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米国の銃社会を知る

2025-06-29 09:26:25 | ブログ
 タイム誌に、筆者が高校生であった頃、銃による父親の自殺という衝撃的な出来事に遭遇した人のエッセーが載っていたので興味をもって読んだ。

 その父親は、脳腫瘍の手術を受けたが、外科医による手術の失敗のためか、外部の物が二重に見えるという視覚の異状と足の神経損傷による歩行障害という後遺症に苦しみ、前途に絶望して自殺したとみられる。彼は、銃の保持者であったが、謙虚な人のようで、筆者も父親が銃を保持していることを知らなかったという。

 米国人のおよそ3分の1は銃の保持者であると言われる。銃を保持する表向きの理由は、護身用ということになっている。しかし、2023年の統計によると、銃が係わる死亡の58%は自殺なのである。この数字は、政治的な闘争や警官の暴力、犯罪に巻き込まれたことによる銃死亡数より多い。よく報道される学校や教会など公共施設の襲撃による銃死亡者は、数としては少ないのであろう。

 銃の保持が護身用としてどの程度役立っているのか、統計がないため分からないが、役立っているとしても銃の濫用による自殺数の多さを考慮すると、社会全体としては、それは両刃の剣である。米国がかかえる病根の深刻さを物語っている。

「シュレーディンガーの猫」の解釈を見直す

2025-06-08 09:43:25 | ブログ
 芝浦工業大学の木村元先生の講演を聴講して以来、「シュレーディンガーの猫」をどう解釈するのかについて、見直したいと考えていた。シュレーディンガーの猫の話は有名であり、量子力学の一般書によく引用されているので、詳細な説明が必要であれば、そのような文献やネット情報を参照されたい。

 まず、シュレーディンガーの主張は、次の通りである。観測者が猫の入った箱を開ける前は、まだ猫の生死を知らない状態であるから、量子力学的には重ね合わせの原理により、生状態と死状態の重ね合わせ状態にあるはずである。観測者が箱を開けるという「測定」によって初めて生か死が決まる。測定という観測者の自由意志による行為が猫の生死を決めてしまうのである。観測しようとしまいと、猫は生きているか死んでいるか、どちらか一方の状態になっているはずである。これはパラドクスであるというのである。

 これは、量子力学的観測という人間の自由意志による測定行為が入るから、このパラドックスが生まれるのである。そうであれば、人間の自由意志が入るような観測をしなければよいということになる。この話は思考実験とみてよいから、実際に観測をしなくても思考だけで結論が出るはずである。

 次に、測定過程をみると、放射性同位元素の崩壊、検出器による放射線の捕捉と信号電流の発生、猫の生死、箱を開けた観測者による目視、という段階から成る観測の連鎖を構成している。ここで、検出器による放射線の捕捉までがミクロ系を成し、観測者による目視までがマクロ系を構成している。こうしてみると、ミクロ系とマクロ系は一連の測定過程として連携しており、両者を区別する必要は全くないのである。それでは、なぜ区別したくなるのだろうか。

 同位元素の崩壊は量子力学の理論に従ってランダムに生じるのであるから、ミクロ系の出力はランダムな検出結果になるのであり、マクロ系の測定もそれに合わせてランダムに行うべきなのである。しかし、マクロ系の測定は、「19世紀の常識」に従って決定論的に行おうとするのである。つまり19世紀の常識という呪縛が作用してしまい、上記のような矛盾した結論となってしまうのである。

 量子力学で起きる事象は確率的であるから、ある物理量の測定に関しては、量子力学は同じ状態にある多数の力学系に対する測定結果の重ね合わせについての統計法則を与えるに過ぎない。ひとつの力学系におけるただ一回の測定に対しては、一般には、何の予言も与えない。これは物理学者の頭にある原理原則であるが、いざ観測となると、19世紀の常識が災いして誤った結論に導いてしまうのである。この結論は、シュレーディンガーやアインシュタインを深く悩ませたものである。それからおよそ100年の歳月が経過したが、未だにこの常識を改めるには至っていない。我々はほぼ19世紀の常識に従ってマクロ系の環境の中で生活しているのであるから、当分の間、量子力学の常識が定着するのは無理であろう。

 参考文献
 並木美喜雄著「量子力学入門」(岩波新書)

テレパシーとテレポーテーション

2025-05-18 08:27:27 | ブログ
 テレビで現実に起こっているミステリアスな出来事の番組を見た。小学生と思われる少年は、太平洋戦争で特攻隊員となって戦死した20代と思われる若者の記憶を受け継ぎ、若者の婚約者であった女性の名前を始終口にしていたばかりでなく、特攻出撃の様子まで彼の記憶に刻まれたのである。彼は、その特攻隊員が誰かについて調べ回り、ついにその氏名や墓のある場所を突き止めた。その情報は研究者に渡り、彼は、研究者の質問に答えて、乗った戦闘機の型式やその操縦法を正確に言い当て、特攻隊員が書いた遺書の中で引用されていた隊員が好きだった絵画2点まで当てたのである。こうなると、彼は特攻隊員が経験した事実を記憶として受け継いでいるとみなしてよいだろう。

 特攻隊員がもっていた情報がどのようにして後の少年に伝わったのかについて科学的に説明できないため、この出来事は非科学の領域に属する。過去の情報が未来の人間に伝わったかのように思えるので因果律には反しないが、伝達手段が特定できないのであるから、情報の共有は局所的ではなく、非局所的なものということになる。ここでいう局所性とは、通信がたとえば電磁波のような物理的に存在が認められた通信手段を用いて行われ、しかも遠くの影響が瞬時には伝わらない(超光速通信はできない)という制約が課されていることを意味する。

 過去から未来に向けての非局所的な情報の伝達と言えば、科学の領域では、量子もつれによる非局所的長距離相関が挙げられる。量子もつれは、測定器を用いて相関関係にある2つの量子のうちの一方の状態を観測すると、瞬時にして他方の量子の状態が決まるというものである。ライファーとピュゼーは、観測という作用に応じて、未来もしくは過去に情報が伝達されると主張した。量子もつれは、今や量子情報の中心概念になっているようである。

 感覚器官と頭脳を備え、地球上に生存する2人の人間は、同じ時空間の場を共有しているのであるから、まだ知られていない連繋方法によって気持や考えを共有する可能性を否定できない。昔からテレパシーの名で知られる心霊現象である。しかも、この現象によって過去から未来に向けて情報が伝達されたかのように思える事例の報告も珍しいことではない。

 参考文献によれば、「量子もつれの観測に係わる装置AとBが非局所的に通信することなく連繋するためには、装置の出力がランダムに生み出されていなければならない」という結論になる。通信とは、規則性をもつ情報の伝達を目的とするものであるから、この結論は、「非局所的なランダム性は通信に利用できない」ことを意味する。

 この結論は、一方で量子もつれを利用して通信を行う量子テレポーテーションを可能とする。また他方で、「このランダム性が同時に複数の場所に現れることを原理的に妨げるものは何もない」ことになり、時代を越えてテレパシーによる人間AとBによる情報の共有を否定する理由は何もない。自然は非局所的であるから、人間AとBとの間では、偶然でありながら同じ事象が生じる可能性があるからである。言い換えれば、「真のランダム性が通信を伴わない非局所性を可能にする」ということになる。ただし、この事象は偶然に生じたものであり、再現性はないから、テレパシーが非科学から科学の領域に昇格することはないだろう。

 量子の非決定性により、その位置はランダムになるし、量子がもつ物理量の方向性もランダムになるので、量子の位置や物理量の測定方向もランダムになる。しかし、それでもなおかつ量子もつれにある2つの量子の物理量の非局所的相関関係は保存され得る。

 それでは、テレパシー現象は、自然がもつ真のランダム性に基づく現象なのだろうか。冒頭の話の少年は、後知恵として特攻隊員の個人情報や経験のわずか一部でも知る余地が全くなかったのかどうかとなると、疑わしい。仮に少年が後から特攻隊員について知る余地が全くなかったとしても、時代は異なるが同じ日本人の男性となると、彼らの性格や日本人らしい思考傾向が似ていたとしても不思議ではない。2人が地球上に住む人間と遠く離れた銀河の中の惑星に住む宇宙人であれば話は別であるが。そうであれば、少年と特攻隊員の属性は疑似的なランダム性と複雑な相関関係をもつことになり、真のランダム性に基づくテレパシー現象より起こりやすいだろう。テレパシーが妄想であったとしても、「嘘から出た誠」であったとしても、そのスタートが偶然の出来事から始まることは確かなのである。

 疑似的なランダム性と言えば、一般にサイコロを多数回振るという行為やコンピュータが出力する疑似乱数も疑似ランダム性をもつ結果しか生み出さない。一人の人間がサイコロを多数回振ると、その人間の癖が規則性をもって現れることになり、毎回の試行が数学でいう独立試行でなくなり、因果関係や相関関係に左右されることになってしまう。疑似乱数の場合も、真のランダム性をもつ計算結果を出力する計算式は知られていないのであるから、結果は疑似ランダムなものとなり、隠れた規則性が伴うことになる。

 量子もつれを測定する環境は、自然そのものを写したものとは限らないので、必ずしも真のランダム性を実現するものではない。そのため、測定環境に合わせて2つの量子の間の相関関係を配慮したランダム測定を行うとすれば、それは疑似ランダム性をもつ測定ということになる。

 参考文献では、「ボルツマン脳」と呼ぶ奇想天外なものが登場する。特定の人間が、いま現在、その人特有の思考、感情、記憶をもつということは、その人の頭の中で、このとき実現している特定の粒子配置(あるいはニューロン・ネットワークの状態)のためである。そうであれば、その人と同じ粒子配置を実現した物理実体をボルツマン脳と呼ぶのである。ボルツマン脳が出現する確率は極めて小さく、ほとんど0に近い。しかし、25.4.6のブログで示したように、川の長さと、水源から河口までの直線距離との比はほぼ円周率(パイ)に一致する。物理的な川の形態が異なっても、概念的な見方をした川の形態はほぼ一致するのである。異なる川同士が相互に通信することによって川の形態を形成したとは考えられないから、これは川が自然に身を任せるというランダムな造形をしているうちに、偶然たどり着いた同じ円周率をもつという相関関係であろう。

 参考文献
 ハルパーン著「シンクロニシティ 科学と非科学の間に」(あさ出版)
 ジザン著「量子の不可解な偶然」(共立出版)
 グリーン著「時間の終わりまで」(講談社)

「時間は存在しない」を卒業する

2025-04-27 08:43:56 | ブログ
 25年2月23日付の「時間と空間はどのように違うのか」と題するブログの中で、一般科学書も出ている「時間は存在しない」とする説について、量子もつれの事例を挙げて説明した。その後、今年刊行された参考文献を読み、量子力学全体の中で時間と空間はどのように位置付けられているのかを考えることになった。その結果、この説は誤りではないが、空間の存在はさておいて時間だけを特別視するのは正当ではないと判断した。やはり「時間は存在しない」の文言はキャッチフレーズであって、相対性理論が教える通り、原理的には時間と空間を並列して同等に扱わねばならないと考え直した。

 参考文献の中にある佐藤文隆先生にインタビューした「量子力学と私」という記事を読んで、量子力学をどのように理解すべきかについて教えられたと思う。先生は、「量子力学が情報理論の一種でもあると考えている」とのことである。たとえば、波動関数は状態を記述するベクトルで表現することもできる情報である。波動関数がベクトルであれば、物理量は、このベクトルに作用させる演算子を並べた行列とみることができる。そうすると、量子力学から波動関数と物理量を除いた残りの変数は時間と空間を指定する変数である。これらの変数は、人間が指定した情報に他ならない。先生の言葉を借りると、「たとえばxという場所にあるという情報は、情報であるから自然を写したものではなく、いつも100%とは限らない。つまり情報に関する理論は確率になる。」と言える。なるほど。波動関数という情報に物理量を作用させたものもまた情報であり、その観測値は確率によって決まる量である。時間と空間を指定する変数については、不確定性原理の制約の下では観測値は確率的に決まる。

 芝浦工業大学の木村元先生による「ウィグナーの友人に聞いてみよう!-実在が揺らぐ世界と量子技術の未来」と題する講演を聴講した。先生は、実験形而上学という分野を研究しておられる。量子もつれに関するベルの不等式の拡張版として、局所友人不等式が提唱されている。ベルの不等式は、測定の対象物の状態と、測定器や観測者などの環境状態として、「実在性」+「局所性」+「自由意志の存在」を考慮する必要がある。古典力学では、実在性と局所性は当然の常識であるが、量子力学では破られている可能性がある。また、古典物理学では問題にする必要がなかった「自由意志の存在」あるいは「認識」が情報の形で測定結果に影響することになる。局所友人不等式では、「客観性」+「局所性」+「自由意志」+「友人性」+「物理的付随性」を考慮する必要があるという。

 ここでは、これまでに知った量子力学の事例がベルの不等式あるいは局所友人不等式に照らして正当と言えるのか否かについて検討する。

 ホイーラーは、二重スリット実験に基づいた思考実験を提唱し、現在の観測者が観測すると、過去において量子崩壊が発生するという「逆因果律」が成立する可能性を説いた。逆因果律は、量子力学の理論と矛盾しないが、実証されたことはないので、実在性または客観性がないということになる。「量子力学は観測される前の物理量の値に関する議論はしない」というのが統一的な見解になっているようだ。

 スピン相関をもつ2個の粒子を左右に設けた測定器に向けて同時に発射し、左右のスピン検出子によってスピンの大きさを測定し、ベルの不等式を計算する。結果は、スピン検出子の角度をピンポイントに選んだときにベルの不等式が破れる。しかし、乱数を用いてスピン検出子の角度を決めると、ベルの不等式を満足する結果が得られる。測定条件として「選択の自由という抜け道」があり、「自由意志」の条項を満たしていないのである。偏光相関をもつ2つの粒子として光子を用いた実験でも、ベルの不等式が破れるか否かの判定を行うことができる。ただし、この抜け道を防ぐためには、光子が空中を飛んでいる間に偏光子の変数をランダムに切り替える必要があるようだ。

 「シュレーディンガーの猫」をどう解釈するかについては、常識的な見方をしていたので、見直したい。

 ベルの不等式あるいは局所友人不等式は、量子力学の実験の際に使えるがその実験は量子力学に限定されるものではなく、どのような科学的実験や社会的実験にも使えるのではなかろうか。もちろん、実際の実験だけでなく、思考実験やシミュレーションの際にも使えるであろう。木村先生は、「単体では科学となり得ない仮説が、複数を組み合わせると実験検証可能な科学となることがある!」と言われる。これらの不等式が具体的にどのような問題に使えるかについては、今後の課題としたい。

 参考文献
 現代化学 2025年1月号(東京化学同人)
 ハルパーン著「シンクロニシティ 科学と非科学の間に」(あさ出版)
 倉本義夫など著「量子力学」(朝倉書店)

川の長さと、水源から河口までの直線距離との比を探究する

2025-04-06 08:26:39 | ブログ
 25年3月14日付の朝日新聞朝刊の天声人語に、英国の地球科学者ステルムが調べたという「川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比」についての記事が載っていたので、数学的な探究をすることにした。この比がほぼ3.14、つまり円周の長さと円の直径との比(パイ)とほとんど同じというのである。

 まず、黄金比f(ファイ)と対数らせんの概念について説明する。黄金比は、線分ACをBC/AB=AB/ACになるようにB点で分割したときのAC/ABとなっている。縦の長さAB、横の長さACの長方形の横長/縦長比は、黄金比fになっている。fは2/(SQRT(5)-1)に等しい無理数であり、f=1.618034…と続く。

 黄金比の長方形の分割を繰り返してできる正方形の中に四分円を描いて、次第に小さくなっていく四分円をつなげると、対数らせんに近づいていく。



 線分の長さAB=1と置いて、らせんの長さSを求めると、各四分円の長さを加え合わせたものであるから、
   S=(PI/2)×[1+(f-1)+(f-1)^2+…+(f-1)^n+…]
の無限級数となる。PIは円周率(パイ)を示す。(f-1)^nのnを無限大にもっていくと0になるから、Sは収束する。

 らせん長Sのn=j以後の四分円長を加え合わせた部分和をS(n=>j)と書くと、川の長さはjを変数として、
   S(n=>j)=PI[(f-1)^j+(f-1)^(j+1)+…]/2
の式で表せる。

 [(f-1)^j+(f-1)^(j+1)+…]/2は、jの値に対応する水源から河口までの直線距離に相当し、S(n=>j)は、jの値に対応する川の実際の長さを表現する円周長に相当する。川の長さが長いほどjは小さくなる。

 参考文献
 ボール著「かたち 自然が創り出す美しいパターン」(早川書房)