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「時間の終わりまで」を読む

2022-07-31 08:34:59 | ブログ
 分厚いブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」(講談社)を一読した。私は、本書を科学と宗教との対立という文脈で読んでみた。

 宗教については、11章中の1章を割き、「脳と信念」という表題の下に説明している。この章では、キリスト教の旧約聖書に出てくる「天と地の創造の物語」にも言及しているが、科学と宗教の対立という話にまで展開していない。一方、仏教やヒンズー教については、意図的に科学と宗教の対立を示唆するような話の展開になっている。

 なぜ仏教やヒンズー教を積極的に取り上げるのに対してキリスト教に対して消極的な態度となるのか。思うに、著者は、直接的にキリスト教信者を刺激するのを避けて、本書の全体を通じて間接的にキリスト教を批判する策をとったのではないかと推測するのである。ヒンズー教はいざ知らず、少なくとも仏教には創世神話がないので、仏教を通じて科学と宗教の対立を示唆するのが無難であろう。

 本書は、「ビッグバンから時空の終焉まで、壮大なスケールで描き出す宇宙の物語」であるが、この物語のキーワードとなるのが、エントロピーと進化であるので、以下、エントロピーと進化の簡単な説明から始めよう。

 エントロピーに関しては、本書を含めて熱力学を扱う多くの文献は、例えば10円硬貨を無作為に100回トスしたとき、表が出る確率がどうなるかという類の議論をしている。100回の試行をしたとき、100回すべてで表が出るというパターンは1つしかなく、従ってその出現確率は非常に低い。一方、100回の試行のうち50回表が出るという硬貨の出現パターンは非常に多く、従ってその確率は高いというものである。

 一度に100個の硬貨を投げるという試行、あるいは1つの硬貨を100回トスするという試行から、物理系を構成する非常に多くの気体分子の状態と対応する出現確率を類推することは容易であろう。圧倒的に多くの状態は、気体分子が容器中のランダムな位置を占めており、各分子の速度も温度によって決まる平均速度を中心にしてランダムに分布しているのである。このような状態のパターン数は非常に多く、従ってその出現確率は大きいということになる。一方、その温度を定義することができない極限状態であるが、すべての気体分子が容器の一角の小領域に規則正しく配列するという状態になることは、まずあり得ないというほどの極めてまれな状態であり、従ってそのパターン数は極めて少なく、出現確率は極めて小さく、ほとんど0に近いということになる。

 前者のような状態の出現確率が大きい場合を、エントロピーが高い状態という。また、後者のような状態の出現確率が小さい場合を、エントロピーが低い状態という。物理系がエントロピーの低い状態にあっても、それは一瞬の出来事であり、熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)により系は瞬時にしてよりエントロピーの高い状態に移行する。しかし、物理法則は、自然放置の状態にある物理系がエントロピーの高い状態からより低い状態に移行すること、その極限状態であるほとんど確率0に近い状態に移行することを禁止しているわけではない。ただ、宇宙が誕生してから138億年までの間のような現実的な時間では、そのような極限状態が出現する可能性はほとんど0と言ってよいであろう。

 以上、エントロピーについての説明は、次のように要約される。物理系を構成する要素が秩序正しく整列している状態を系のエントロピーが低い状態と言う。逆に系の要素の配置が混沌としている状態をエントロピーが高い状態という。

 次に、宇宙と生命の進化に移る。138億年前にビッグバンにより宇宙が誕生して以来、物質が寄り集まって恒星や銀河が形成された。46億年前には太陽系が形成され、地球が誕生した。約40億年前には生命体が誕生し、原始の生命体が進化することによって現在の人類にまで到達することになった。

 エントロピーが低い状態の系は、熱力学の第二法則に従ってエントロピーの高い状態に移行する。この移行が時間の流れを形づくる。しかし、宇宙という空間のなかに部分集合をとると、エントロピーの低い領域とエントロピーの高い領域とがあり、決して一様ではない。地球上の生物は、エントロピーの低い領域に生息していると言える。太陽という低いエントロピーの豊かな源の恩恵を受けているためである。宇宙全体を見ると、宇宙誕生時の低エントロピー状態が現在では高エントロピー状態に移行したのだから、宇宙全体は、熱力学の第二法則を順守しながら進化していると言える。

 少なくとも35億年前に地球に現れた生命体は、単細胞の生物であったと推測されている。単細胞生物が進化して、海綿のような多細胞動物が支配的になったのは6億年前であるから、長い間、単細胞のバクテリアが全地球に君臨していたのである。ヒトが現れたのが約700万年前、人類が文明社会と言われる集団を創り始めたのが数千年前であるから、35億年に亘る生物史の中では、ごく最近の出来事ということになる。

 ダーウィンの進化論は、この全生物史を一貫したシンプルな理論によって説明する。つまり、およそ40億年に亘る生物の進化の歴史を経なければ、今日みる科学技術の恩恵にあずかる人間社会というものに到達できないのである。旧約聖書によれば、天と地の創造に始まり、男と女が作られるまでにわずか6日間しか経過していない。人間が今日の科学技術のレベルに到達するに要した時間と比較しても、比較にならないほど短い期間である。

 物理法則は、ニュートン力学からマクスウェルの電磁気学を経て相対性理論と量子物理学に到達するに至った。これらの物理学に現れる方程式は、「現在の状態が与えられたとして、現在から未来へ向かう変化と、現在から過去へ向かう変化とを、まったく同じに扱う。われわれにとって過去と未来の違いには深い意味があるが、物理法則はその違いを完全に無視している。」つまり、物理学の方程式は、時間の流れというものを表現していないのである。

 一方、宇宙の中で生じる現象は、過去から現在に向かう時間の流れを意識せざるを得ない。宇宙の至るところで、エントロピーの低い状態であった系がエントロピーの高い状態に移行しているのであり、ここに過去と未来の違いが生じる。これによって過去が現在のなかに痕跡を残すことになる。つまり、そこには記憶が存在し、痕跡が残り、生物の進化の跡をたどることができる。生物自体も遺伝情報という進化の痕跡を残している。

 本書の著者は、「粒子と意識」という章で、意識について、「いずれは、物質の構成要素である粒子と、それらの粒子を支配している物理法則についての通常の理解をいっさい超えることなく、意識を説明できるようになるだろうと思うのだ。」と述べている。人間の脳内にある粒子を、容器に格納された気体分子の集団のように扱う考え方であるが、ランダムに走り回る気体分子の集団では意識が生じる余地がないので、脳全体として統合された意識が生じるためには、人間の脳のように多数のシナプス結合で絡み合ったニューロンのネットワークの形態をとることが前提となるのであろう。

 脳は1000億個くらいのニューロンをもつと言われている。各ニューロンは1つの状態を表すとみてよいから、ネットワーク全体で10^100の状態が存在することになる。そうすると、10^100は2^333に相当するから、わずか333個の量子ビットをもつ量子コンピュータがあれば脳のシミュレーションが原理的に可能である。つまり、量子コンピュータに特定の人間の思想、感情、記憶を反映するようなニューロン・ネットワークを構築できれば、この人間の脳に関するアバターをつくることができる。

 ここで、本書が「ボルツマン脳」と呼ぶ奇想天外なものが登場する。特定の人間が、いま現在、その人特有の思考、感情、記憶をもつということは、その人の頭の中で、このとき実現している特定の粒子配置(あるいはニューロン・ネットワークの状態)のためである。そうであれば、「構造がなくてエントロピーの高い宇宙空間をランダムに飛び交っている粒子たちがたまたまエントロピーの低い配置をひととき取ったとすれば、そしてその配置が、たまたまその人の脳を構成している粒子配置と一致したとすれば、その粒子の集合体は、その人と同じ記憶、思考、感覚をもつだろう。」そのような粒子配置を実現した物理実体をボルツマン脳と呼ぶのである。

 自然発生的にボルツマン脳が形成されるまでの時間は、138億年という宇宙の年齢に比べて、とてつもなく長く、実現する確率は極めて小さく、ほとんど0に近いのである。宇宙と生物が進化した期間が現実的な時間であるとすれば、ボルツマン脳が構築されるまでの期間は、非現実的な時間である。自然状態でボルツマン脳が実現するのを待つよりも、特定の人間の脳のアバターを構築する方がはるかに短期間で実現できるように思える。それなら、なぜ本書の著者は、ボルツマン脳などという荒唐無稽なものを持ち出したのだろうか。

 宇宙と生物の進化が進行中であり、今から数千年前にヒンズー教または仏教の信者の脳内にあった思考プロセスと記憶が突然消失し、現代物理学に関する思考と記憶をもつボルツマン脳に置き換わったと考えてみよう。宇宙の誕生以後の138億年間にボルツマン脳が生成されたという科学的根拠はない。

 138億年の間にボルツマン脳が生成されたと仮定すると、現実の宇宙と生物の進化状況に矛盾する。一方、ホルツマン脳を否定するということは、「数千年前にヒンズー教や仏教の信者の頭の中に生じた教えは、現代物理学が教えるものを要約したものである」という当該信者の仮説を否定することになる。

 本書には、ボルツマン脳と現代物理学との関係を示唆する記載があるので、その部分を引用する: 「(著者は、)一般相対性理論や量子力学を勉強した記憶があるし、これらの理論を支える論証の鎖をすべてたどり直すことができるし、これらの理論によってみごとな精度で説明されるデータや観測を自分で確かめてみたことも記憶している。ところが、もしも私が、こうした記憶は、それと結びついた実際の出来事によって刻まれたのだと信じることができなければー-一般相対性理論や量子力学は、心が作り上げた虚構などでは断じてないと信じることができなければー-これらの理論が示す結論はひとつとして信じることができない。そして皮肉にも、今や信じられないことになった結論の中には、私は自然発生的に生じ、虚空にぽっかりと浮かんでいる脳だという可能性も含まれるのだ。脳が自然発生的に生じる可能性[自分がホルツマン脳である可能性]から生じた深い懐疑は、そんなものを考えるようにわれわれを導いた論証そのものを疑わざるをえなくさせるのである。」

 参考文献
 フライアン・グリーン著「時間の終わりまで」(講談社)
 カルロ・ロヴェッリ著「時間は存在しない」(NHK出版)

宇宙の果てについて議論する

2022-07-10 07:23:47 | ブログ
 観測可能な「宇宙の果て」は、宇宙が誕生した138億年前であるから138億光年先と信じていた。最近になって、宇宙の果ては、約470億光年先という新たな数字が出現した。地球から見て138億光年先は、宇宙の膨張によって、地球から見えない方向にも拡張しているので、今や観測可能な宇宙の果ては470億光年先にまで広がっているというのである。宇宙は光よりも速いスピードで膨張しているので、地球から見えない方向に進んだ光を観測することはできない。それなら、なぜ観測可能なのか。

 例えば、地球から見て135億光年先というこれまで観測された最も遠い銀河HD1は、現在時点では、地球から470億光年先に近い所まで遠ざかっているのである。

 こうなると、素人がこの状況を理解するのは難しい。そこで私と仮想的な先生は、どのような議論をすることになるのか想定してみた。

 私: 地球から見えない方向に進んだ光を「観測可能」と言うのは納得できない。

 先生: 確かにそのような光子の集まりを地球から観測することはできない。しかし、銀河HD1の映像は地球まで届いているのであるから、HD1が135億年間存在している限り同じ映像がHD1の移動とともに470億光年先近くに存在するものと推測できる。同様に、138億光年先にある宇宙誕生の直後に発せられた光(宇宙背景放射)を観測できたのであるから、宇宙誕生の場所は470億光年先に移動したと推測できるのであり、観測可能な宇宙の果ては470億光年先と見なしてよいであろう。

 私: 138億年前に発せられた光が地球まで届いているということは、この光は宇宙の膨張に抗して遅れながらも地球まで到達したということである。これは、宇宙は光よりも速いスピードで膨張しているという説に反する。宇宙は膨張しており、そのスピードが光速を超える時期があったと説明すべきではなかろうか。

 先生: ・・・

 私: 宇宙が誕生してから38万年後まで宇宙は光を発しなかったのであるから、138億年まで原始銀河やその前身を観測できたとしても、この暗黒時代の宇宙を観測することは不可能なはずだ。

 先生: 電磁波をもって観測する限り、そういうことになる。しかし、原始重力波をもって初期宇宙の状態を観測するという可能性はある。

 宇宙の果てを越えた先に宇宙が存在するのか否かについては、物理学は答えることができない。

 宇宙の果てである470億光年先という数値は、138億年かけて地球に光が到達するまでの時間と、その間に膨張したとされる宇宙の距離を考慮することによって計算できる。しかし、素人にとって470億光年という数値にはあまり意味はなく、むしろその考え方に意味があるとしたい。