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「不完全性定理」を学んで

2011-08-17 13:54:51 | 学問

 野崎昭弘著「不完全性定理」(日本評論社)を読んだ。ゲーデルの不完全性定理は難解、との前評判通り、ゲーデル文と呼ばれる論理式がどのような技術的手続きを経て展開されていくのかを理解するのは容易ではなかった。不完全性定理は、長い論理学・数学の歴史が到達した1つの到達点のように思える。公理系を前提としてそれから様々の定理が証明されていくユークリッド幾何学、ユークリッド幾何学の平行線公理を否定することによって誕生した非ユークリッド幾何学、集合論の誕生と発展、改めて数学や論理学の基礎を問う数学基礎論、そして数学基礎論がたどりついた不完全性定理、という具合である。さらに、ゲーデルの不完全性定理は、現代の数学や論理学の出発点となったようにも見える。

 自然数x,y,zの間に何らかの演算を定義し、これらx,y,zに関して結合則、交換則が成立し、たとえば0や1のような単位元を定義するような公理系を設定できる。そして、変数間に定義された演算がこの公理系を満足するにもかかわらず、正しいことが証明できないような算術式が存在することが知られている。しかし、この算術式が証明できないことは、通常の数学的手続きによって証明できるので、問題は生じない。

 これに対して、次のような記述(文)、

 「「この論理式Gは証明できない」ということを表現している論理式G」

は、ゲーデル文とも呼ばれ、「自分自身の証明不可能性」を表現しているわけであり、数学的手続きの範囲では真であるとも偽であるとも判定できない。この種の記述は、超数学的記述と呼ばれる。なお、このような記述(文)は、真偽のいずれかを問うているので、論理式ともなっている。

 上記論理式Gは、記号・記号列のシーケンスから構成されている。ゲーデルは、部分的な記号・記号列をゲーデル数と呼ばれる自然数で表現した。各記号・記号列間は掛け算記号で接続するので、ゲーデル文の全体も1つのゲーデル数すなわち自然数で一意に表現することになる。すなわち、ゲーデル文という超数学的な論理式がゲーデル数という算術的記述で表現できる自然数に翻訳されたわけである。逆に、あるゲーデル数が1つの自然数として与えられると、素因数分解の方法を用いて、表現されている論理式があたかも暗号解読のように一意に決定できる。ゲーデル数の体系は、このように自然数とありふれた算術規則だけを使って論理式を暗号化したり復号化できるよう構成されている。

 ゲーデルは、ゲーデル文が自然数の公理系を満足するにもかかわらず、証明できないことが表明されたのであるから、自然数の体系が形式的に不完全であることを示した。もし論理式Gが証明可能だとすると、G自身が言っていること、すなわち「Gが証明できない」と矛盾する。もしGの否定(-G)が証明可能だとすると、「Gは証明できない」ことの否定が証明できることになる。2重否定は肯定と同等なので、「Gが証明できる」ことが証明できることが導かれる。これは実質的に「Gが証明できる」ことと考えてよい。一方、(-G)も証明できるのだから、Gと(-G)が両方とも証明できたことになる。これもやはり矛盾である。このように、Gが証明できるとしても(-G)が証明できるとしても矛盾が発生するので、もし公理系が無矛盾ならば、どちらも証明できない。

 ゲーデル文に関する上記議論は、いわゆる「ウソつきパラドックス」とよく似た構造をもっている。「ウソつきパラドックス」とは、たとえば、クレタ人であるエピメニデスが「すべてのクレタ人は嘘つきである」と言ったというパラドックスである。エピメニデスも嘘つきであるから、言ったことは嘘であるので、「クレタ人は嘘つきでない」ことになり、ということはエピメニデスは本当のことを言ったのであるから、「クレタ人は嘘つきである」ことになるという真偽判定の手順が永久に繰り返される。すなわち、このパラドックスは、クレタ人が嘘つきか否か決定不可能な記述ということになる。一方、ゲーデル文Gは、「証明できない」ことが真であるから、論理式の真偽はそれで終結し、パラドックスは生じない。

 次にコンピュータの停止問題に言及しよう。一般に、コンピュータは、あるアルゴリズムに基づいて作成されたプログラムを参照して与えられた演算手続きを実行し、その演算結果を出力して停止する。しかし、何らかの原因によってプログラム実行が無限ループに陥り、コンピュータが停止できなくなることがある。あるいは、ゲーデルとチューリングが提示したという自分自身とジレンマに陥るプログラムの例を挙げよう。コンピュータは、各々1,2,3のプログラム番号を与えられた3個のプログラムを実行するものとする。1番目のプログラムは、その処理を実行し、その実行結果をその出力欄に出力する。この出力欄が更新されたことを検出した3番目のプログラムが第1プログラムの出力結果に1を加えて自分の第1の出力欄にその結果を出力する。次に、第2のプログラムはその処理を実行し、その実行結果をその出力欄に出力する。これを検出した第3のプログラムが第2プログラムの出力結果に1を加えて自分の第2の出力欄にその結果を出力する。次に、第3のプログラムは、その処理を実行し、自分の第3の出力欄にその結果を出力するが、さらにその結果に1を加えて第3の出力欄を更新するという単純なアルゴリズムを実行する。しかし、第3の出力欄が更新されたことを検出した第3プログラムは、さらにその結果に1を加えて第3の出力欄を更新するという処理を続ける。すなわち、第3プログラムの実行は無限ループに陥った状態となり、コンピュータは停止しない。第3プログラムは、自分自身の判定結果を修正し続けるのであるから、「ウソつきパラドックス」に類似した結果判定の手順を永久に繰り返すことになる。つまり、ゲーデルとチューリングが指摘したように、「アルゴリズムでは決定できない」問題が存在する、という決定不可能な命題にたどり着くのである。

 次に、別の例として、リチャードのパラドックスとして知られる問題を挙げよう。fを、すべての負でない整数n=0,1,2,...に対して定義された負でない整数を値にとる関数とする。f(n)がnでのfの値とするとき、f(n)が有限個のことばで書かれた法則で、有限個の段階を踏んで得られるとき、fは「計算可能」ということにする。換言すれば、「計算可能」とは、f(n)を計算するためのアルゴリズムがあるということである。たとえば、f(n)=1+2+...+n=n(n+1)/2のように、数学的帰納法を用いてf(i)から容易にf(i+1)を導き出せるような関数を想定するとわかりやすい。関数fは、帰納的関数という範疇にはいるものなのであろう。

 すべての計算可能な関数は可算集合をつくることが容易に証明され、したがって、これらの関数をすべて一列に並べることができる。

   f,f,...,f

 さて、新しい関数を次の式で定義しよう。

   g(n)=f(n)+1

この関数は上の列には入らない。なぜならn=1に対してはf(1)と値が異なり、n=2に対してはf(n)と異なる・・・から。ゆえにgは計算可能ではない。一方、この関数gは計算可能である。なぜならf(n)は計算可能であり、それに1を加えて、g(n)を得るから。

 関数gの計算可能性は、本質的にf,f,...,fの順序に依存しているので、計算可能な関数fは算術体系の範囲で記述されるのに、gの順序の方は「超数学的演算」にほかならない。

 このように、通常の数学的手順に依存する限り、リチャードの問題はパラドックスとして提示されるだけだが、ゲーデルの方法によれば、f,f,...,fによって形成される体系が無矛盾であると仮定すると、関数gが計算可能かどうかという問題は、「決定不可能な命題」として浮かび上がってくる。

 考えてみれば、自然数というと、1,2,3,...のように数が順番に配列された体系であると考えがちである。しかし、この考えは錯覚のようなものである。この自然数の数列は、n番目の自然数に1を加えることによってn+1番目の自然数を得るというアルゴリズムによって構成されたものに他ならない。無限に存在する自然数の集合から任意の自然数を1つ選んだとき、それは、ゲーデル数のようにその内部的な構成に意味をもたせた数でない限り、ランダムな数である確率が高い。大多数の自然数はランダムであることが知られている。すなわち、あるアルゴリズムに従って配列されている数の体系という世界を離れると、とたんにランダムな数が無秩序に集められた混沌とした世界となる。たとえば、ある種のディオファントス方程式のすべての整数解を集めた集合のようなものであろう。ディオファントス方程式とは、1個または数個の未知数に関する通常の代数方程式で、問題はそれが整数解をもつかどうかということである。たとえば、有名なフェルマー予想:x+y=zは、ディオファントス方程式の1つである。任意に高い次数のディオファントス方程式の整数解の存否を決めるアルゴリズムが作れるかどうかという問題は、ヒルベルトの第10問題と呼ばれ、未解決の問題である。フェルマー予想の場合には、n>2で整数解がないことが証明されたのであるから、そのようなアルゴリズムがあるということなのであろう。

 ゲーデルの不完全性定理から連想されるものは、日常生活で遭遇する様々な出来事には様々な矛盾が満ち満ちているということである。3月に起きた東日本大震災の悪夢の記憶もまだぬぐい去れない現在、どうしても大震災により生じた原発事故と不完全性定理とを結びつけて考えてしまう。原発を推進してきた原子力ムラの住人は、原発の安全神話というムラの中ではあたりまえと考えられてきた体系(日常的には常識ということばで語られる)を信奉し、この体系からは導き出せない冷却系の全滅という事態を想定できなかった。その道の専門家であろうが素人であろうが、人間の視野にはとび越えられない限界があることを明確に教えてくれる。人々は、人間ならばだれでも過ちを犯すという思いを共有しながら、復興作業を進めているようにみえる。