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「般若心経」を読んで

2010-08-22 16:48:48 | 学問

 玄侑宗久著「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読みました。以前から、一度「般若心経」を読んで、このお経が自然科学と共有するものは何かを確認しておきたいと考えておりました。世界の三大宗教の中で仏教が最も自然科学と整合性が良いように聞いておりましたので、それが本当かどうか確かめておきたいという考えです。もっとも、他の宗教については、仏教とは異なり、神を崇拝するものであるという程度の知識しかありません。神が中心に位置づけされるような宗教は、自然科学と整合性なしと判断するのは私の独断かも知れません。

 それにしても、自然科学と般若心経とは、全く別の世界であり、両者を比較すべきではないという意見にも、納得させられるものがあります。周知の通り、自然科学は、科学者が高度な実験と観測を通じて獲得した知識を集大成し、あるいは理論化したものであり、人間の合理性と理知の産物です。これに対して、般若心経は、人間が生活体験を通じて到達した智慧であり、言葉を用いた理知的な知識というよりも、「般若心経」を唱えるという実践のうちに到達し得るある種の悟りとも言うべきものでしょう。

 しかし、私は、敢えて両者が共有するものは何かを確認したいという誘惑から逃れることはできません。それは、自然科学が普遍的な知識であり、般若心経が普遍的な智慧であるならば、両者には共通項があるはずであると信ずるものだからです。より正確に言えば、自然科学あるいはそれからにじみ出てくる自然哲学の少なくとも一部が、般若心経によって裏付けられることを期待するからです。あるいは、世間の人々が言う「自然哲学なんて般若心経にすべて書いてある」というコメントがどこまで本当なのか、きちんと仕分けをしておきたいと考えるからです。

 以下、順序として、まず般若心経と最も関係が深いとみられる生物学や脳科学の話題をとり上げ、次いで、熱力学、量子力学、相対性理論、宇宙論などについて検証することにしましょう。

 仏教では、物質的現象、あるいは「形あるもの」、人間で言えば「からだ」のことを「色」と呼んでいます。これに対して、人間の目、耳、鼻、舌などの感覚器官および関連する脳内の神経系統を「受」、これらの神経系統が脳内に作る表象あるいはイメージを「想」、想によって脳内に芽生える意志を「行」、想のイメージによって脳内に芽生え、記憶されるものを「識」と呼んでいます。般若心経の教えるところによれば、「色、受、想、行、識」のすべてが「変化するもの」、「壊れるもの」であり、すべて「空」であるとしています。「空」とは、それ自体「自性」がないことであり、固定的実体がない、すなわち他との関係性のなかで変化しつづけているもの、としています。「空」は、固定的実体がないにもかかわらず、それが宇宙の実相であるとしています。例えば、「色即是空」は、「色」とは、実際には「空」に他ならないということです。また、「空即是色」は、宇宙の実相、すなわちあらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器官やその時空間に限定され、常に特定の「色」として現れるしかなく、ひいては、「受、想、行、識」としてとらえるしかないということです。

 以上をまとめると、「あらゆる現象は、単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事である」(玄侑宗久氏の解釈)ということになります。これを文学的に表現すると、「方丈記」の冒頭にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」のような文章となるのでしょう。

 生物の体を構成するタンパク質と脂肪は、絶えず分解されて廃棄され、新しいものに入れ替わっています。この現象を発見したシェーンハイマーは、「生物は、生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化して止まない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。」と述べています。すなわち、生命体がエントロピー増大の法則に抵抗して生存しつづけるためには、その構成成分が崩壊する前にこれを先回りして分解し、常に生命体を再構築しなければならないのです。分子生物学者の福岡伸一氏は、「生命とは動的平衡にある流れである」とし、生命体が「エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになる」と述べています。

 次に、般若心経の「空」とは、時々刻々変化しつづける関係性のなかの出来事、ということですが、その出来事とは、無数の縁が仮に和合して現象したものという見方をとっており、「全体は個の総和ではない」としています。

 自然科学の基本的な方法は、物体系を原子や分子のような構成要素に分け、体系のさまざまな性質を構成要素の力学的性質に還元して統一的に理解するというものであり、この方法は、多くの分野ですばらしい成功をおさめました。しかし、たとえば、同じ水でも、それが置かれた環境の温度によって、氷にもなり、水蒸気にもなるというように水の状態を変化させますが、このような物質の状態の差は、水分子という個々の構成要素の個性によらない物質全体に共通した性質(グローバルな性質)であることが分かります。そして、グローバルな性質の特徴は、構成要素の個性に関係しないという点にあるわけですから、それは分析的な見方では全く分からないことは明らかです。すなわち、分子の集まりの性質は、一個一個の分子の性質の足し算で決まるものではないということです。それは、各構成要素の間に相互作用があるために、各要素が協力して一緒に行動しようとする傾向を持っているためであり、言い換えると、各要素の運動の非線形性によるのです。

 同様に、生命体も特有のグローバルな性質をもっています。たとえば、生命体には、生きている状態と死んでいる状態という明確に区別できる状態が存在していますが、両者の状態の生体から分子を取り出して比較分析するという方法では、両状態の違いを理解できません。すなわち、生きている状態と生きていない状態との差を分子に還元できないというわけです。このように、「個」を集めれば「全体」を形成できるような線形的な取り扱いができる場合は、たまたま運がよかったのであり、一般には、各構成要素の間に働く相互作用のために、「全体」は「個」の集合にはならないということです。

 次に、生物の進化という問題に言及しましょう。現在見えている生物は、38憶年前に誕生した単一の原始生命体から進化したものとされていますが、生物の種類のあまりの多様性を見ると、一種の生物が「固定的実体」とは到底考えられません。これまでに絶滅した種の数がどれほど膨大かは想像もできないし、現在見えている一種の生物にしても長い目でみれば進化の途上にあると考えられるからです。してみると、各々の生物種を「色」とみなし、すべての生物に共通する「いのち」の実相を「空」と考えるのが自然なように見えます。そうすれば、現在生物が見えているか絶滅したかにかかわらず、すべての生物が単一の原始生命体の「いのち」に帰着するわけです。ある生物学者と話していて注意を受けたことですが、「素人は、生物の進化に関してすぐに合理的な説明を求めたがるので困る」とのことでした。なるほど。確かに、サイコロを1000回振るという試行をたった1回行っただけの結果からサイコロの目の出方のパターンについて結論を出すのは不可能であり、科学的な態度ではないでしょう。生物の進化の問題に関しては、合理主義はほとんど通用しないということなのでしょう。

 次に、脳科学の話題に移りましょう。人間の脳は、莫大な数の神経細胞を収容していますが、各神経細胞には興奮している状態と、興奮していない状態の2つの状態しかありません。そして、脳は、状況に応じて各神経細胞がその状態をめまぐるしく変えるダイナミックシステムを形成しているのです。ここでも、大阪大学の柳田先生の言葉:「ゆらぎやあいまいな動作をする素子を非線形に結合しシステムを構成すると、そのシステムは単純に平均化がおこり1つの安定な状態をとるのではなく、複数の準安定状態をとり、状況に応じて状態を変化させるダイナミックシステムができることが複雑系など非線形力学の研究でも示唆されている。」が当てはまります。ここでの素子とは、各神経細胞に相当します。

 例えば、人間の目の網膜の視神経細胞によってとらえられた視覚信号は、神経線維を介して後頭葉の一次視覚野(V1)に伝達されます。一次視覚野の視覚情報は、二次視覚野(V2)、三次視覚野(V3)で処理されたあと、頭頂葉と側頭葉に伝えられます。頭頂葉では物体の位置情報を、側頭葉では物体の形や色に関する情報を処理します。頭頂葉で処理された情報はさらに前頭葉に送られます。ここで、網膜上の位置関係が保存されるような網膜地図がV1,V2,V3、頭頂葉、前頭葉に存在します。外界からの情報は、一次視覚野から頭頂葉、前頭葉へとボトムアップ信号として伝わります。見ているヒトが空間上のどの位置に注意を向けているかを示す情報が前頭葉、頭頂葉から一次視覚野へとトップダウン信号として伝わり、ボトムアップ信号にバイアスをかけ、視野の特定の位置についての情報を増強します。つまり、前頭葉にまで伝えられた視覚信号は、そこで意識内容が決定されたあと、信号が再び視覚領域へフィードバックされます。これによって、ヒトがどの空間位置に注意を向けているかに応じて、一次視覚野の活動も重みづけを受けるのです。すなわち、外界の物理的イメージは、少なくとも一次視覚野では網膜上の位置関係が保存されるというだけであり、脳内イメージは、脳内の状況に応じたものが作り上げられるのです。また、一次視覚野の神経細胞でさえ、ヒトがどの空間位置に注意を向けているかに応じて、ダイナミックにその状態を変えるのです。

 また、ヒトが網膜に写る視覚情報のうちの色に注目すればV4が活動し、動きに注目すればV5が活動するということです。いずれも前頭葉から発せられる注目オブジェクトに対応するトップダウン信号が各部位を活性化するのでしょう。

 さらに、脳が不完全な形をした視覚情報から今まで脳に蓄えた知識に基づいて妥当と思われる情報を作り上げる例をとりあげます。たとえば、サルの写真と、知られた単語で構成された文章とをジグソーパズルのように切って混ぜ合わせた図形を左目と右目に提示します。左目に提示されるサルの断片と右目に提示されるサルの別の断片とを組み合わせると、サルの完全なイメージが構成できるようになっています。文章についても同様です。被験者の脳は、外界から入力された視覚情報について、予備知識を用いて妥当と思われるイメージに補正された情報を作り上げ、これを意識するのです。すなわち、ありのままであれば右目か左目かどちらか一方がそのまま意識に上るはずですが、実際にはサルか、あるいは文章が見えるのです。人間の脳内イメージとは、各個人が過去に記憶した情報に基づいてバイアスをかけたものであり、また補正された各人仕様のものであることを示唆しています。

 次に、「私とは何か」という問題について議論しましょう。玄侑氏の「般若心経」では、「私」とは、「たまたま縁起によって集まった体と精神機能の集合体であり、それは絶えず無数の関係性のなかで変化しつづけている」としています。また「私」とは、「これまでの無数の「識」の集合体です。先入観もありますし、これまでの「識」によってできた感受性も、すでに特定の方向性をもっているでしょう」と述べています。そして、「いのち」の実相に関係なく、いつからか「私」という名の何者かを中心にモノを見るようになっていったのであり、それが「苦」の根源になり得るとしています。また「いのち」の実相とは関係なく、「自分の都合を第一に考え、概念で念入りにでっちあげた「私」が勝手に「恐怖」を感じたり、「死にたい」と思ったりする。本当に人間の脳って厄介ですね。」と言っています。

 現代の脳科学によれば、ヒトの脳は外界の情報をそのまま映し出すのではなく、情報処理のかなり早い段階からその情報を変形して操作しています。そこで、「私」とは、記憶として蓄えられた過去の情報をもとに、外界から与えられている情報の個々の要素に異なった重みづけをし、その情報の一部だけを強調した形で意識という表舞台に上げるプロセス、とみなされています。このとき、海馬を中心とした記憶プロセスは自動的に働くので、「私」を意識させるまでの情報操作はなかば無意識に起こるものと考えられています。このとき、主体性をもった自由意志というものが働くのか否かという点になると、自由意志という特別のプロセスの存在が疑問視されています。被験者がこれから右手を動かすか、左手を動かすかを自分で決めるという単純な意志決定に際して、意志決定の8秒も前からすでに脳活動を行っており、その活動パターンを観察することによってどちらの手を動かすかを予測することができたのです。すなわち、意志決定の結果が意識される前に行われていた脳活動プロセスは、実際には無意識に行われていたということになるのです。そうすると、私たちが自分自身の意志でたった今、決断したと思っていても、実際には、過去の脳活動によってあらかじめある程度は決められていたのだ、ということになります。つまり、「私」に「自性」があること自体が怪しくなります。

 次に、熱力学の第一法則(エネルギー保存則)に相当するものを「般若心経」から探すと、この世に存在するすべてのものは「不増不減」であるという文言が見つかります。玄侑氏もアインシュタインが言ったという言葉「宇宙の総エネルギー量は常に一定」という原理を引用しています。

 熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)については、「般若心経」は、「あらゆる現象は、秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある」ことを示唆しているとのことです。

 熱力学は、その第一法則と第二法則に基づいて、

  自由エネルギー=系の内部エネルギー-温度T*エントロピー

の式に到達しました。この式は、物理学が達成した大きな成果でしょう。この式を具体的な下位概念を用いて書き直すと、

  利用可能なエネルギー=外部により与えられるエネルギー-ロスにより失うエネルギー

という分かりやすい式となります。この式であれば、「般若心経」が示唆していることから自明であるかも知れません。一説によると、人間の体はもちろん、精神まで上記自由エネルギーの式で表わされるということです。人間の体については、理解できますが、人間の精神と上記式との関係については、私には理解できません。

 「般若心経」には、秩序から無秩序への変化が示唆されているとして、混沌から秩序を形成する自己組織化について示唆されているのでしょうか。この点には疑問が残ります。例えば、燃え続けるろうそくの炎は、単純な自己組織化の例ですが、この例は上記利用可能なエネルギーの式から自明かも知れません。しかし、上記自由エネルギーの式が必要となるような精密な分野では疑問です。

 次に、量子力学について言及しましょう。量子力学では、物質のミクロの様態を「粒子であり、また波である」とします。玄侑氏の解釈によると、「色」が粒子に相当し、「空」が波に相当するというのですが、「空」が波に相当するという説には率直に納得できません。「色」が人間の感覚器官を通して固定的実体のように見える何かということと、「空」が流動的現象ということは分かりますが、「空」が波であるとまでは限定していないと考えます。これは、量子力学を知ったから言える後知恵なのではないでしょうか。しかし、「色即是空」と言ってから「空即是色」と逆説的に言っているのは、何か意味深な感じがしますが。また、量子力学では、「物体は、物理的実在なのではなく、観測者とモノとの間の「出来事」ということになった」のであり、モノの実相は「空」であるとの解釈は了解しておきましょう。

 次に、相対性理論に移りましょう。 「般若心経」から、「この世に「客観的実在」などない、という状態を実相と認識し、しかもその在り方を「空」と述べている」と解釈できるのであれば、「空」と「空」との関係はすべて相対的なのであり、従って、ある「色、受、想、行、識」のはたらきと他のはたらきとの関係はすべて相対的なものであることが結論できます。

 次に、宇宙論に移ります。世尊は、「空」こそ宇宙(梵)の実相であると、徹見され、「梵我」が共に「空性」であり、「梵我一如」を悟られたとのことです。現代の科学は、人間の体が超新星爆発によって生じた星くず(元素)から構成されていることを明らかにしています。しかし、「般若心経」は、銀河系の存在、宇宙が膨張しつつあること、ビッグバンの有力な証拠とされる宇宙背景放射について示唆していません。これらは、物理学と天文学が達成した大きな成果と言えるでしょう。

 「現代語訳 般若心経」を通読してみて、「般若心経」は、想像していたよりも自然科学と整合性が良い、という感想です。一方、世間の人々が言う「自然哲学なんて般若心経にすべて書いてある」というコメントを鵜呑みにせず、1つ1つ確認できてよかったと考えています。