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地球のダイナミックスから社会現象を考える

2015-01-11 14:01:01 | ブログ
 エイドリアン・ベジャンなど著「流れとかたち-万物のデザインを決める新たな物理法則」(紀伊国屋書店)を読んで、学ぶところがあった。著者が主張する「コンストラクタル法則」を使って、例えば人間の血管系がどのように形成されるのかを説明するのは、興味あるテーマである。しかし、コンストラクタル法則よりもっと大きい概念として、「自然現象は流動系である」という点と、「社会現象も自然現象の一つである」として、自然現象と社会現象を並列して論ずる方法とに感心させられた。そこで、自分も自然現象と社会現象を、重ね合わせるか並列させて論ずるような記事を書きたくなった。

 流動系としての地球ダイナミックスを考えるとき、地球内部に存在し、地球体積の83%を占めるというマントルという層が重要な役割を果たす。マントルは固体であるが、地球内部のエネルギーによって駆動されて運動し、マントル対流と呼ばれる循環を起こす。地球内部のエネルギーには、地球ができたときに発生した熱と、地球内部に含まれる放射性元素が崩壊するときに発生する熱との2つがある。

 マントルの上には、アセノスフェアと呼ばれる軟らかい岩石の層を介してプレートと呼ばれる板状岩盤が載っている。ブレートは一枚岩ではなく、地球全体では十数枚からなる板状のブロックに分けられる。

 プレートは海底をのせている海洋プレートと、大陸をのせている大陸プレートとに二分される。太平洋プレートは海洋プレートであり、日本列島が属するユーラシアプレートは大陸プレートである。

 海洋プレートの厚さは、平均で70kmほどである。大陸プレートは、大陸地殻を含むため、プレートの厚さが100~200kmと厚いが、プレート全体の密度が海洋プレートに比べて小さい。そのため、大陸プレートと海洋プレートとがぶつかると、その場所がプレートの境界となり、大陸プレートの下に海洋プレートが沈み込むことになる。

 プレートテクトニクスによると、各プレートは内部で変形や破壊をうけずに相対運動をしており、地震によって代表される変形・破壊は主としてプレート相互の境界でおこっていると考えられる。プレートは、マントル対流によって駆動されて移動することは否定できないが、さらに重力によるプレートの沈み込みが重視されている。

 地殻はプレート運動によっていつも力が加えられている。地殻はバネのような弾性体として挙動するため、力に比例して地殻内に歪が蓄えられていく。歪の量が弾性限界をこえると、断層にそってすべりが発生する。これによって、それまで蓄えられていた歪エネルギーは主として、すべり摩擦による熱エネルギーと弾性エネルギーとして解放される。弾性エネルギーは弾性波となって地殻の中を伝わってゆく。この弾性波が地震である。

 日本列島付近では、太平洋プレートが10cm/年の速度で移動し、日本海溝などの海溝に沈み込んでおり、また、フィリピン海プレートが5cm/年の速度で移動し、南海トラフと呼ばれる浅い海溝に沈み込んでいる。

 地球のダイナミックスを、マントル対流とプレートの運動が演ずる流動系とみるとき、マントルの流れおよびプレートの移動の途中でその運動エネルギーが歪エネルギーとして蓄積されるような場所があったとしても、人間は検出できず、スムーズに流れる流動体とみなされているのであろう。そうすると、歪エネルギーを蓄えるプレート境界こそ、このような流動系のエネルギーの流れにおいて、人間が検出できる唯一の不連続線とみなしてよいであろう。

 ところで、社会というものを流動系として捉えることができるだろうか。注目されている社会システム理論によれば、社会の構成要素は、コミュニケーションであるという。一般にコミュニケーションと言うと、何らかの言語を用いて人から人へ何かの意図を伝える行為を意味するが、ここで言うコミュニケーションは、「人」、「主体」、「行為」のような「実体」的な視点で捉えるのではなく、何らかの「情報」を、ある意図で「伝達」し、それが「理解」されたときに生じる出来事である、として捉える。例えば、このブログの記事は、ネット上に公開されているから、誰かがそれを読んで理解するか、何らかのメッセージを受け取れば、それだけで一つのコミュニケーションとなる。この記事を読んだ人が、そのコメントを誰かに伝え、その主旨が理解されたとすれば、それがまた別のコミュニケーションとなる。

 社会とは、コミュニケーションの連鎖である、とする。つまり、コミュニケーションは、一瞬で終わってしまう「出来事」であるが、コミュニケーションは、別のコミュニケーションを生み出すことで、システムを維持していく。社会とは、絶えず生成されては消滅するダイナミックなコミュニケーションの流れであると言い換えてもよい。例えば、工場で生産された製品は、流通経路を通って販売店に並び、それを購入した消費者の手に渡るという製品(商品)の流れがあるが、それには必ず一連のコミュニケーションの流れが伴っているというわけだ。商品を購入したときに行われる「支払い」も、コミュニケーションの一例である。

 5年前に書いたブログで、「女性は男性に比べて生きづらいと感じている」という男女性差の問題をとりあげた。その当時、NHKが放送した日本女性についての調査結果によると、「20代、30代、・・・、70代のすべての年齢層において、日本女性は男性に比べて生きづらいと感じている」ということである。NHKの放送では、一般に女性が生きづらい理由として、社会の中の実質的な支配階層は、「大学卒以上の学歴があり、終身雇用の制度をもつ会社又は団体に正規員として勤務する家庭をもつ男性」であり、この枠から外れた多くの者は生きづらいとしている。

 また、2009年のタイム誌の米国女性に関する記事によると、「女性は、より多くの自由、より多くの教育、より多くの経済力を獲得するとき、前よりも不幸になる」と述べている。そして、「この事実は、老若を問わず、子供か成人か、既婚者か否か、学歴があるか否か、就職しているか否かに係わらず、すべてのセクターの女性に当てはまる」としている。

 そこで、以下、この男女性差の問題を再びとりあげ、それが社会現象であるとともに自然現象である、という観点から論ずることにする。

 まず、夫が稼ぎ、妻が専業主婦であるという夫婦について考える。この夫婦には、一般的に離婚理由と言われるものがなく、夫婦関係が長く続いているものとする。離婚理由がある夫婦は、別居するか、離婚するであろうから、除外しておいてよいであろう。

 社会全体を球面に例えてみよう。この球面は、接合している2つの半球から構成されるものとする。第1の半球は、製品やサービスをつくりだす会社や公共サービスを提供する団体を収容し、夫の職場もここに含まれる。また、第2の半球は、商品やサービスを消費者に提供するセクターである。夫は、主として第1半球の末端に位置づけられ、妻は、主として第2半球の末端に位置づけられる。夫婦の間は、2つの半球の接合線で仕切られているが、それ以外の2つの半球の接合部は、夫婦には見えず、両者は連続しているとみなしてよい。

 さて、第1半球でつくられた製品やサービスは、流通経路に乗って第2半球に運ばれ、消費者に商品やサービスを提供する。先に述べたように、このような製品やサービスの流れにはコミュニケーションの流れが伴う。コミュニケーションの流れは、日常用語を使って情報の流れと言い換えてもよい。第2半球は、金さえ出せば、どのような商品やサービスも受け取れる世界であるし、テレビやインターネットなどのメディアが投じる広告・宣伝を通じて絶えず消費者を誘惑している世界であるから、消費者はちやほやされ、その欲望は肥大化することはあっても縮小することはないであろう。

 第2半球から受けた商品やサービスに満足し、さらにあれも欲しい、これも欲しいと考えていた妻が、家に帰って、支配階級に属する夫と対面すると、夫が実際以上に支配的に見え、それが不平不満の種になり、生きづらく感じるのであろう。

 つまり、夫がのっているバーチャルなプレートと、妻がのっているプレートとは、ともに流動系と言ってよいが、妻側のプレートの動きが速く、両者の境界が不連続となっている。この場合、妻側のプレートが夫側のプレートの下に沈み込むということがないため、妻側に歪がたまるということになる。

 夫と妻とは、性格も異なり、世界観、価値観も異なるのだから、ある夫婦から別の夫婦へと、その違いは千差万別であろう。しかし、平均場理論が正しいとすると、夫婦間のみの相互作用を仮定したとき、多数の夫婦の組の集まりについては、男女平等の世の中であるし、夫婦間の違いが相殺されて、平均的にはイーブンと考えてよいだろう。そう考えたとき、夫婦間に固有の相互作用から分離され、社会全体の問題として浮かび上がるのは、男女性差という構造的なものである。

 そして、男女性差の問題は、社会現象であるとともに、自然現象である。男女性差は、出生前および誕生後の男性ホルモンと女性ホルモンの使い方の違いによると信じられているためである。

 ある夫婦について、この社会構造的な男女差異を吸収するような柔軟性があるならば、女性にとって、男女性差のハンディが軽減されるのではなかろうか。しかし、逆に、夫婦の一方または両方に、夫と妻の性格の違い、世界観・価値観の違いを認めないような頑固さがあるならば、女性にとって、男女性差のハンディにこれらの違いによる葛藤がダブルで加わることになる。

 ここまでくれば、働く独身女性やシングル・マザーのケースを推測することは容易である。男性と女性が一緒に働く職場にあって、男性がのっているプレートと女性がのっているプレートとの間には、不連続の境界を考えないわけにはいかない。そして、ここでも、女性にとって男性は支配的な存在なのである。

 また、共稼ぎの夫婦の妻の場合には、夫婦間と、職場の男女間とに存在する不連続境界を二重に背負うことになる。

 参考文献
 西村祐二郎など著「基礎地球科学」(朝倉書店)
 井庭崇など著「社会システム理論」(慶応義塾大学出版会)