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9次元球体の体積を可視化する

2023-04-23 07:54:21 | ブログ
 n次元空間における単位球体の体積は、次の公式によって計算される。
  n球体の体積=(n-2)球体の体積×2パイ/n
この公式に基づいて、n=4~9次元球体の体積を計算すると、3次元球体の体積を1として、4次元球体では1.18倍であり、5次元球体では1.26倍でピークとなり、nが6より大きくなるとともに体積の倍率は下がっていく。8次元球体では1.0を割って0.97倍、9次元球体では0.79倍となる。

 なぜ5次元球体の体積が最大となるのかという疑問は、新たな探索の種となりえるのであるが、この問題は脇に置いておいて、ここでは9次元球体の体積というか、体積を構成する点の密度がどのような分布を示すのか、可視化してみることにする。数学的な用語を用いると、9次元球体の測度は、どのような点の分布で構成されるのか、可視的に表現したいということになるのだろう。

 ユークリッド空間において、9次元空間上の点の位置は、(x1,x2,…,x9)の座標値を用いて表される。9次元単位球面は
   x1^2+x2^2+…+x9^2=1
で表現できるので、この式を用いて代表点の原点からの距離を計算し、それが1以下であれば体積に寄与する点、1を越えた値であれば体積に寄与しない点として計上する。9次元球体の体積が3次元球体の0.79倍とは、前者は後者の79%の体積をもつということである。

 全体的な計算技法としては、乱数によって代表点の位置を決めるモンテカルロ法を採用する。0~1の範囲の一様乱数を用いると、ほとんどの座標点が体積に寄与しないので、不適であることが分かる。代表点の多くは中心に集中する傾向が強いので、正規確率分布に基づく正規乱数を用いることになる。

 正規分布の平均値を0にすることにし、標準偏差シグマを設定する。体積に寄与する代表点を80%程度にはするにはシグマの値をどの程度にしたらよいか見当をつける。シグマをおよそ0.29に設定し、座標点データを600件ぐらいとると、そのうち体積に寄与するデータは80%の前後にばらつく。正規分布から得られる乱数はゆらぐので、シグマ値の精度よりもデータ件数Nを大きくとる必要があることを知る。

 N回の試行をすると、ゆらぎによる絶対誤差としてSQRT(N)程度は見積もっておかねばならない。つまり、10,000回の試行をすると、100回程度、言い換えれば1%程度の誤差はありうることになる。そうすると、2%程度の誤差を許容するならば、2,500回程度の試行をする必要があるので、データ件数を2,500件とした。およそ2,500件の試行で体積比率は79.3%+/-2%の値となった。

 9次元空間上の体積となる代表点の集合を2次元平面に射影する。代表点がもつx1,x2,…,x9データは、いずれも乱数であるので、どの2つをとっても2次元射影点とみてよいだろう。そこで、代表点の(x1,x2)座標点の集合が体積を構成する代表点の分布とみなす。下図は、その分布図である。



 代表点の集合を囲む円は、3次元球体の2次元射影の外周を示す。

 参考文献
 ブライアン・ヘイズ著「数学そぞろ歩き」(共立出版)
 蔵本由紀著「非線形科学」(集英社新書)

なぜ自然は数学の言葉で書かれているのか

2023-04-02 06:33:48 | ブログ
 自然科学ダイアログで「自然という書物はなぜ数学の言葉で書かれているのか」をテーマとしてダイアログすることになった機会に、自分の見解をまとめておこうと考えて筆をとった。その主旨は、人類が長い時間をかけて築き上げた自然科学の歴史を、「自由エネルギー原理に基づく脳理論」をもって読み解くことにある。

 古代ギリシャにおいて、アリストテレスやプトレマイオスによって惑星や月などの天体の運動が研究された。特に、プトレマイオスの天動説は、惑星の運動を細部まで説明できたため、その学説は14世紀間にわたってヨーロッパを支配することになった。これは、それまでにピタゴラス、ユークリッド、アルキメデス、アポロニウスなどの数学者によって構築されたギリシャの数学を利用しているものと想定していた。しかし、ダイアログの出席者Aさんによれば、プトレマイオスの天動説は、惑星が小円上を動くとともに、小円の中心が地球を中心とする大円上を動くというだけのもので、ギリシャ数学を利用しているわけではないとのことである。

 ユークリッドの数学書である「原論」は、ギリシャ数学の集大成であり、その議論の正確なことは驚くばかりであり、その叙述形式は長らく学問的叙述の模範とされてきた。しかし、ヨーロッパでは、ギリシャ数学をさらに発展させるような動きはなく、時代は長い暗黒世界に入ることになる。数学とともに科学技術も停滞することになったのである。

 16世紀になり、コペルニクスが発表した地動説(?)は大きな反響を呼び、ティコ・ブラエはこの説の真否を確かめようとして長年にわたって火星の観測を行った。その観測記録はケプラーに受け継がれ、ケプラーの法則が確立された。ニュートンは、ケプラーの法則から万有引力の法則を導き出し、その後、運動の法則をまとめた「自然哲学の数学的原理」を発表した(1687年)。ガリレオは、それまでに利用可能になっていた望遠鏡を用いて天体の観測を行い、木星の衛星を発見した。望遠鏡の発明によって、天文学、航海術、三角法は急速な進歩を遂げたのである。

 近代数学は、17世紀のデカルトに始まると言われる。彼が展開した解析幾何学は、動力学を扱うのにふさわしい道具となり、やがてニュートンとライプニッツにより微分積分学を生み出すことになる。特に、ニュートン力学と微分方程式は、自然科学および工学の強力な武器となり、科学革命と言われる時代が始まった。それは、自然科学と数学の緊密な連携を意味するものであった。

 18世紀と19世紀は、蒸気機関が発明され、産業革命が始まり、工場で製品の大量生産が進行した時代である。それとともに、熱力学と統計力学の分野が開拓された。また、電磁気学が研究され、その成果として、電動機や発電機が生み出され、やがて電力が工場や家庭に給電され、各種製品が工場で生産されて、市場に供給されることになる。その流れは20世紀を経て今日まで続いており、周知のものと言ってよいので、中略として詳細な説明を省略する。

 20世紀の自然科学は、量子物理学と相対性理論を生み出した。両者ともに、それ以前に、利用できる数学が準備されていなければ、理論の構築は不可能であったろう。量子論は、原子などミクロの世界を記述する物理理論であり、ニュートン力学に慣れ親しんだ19世紀の常識では理解不能といえるほどのものであった。そのため、アインシュタインは量子論を認めなかったし、ボームは量子力学系に「隠れた変数」を導入した理論を提唱したが、実験によって否定された。16世紀のティコ・ブラエでさえ、天動説を信じながら天体の観測を行っていた史実を思い起こさせる。

 20世紀の半ばに、生物の遺伝情報を保持するDNAが発見され、その構造と機能が明らかになった。DNAの遺伝情報を読み出して種々のタンパク質を作る仕組みは、それまでの生物学の常識に反して、チューリング・マシンに基礎をおく情報処理機構というか、プログラム制御方式の工作機械に近いものである。かく言うのも、生物がもつアナログ情報を処理する側面よりも、デジタル情報処理の側面が注目されるためかも知れない。

 以下、その時代の数学を利用する自然科学分野に関与した人々の頭脳の集合を一つの脳集団と見立てて、「自由エネルギー原理に基づく脳理論」を適用してみたい。上記した自然科学の歴史にみるように、古代ギリシャの自然哲学から20世紀に始まった現代物理学に至るまで、数学は自然科学の中核であるかまたはその伴侶であったことは疑いのないところである。さらに言えば、量子論となると、その数学的構造が主役となり、人間が行う実験と観測の行為は脇役になったという感がある。言い換えれば、モノが実在しているというよりも、モノの存在は不確かであるが、量子論の数学的構造こそ実在と言ってよい。なぜなら、モノには寿命があるが、数学的構造は永久不滅の存在だからである。

 シドニー・ブレナーは、「数学は完璧を目指す学問。物理学は最適を目指す学問。生物学は、・・・」と述べた。数学的構造をプラトン哲学で言う「イデア」とするならば、物理学に基づく観測データは、ベストの状態であってもイデアの近似にしかならないということであろう。ニュートン力学(古典力学)までは、力学系の運動方程式が正確に解けたとしても、その解を実験で確認しようとすると、観測誤差のため、近似的なデータで満足しなければならなかった。しかし、量子力学となると、実験データは理論値と10桁程度まで一致するようになった。こうなると、量子力学はほとんど完璧な理論であり、数学が目指す領域に入っているのではなかろうか(反対意見は予想されるが)。

 こうして自然科学の歴史をみてくると、自然科学は自然(外界)に秘められた数学的構造との差分が小さくなる方向に進化してきたが、量子論をもってついにその差分がほとんど0という状態に至ったと理解する。つまり、自然の素顔とは数学的構造であって、人類の脳集団が長年行ってきた研究努力がはからずも実り、ついに問題の脳理論で言う「隠れ状態」を表す情報に到達したということである。自然という書物は、もともと数学の言葉で書かれていて、人類は自然科学を探究することを通じてこの事実を発見したものと解釈する。量子論以外の他の学問分野についても、量子論を基礎としているのであれば、原理的には同様と言えるのであろう。

 以上の議論では、人間の頭脳がもつ能力、つまりポテンシャルは古代ギリシャから今日まで変わらないということと、自由エネルギー原理に基づく脳理論は人間集団についても成り立つことと、人間は生きていた時代に知られていた学問・知識を学習し、さらに新たな研究成果を加えて進化していく生き物であるということを前提としている。

 自然科学であるから、「なぜ自然は数学の言葉で書かれているのか」と問うのは適切ではなく、「人類は、いかにして自然が数学の言葉で書かれていることを発見するに至ったか」と問う方がよいと考える。

 Aさんの見解では、「人間が理解しやすいように数式で書かれる」というものである。「なぜ・・・」という問いかけに誘導された回答のように思う。他の出席者Bさんのコメントは、「宇宙は数学的構造そのものであるが、「クオリア」のように数学で扱えないものがある」とのことである。クオリアとは何か理解不能だが、人間が感覚器官を介して認識するプロセスならば、それは宇宙に含まれるのではなかろうか。

 参考文献
 鈴木敬信著「天文学通論」(地人書館)
 数学セミナー12-71「100人の数学者」(日本評論社)
 乾敏郎など著「脳の大統一理論」(岩波科学ライブラリ)