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Excelで量子の姿をのぞく

2017-03-26 12:06:10 | ブログ
 18年も昔のことであるが、当時のパソコンを使って量子力学の波動方程式の数値計算をしたことがあった。プログラム言語としてはPASCALを使い、調和振動子のいくつかのエネルギー・レベルについて波動関数の数値解を求め、計算結果をグラフ表示した。

 参考文献を読んで、ネルソンの確率力学を使えば、波動関数の波形を追うことなく電子の運動経路を計算できることを知った。

 自由電子の運動経路を計算するための確率微分方程式のx座標成分は、次のような形式をしている。
    X(t+dt)=X(t)+vdt+量子ゆらぎの項  (1)

 時間の刻みであるデルタtをdtと書くことにする。vは電子の速度(運動量のx成分/電子の質量)であり、一定である。X(t)は時刻tにおける電子のX座標値、X(t+dt)は時刻t+dtにおける電子のX座標値である。

 (1)式の量子ゆらぎの項がなければ、式は古典力学で速度を定義する式:dx/dt=vに他ならない。

 量子ゆらぎの項は、ミクロの世界を扱う量子力学のために追加する項であり、定数×A(t)×SQRT(dt)の形をしている。A(t)は、時刻tにおいて、量子ゆらぎによって古典力学の経路から+方向または-方向にずれる確率を与える変数である。SQRT(dt)はdtの平方根を表す。

 (1)式の右辺の第2項と第3項は、マクロの世界でニュートンの運動法則が成り立ち、ミクロの世界で量子論が成り立つように、波動関数から導かれたものなので、ネルソンの確率微分方程式は、古典力学と量子力学の両方と整合性をもつものである。

 Excelの表にdtの刻みをもつ時間座標を求める式を入力し、確率変数として乱数を求める式を入力し、(1)の計算式を入力し、各々の式を各列の数値になるようにコピーして計算させると、X座標値の列には、時刻t=0でx座標の原点にいた電子がx軸の正方向に自由運動している様子が、時間でdt刻みに計算された位置のx座標の数値の並びとして現れる。

 計算結果をグラフ表示してみると、ミクロの世界における自由電子の運動は、一定の速度での等速直線運動に量子力学的不確定性による量子ゆらぎが加わったジグザグ運動となることが分かる。



 Excelに対して再計算の指示を出すと、乱数の値を変えながら再計算するので、そのたびに計算結果が変わり、各々の見本経路の様子がグラフに現れる。

 マクロの世界では物体の質量が極めて大きいため、量子ゆらぎを0と考えて無視することができる。(1)式の量子ゆらぎの項を0にするように変更して計算すると、当然のことながら、古典力学における等速直線運動する質点の運動を示す直線が現れる。

 ネルソンの確率力学の手法は、次のような利点をもつ。

 まず第一に、古典力学と量子力学とは連続的につながった基本法則であり、両者が無関係に存在する法則ではないことを理解できる。

 第二に、量子の位置とその運動量の不確定性を示す量子ゆらぎとはどういうものか目に見える形で表示できる。

 第三の利点は、波動関数の重ね合わせに関するものである。自由電子は運動状態の重ね合わせが可能であるから、x軸方向に運動量pで自由運動する場合の波動関数1と同方向に-pで自由運動する場合の波動関数2の重ね合わせであるa×波動関数1+b×波動関数2を波動関数とする運動状態も存在する(a,bは各重みを示す)。

 例えばa,b=1のように波動関数1と波動関数2を同じ重みで重ね合わせた波動関数の確率微分方程式をつくり、その計算結果をグラフで表示すると、量子力学的不確定性による小刻みな量子ゆらぎを示すが、ほぼ静止した運動となる。

 ミクロの世界での重ね合わせの運動についての見本経路を拡大してグラフ表示してみる。何度か再計算するうちに、初期値であるx軸原点の近くで量子ゆらぎを示していたジグザグの運動経路が、途中の時点から瞬間的にx軸上の正点から負点のように反対符号の点に飛び移り、その後はしばらくその点の近くで量子ゆらぎを示すジグザグ運動を続けるような見本経路が現れる。

 重ね合わせた波動関数に関するコペンハーゲン解釈は、電子が波動関数1の運動をしているか、あるいは波動関数2の運動をしているかを観測した場合、確率1/2で波動関数1の運動が観測され、確率1/2で波動関数2の運動が観測されるということしか教えない。この現象は、「波動関数の収縮」とよばれているが、そのメカニズムが明らかでない。

 しかし、確率力学による電子の見本経路を見れば、それはただ電子の連続的な運動に伴う量子ゆらぎを意味しているのであって、観測によって波動関数が収縮するわけではないことが分かる。

 一方、波動方程式を解いて波動関数を求めるかあるいは波動関数の数値解を計算する手法と比べて、一般に確率力学が不利となるケースが少なくないようにみえる。確率力学は、波動関数に依存しているので、波動関数が求まらなければ、(1)式のような確率微分方程式がつくれない。従って、波動関数が求まらず、その数値解を計算しなければならないケースには対応できないことが想定される。

 Excelを使う確率微分方程式の計算では、量子ゆらぎの確率変数A(t)として、RAND()-0.5のような式を与えている。RAND()は0~1の範囲の一様乱数を生成する関数なので、この式は=-0.5~0.5の範囲の一様乱数を与える。

 ゆらぎとは平均からのランダムなずれであるとするとき、ゆらぎは中心極限定理という確率法則に従い、ゆらぎの量は正規分布という確率分布によって与えられることが知られている。つまり、この確率分布こそ正規乱数とされる。

 参考文献によれば、Excelが用意する乱数は一様乱数であるから、RAND()関数を12回足し合わせたものから6を引いた計算式によって確率変数A(t)を与えるのがよいとする。

 実際に参考文献が勧める乱数の計算式によってA(t)を与えてみると、-0.5~0.5の範囲から外れる乱数が多く、計算結果の変動が激しくなり、不安定である。一様乱数を足し合わせるだけで正規乱数の準備ができるという話は疑問である。

 古典力学から量子力学への遷移は連続的であることを基本法則とするのであれば、確率変数A(t)は正規乱数でなければならないことになる。特に、粒子の質量が量子のそれから次第に大きくなっていっても運動量保存則が常に成り立つものとすれば、粒子の質量が大きくなるに従って量子ゆらぎが小さくなるであろうから。

 参考文献
 保江邦夫著「Excelで学ぶ量子力学」(ブルーバックス)
 蔵本由紀著「非線形科学」(集英社新書)

世間の人々の精神構造

2017-03-12 08:32:56 | ブログ
 日本の歴史と言えば、織田信長がいつ何をしたかというようにイベントの羅列で構成されている。つまり、歴史の教科書はイベント・ドリブンの形式で記述されている。

 そうすると、歴史認識とか歴史観というものも、何らかの歴史イベントをどう解釈し、どのように認識するのかを問うものであるようだ。

 一方、特定のイベントの詳細を追求するのではなく、社会の中で家庭生活、教育、労働、文化など人間の諸活動がどのように変遷していったかを研究する社会史という分野がある。

 「社会」という用語は、江戸時代にはなく、明治になって英語のsocietyの訳語として導入されたものだそうだ。そうすると、江戸時代の社会を表す用語としてふさわしいのは、似て非なるものではあるが、「世間」という用語が適している。

 江戸時代が始まるとともに、幕府は、士農工商という身分制度を確立させた。しかし、江戸時代の後期になるまでに、士農工商の実態は、身分を表すものというよりも職業を区分するものという認識に変わっていったと言われる。その証拠として、明治維新となって身分制度が撤廃されても、それに対する抵抗勢力のようなものは存在しなかった。身分よりも個人の向上心と努力が日本を近代化させる原動力となったのである。

 江戸時代の武士は今日のサラリーマンに相当するが、それ以外の9割以上の日本人はいわば自営業であった。若い時の奉公はあっても、いずれ一人前の自営業者として生計を立てるのが普通である。

 そのような自営業者が集まって村や町のようなコミュニティを形成するが、各人は独立した職業人というよりも、世間というコミュニティに束縛されるその構成員と言った方がよい。武士が所属するコミュニティについても同様である。

 江戸時代から今日に至るまで、明治維新と太平洋戦争という特大の歴史的イベントを経験したにもかかわらず、また、昔存在した村や町が個人を束縛するコミュニティではなくなっていったにもかかわらず、世間の構成員という意識だけは根強く残っている。国土を壊滅させるような歴史イベントが起こり、自由と民主主義の国になっても、世間の人々の精神構造だけは無傷のまま残ったと言うべきであろう。
 
 もっとも、世間の実体となるものは時代とともに変化している。今日では、同じ職場で働く人々であったり、派閥・学閥とかママ友であったり、宗教団体であったり、気の合った者が集まる趣味仲間や仲良しクラブであったりと、様々である。

 従って、「世間の構成員」と言っても、それは世間に属する人々を抽象的に表現しているのであって、現実の姿はこのようなコミュニティやクラブの構成員という形で存在するのである。そして、そのようなバラバラに存在するはずのコミュニティやクラブが日本全体では目には見えず意識もしないネットワークを介して互いに結合されることになり、世間という共通の精神構造をもつ場として人に作用するのである。

 世間は複雑系で言うスモールワールド・ネットワークになっていて、人が想定するよりもはるかに狭いのである。世間全体がもつ精神的特徴がその中のどの小グループをとってみても現れる点に着目するならば、世間の精神構造はフラクタル構造をしているとも言えよう。

 世間の構成員となったら、最優先するものは人間関係とそのコミュニティだけで通用する暗黙のルールとである。そのため、大学で教えるような学問は実生活では役に立たないものであり、学問よりも人間関係を学び、就職のために必要な卒業証書を取得することが重要なのである。コミュニティの中では小難しい理論は不要であるし、あ・うんの呼吸でもコミュニケーションできるとともに、プレゼンテーションのスキルが問われることもない。

 このような世間の精神構造では、世間から独立した個人が育ちにくい。先輩―後輩の人間関係があったり、職場では自分の仕事に邁進するというより上司や同僚の顔色をうかがうような雰囲気では、独立した個人は世間のアウトサイダーとして生きるほかない。

 仲良しクラブなどのコミュニティでは、法律や社内規則よりも暗黙のルールが優先することはよく経験するところである。逆に言えば、独立した個人は社会的なルールを盾に争えばよいのである。もっとも、世間の構成員は社会的なルールが意識化されることを嫌って論争に加わることはないであろうが。

 こうみてくると、学校で教える日本の歴史は日本人が知っておくべき教養の範疇には入っても毎日の生活にとって不可欠という程ではないが、世間の構造を知るということは独立した個人の日常生活にとって不可欠ということになる。一方、世間の構成員にとっては、毎日の行動は無意識に行っているだけの当たり前のものであるから、いまさら世間の構造を知って何になる、というところであろう。

 ここで、自分の親戚や知人の顔ぶれを思い出してみると、その8割以上がいわば保守派に属し、世間の構成員と考えてよいようだ。どちらかというと無口であり、公の場所でスピーチしたり、公の席で議論したりするタイプではない。

 独立した個人は、マイノリティであり、多数決による投票では到底優位に立てる立場にはない。その代わり、言論と自主的な行動によって人生を切り開き、社会に貢献できるのでは、という希望がある。

 社会と言っても、世間の構成員が支配する世の中では彼らが主役なのであるから、彼らの言い分を聞こう。彼らは、世話好きのおじさん、おばさんなど老若男女であり、地域コミュニティやボランティアなどを通じて、世のため人のために日夜尽力している。彼らの利他的な努力によって、地域の安全が守られ、道路の清掃が行き届き、地域の子どもが健全に成長できることは明らかである。また、彼等は、世界に誇る伝統的な日本文化の継承者でもある。世間の構成員であって何が悪いのか。

 なるほど。世間の構成員と独立した個人とは、相手に対して互いに違和感をもつのはやむを得ないが、外国人の住民の増加など益々多様化する社会にあって、共存していくほかないのである。そのためには、お互いに寛容と忍耐の精神をもって臨む必要がある。

 自由、平等、友愛とは、フランス革命のときの旗印となった標語であるが、今日では、「友愛」の代わりに「寛容と忍耐」を置きたいと思うのである。

 参考文献
 養老孟司などの対談集「見える日本、見えない日本」(清流出版)
 浅羽通明著「教養論ノート」(リーダーズノート新書)