えを確認することになりましたので、以下、報告します。

 米国人は、日本人に比べると、はるかに国際的な養子縁組に熱心であり、ロシアからだけに限っても、平均して年間2,900人ほどの子供を養子として引き取っているということです。ハイリスク--ハイリターンの取引ならば追及するという世の中にあって、極めてハイリスクであって経済的にはノーリターンになるというよりも多大な出費を強いられるという結果になりがちな国際的な養子縁組というものは、日本人からみると、到底考えられない部類の活動になるのではないでしょうか。

 ロシアからの養子の多くは、ロシアの孤児院から引き取られたものであり、多くは脳の障害、感情的な障害、社会的な障害をかかえているようです。ここにも、米国人の懐の深さをみるような気がします。米国には、キリスト教が教える友愛の精神を深く信仰する人々が多いことは確かでしょう。日本では、ロシアの孤児を引き取って養子にしたという話を聞いたこともありません。自分自身が作った子供をまともに育てるのさえ困難な世の中にあって、どこの馬の骨とも分からないロシアの孤児を引き取るなど、想像するのも無理というのが本音ではないでしょうか。

 もっとも、ロシアなど外国から孤児を引き取った米国人の多くは、想像を絶する苦難に遭遇しているようです。それは、彼らには以前に何の経験もないために、孤児が置かれていた施設の環境と、米国の一般家庭の環境との違いがいかに大きいかを認識できないことに由来しています。

 ロシアから孤児を引き取ったある米国女性は、その孤児(7)の扱いに困り果て、その子を単身で飛行機に乗せ、ロシアまで送り返したという大胆なエピソードも伝わっています。その子供には、ロシア政府宛ての手紙が付けられており、手紙には、子供が精神的に不安定であることを訴える抗議文が記されていたということです。この出来事は、国際的なスキャンダルとなり、その米国女性は、ロシア政府および米国社会の双方から非難されることになったそうです。

 初めて外国の孤児を養子にした米国人がその養子の扱いに困り果て、自分にはその子に対する愛情が欠けているためではないかと自虐的になるということですが、問題は、決して愛情の有無というようなところにあるのではないということです。

 養子の扱いに困った里親が、その養子を一時的に米国内の施設やソシアル・ワーカーなどに預けることをdisruption(中断)と呼び、養子縁組を解除することをdissolutionと呼んでいます。養子縁組を解除された子供は、通常、他の米国人里親にreadoption(再養子縁組)されることになります。米国では、disruptiondissolutionをサポートするNPOやソシアル・ワーカーなどが育ちつつあるようです。

 孤児院に収容されていた孤児のうち、孤児院を出て正常に社会に適合できるのは10%程であり、残りは、若くして死ぬか、犯罪、麻薬、アルコールなどに走るか、刑務所や路上で一生を終えるということです。しかも、施設に収容されていた期間が長い程、社会に適合しにくくなるという傾向があります。孤児が収容されていた施設の環境と、最初の里親の家庭環境とがあまりに違い過ぎるため、孤児が最初に引き取られた家庭環境に不具合を感じる方がむしろ当然なのです。このため、孤児がdisruptionreadoptionを経験した後の方が社会に適合し易くなるケースもあるようです。

 数多ある人間関係のうち、国際的な養子縁組によって形成される人間関係というものは、極端な部類に属するものでしょう。しかし、他の人間関係も程度の差こそあれ、類似した問題をかかえているものです。例えば、夫婦が結婚生活をするという人間関係も類似した問題を見出すことができます。養子縁組の場合のdisruptionは別居生活に相当するし、dissolutionは離婚に相当します。バツ一を経験した後、再婚したら幸せな結婚生活を得られたという人も少なくないはずです。嫁と姑の間の人間関係も類似した問題を見出すことができるし、職場の人間関係も同様でしょう。

 すべての人間関係に生じる葛藤の元をたどれば、「人間とは何か」という共通の根源に辿り着きます。すなわち、各人間個人の行動原理というものは、先祖から受け継いだDNAと、この世に誕生してから現在までに脳内に蓄積された体験の履歴とにのみ依存するということです。たとえ夫婦、兄弟、親子といえども、他人の履歴を体験することはできないから、一般に他人の行動原理を理解することは困難です。たとえわずかであっても、他人を理解するための唯一の手段がコミュニケーション、特に他人の言うことを聴いて理解に努めるという行為であることは言うまでもありません。