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私がブログを書く理由

2018-05-20 06:27:11 | ブログ
 ブログを始めてから、すでに長い期間が過ぎたが、ここで私がブログを書く目的や意義について確認しておこうと考えた。

 第一の目的は、人生100年時代とも言われる世の中にあって、職業とする仕事から引退した年寄がどのような生活をしているかを、ブログを通じて公開することである。この目的は、ブログの内容が異なっているとしても、すべてのブロガーに共通する目的であると思う。

 私は、サイエンス・コミュニケーションということに格別の関心をもっている。そこで、第二の目的は、サイエンス・コミュニケーションの一環として、ブログを通じて科学や数学に関係する話題について事実を紹介したり、私が試みた計算の結果やコメントを記録に残すことである。

 ここで言うサイエンス・コミュニケーションとは、専門家の目線で話したり書かれたりする情報から離れ、一般市民の目線でみた科学情報によるコミュニケーションということである。言い換えれば、教養の範疇に入ると思われる程度のコミュニケーションということになる。

 サイエンス・コミュニケーションを目的とした文章は、ある分野の細部にこだわるのではなく、複数の分野に亘って総合的な思考が働くような説明、言い換えれば哲学的、思想的な構造が読み取れるものを理想とする。また、できるだけ日常生活との関連を示唆したり文系的な情報を引用することが望ましい。

 サイエンス・コミュニケーションに関するブログを一つだけ取り出したとき、分量にして2~5ページ程度であり、特定のテーマに絞ったものであり、かつ簡潔明瞭なものになるよう配慮したい。しかし、長い期間に亘って書き貯めたブログの全体をみたとき、一つのブログができたときそれを発展展開した別のブログを書くというようにブログ間がネットワークとして関連づけられており、ある程度体系化された全体像が見通せるものにしたい。このようなブログのネットワークこそ、専門家が書く著作や新聞の科学記事には見られない一人のブロガーによるサイエンス・コミュニケーションの特徴と考える。

 このようなブログの全体は、もちろん個人的な思想や見解の集積と言ってよいが、膨大な量の断片的な情報が集積される世の中にあって、必要不可欠なものと考える。教養とは、世の中にあふれる情報の表層だけをとらえるのではなく、個人的に思想体系を構築することであると言える。

 また、サイエンス・コミュニケーションに関するブログでは、必要と考えるときには、数学的な思考をしたり数式を挙げることに躊躇しない。ブログに数学的記述を取り入れることによって、文章に論理的な厳密さとある種の骨格が加わり、文章の幅が広がるためである。数学的記述は、英語よりも上位に位置づけられる唯一の世界標準言語と言ってよい。ただし、できるだけ高校数学程度の学力で理解できるような数学的記述とし、マニアックにならないようにしたい。

 サイエンス・コミュニケーションに関するブログは、多くのブログの中でも少数派に属すると考えられ、ビジターからのコメントがほとんどないし、またコメントを期待していない。

 このため、サイエンス・コミュニケーション活動には、自然科学カフェや自然科学ダイアログが必要と考えて、できるだけこれらの会合に参加している。自然科学カフェは、研究者の先生からテーマに関する説明があり、これに対する質疑応答が中心である。また、自然科学ダイアログは、参加者同士の対話が中心となる。

 自然科学カフェでは、自分が疑問に思っていることを質問し、自分の考えの誤りに気づくことがある。また、自然科学ダイアログでは、そのアカデミックであってかつサロン的な雰囲気に他の何物にも代えがたい満足感と喜びがある。

 自然科学カフェや自然科学ダイアログでは、自然科学に関するテーマを介して初めて出会う先生や参加者と対話するのがよい。インターネットの出会い系サイトと似ているな、と感じる。ただ、これらの会合には、単なる出会い系サイトとは異なり、「自然科学」という他には代えられない大義がある。

 自然科学カフェや自然科学ダイアログが長く続いてほしい。しかし、参加者の数が減ったり、予算やスタッフなど事務局の都合によりいつなくなるか分からない。なくなったら、また別の同カフェやダイアログを探せばよい。

 余談になるが、同窓会などの会合では、定期的に開かれているが、いつもほぼ同じ顔ぶれしか集まらず、式次第も変わらず、対話の内容も世間話が中心で、マンネリ化しているところが多いのではなかろうか。自然科学カフェや自然科学ダイアログでは、あらかじめテーマが決めてあったとしても、その場でどんな話が飛び出すか分からないという意外性が面白い。

 私のブログの第三の目的は、専門家が書いたり話したりすることをうのみにせずに、自分の頭で考えて、批判的な態度をとることである。自然科学的な対象であっても、専門家の言うことが唯一の解とは限らないし、別の視点からみたとき別の解も可能というケースもあり得るからである。

 今までいくつかのブログで専門家が書いたものについて批判的な態度をとり、別の解の可能性を表明してきたが、この機会に、私がブログで書いたことが専門家の著作には見当たらない例を一つだけ挙げておこう。

 2018年3月18日付の「生物進化は学習によって加速されるか?」と題するブログでは、ヒトは、脳の急激な進化とともに獲得した学習能力によって他の生物では見当たらない格段の能力を備えるようになったと述べた。そして、脳科学の進歩と、人工知能に関する技術の急速な進展とによって、脳が外界の事物を認知し学習するとはどういうことか、ようやく広く理解されるようになってきたことに言及した。

 参考文献は、進化論研究の第一人者が説く最新の進化論と受け取ってよいだろう(2017年1月発行)。この文献では、ヒトの脳が大きくなったことについて一章を設け、人類の進化についてもう一章設け、ヒトの脳の進化、言語の獲得、人類の進化の歴史などについて説明している。

 しかし、この参考文献では、脳科学に関する説明はある程度あるものの、「学習」というキーワードがほとんど出てこないし、「人工知能」について言及することもない。

 参考文献のキーワードを拾うと、ヒトの脳、DNA、RNA、大脳の機能領域、脳の可塑性、神経細胞、神経回路、言語の習得、バイリンガル、人類の進化の歴史、クローンなどである。「学習」という単語が一度だけ現れるが、それは、言語に関する神経回路は、言語的な刺激を受けて特定の時期(臨界期)までに集中的につくられることに関する記述の中で出てくる。発達過程において臨界期を過ぎてしまうと、言語の「学習」が成立しなくなる旨の説明があるだけである。

 参考文献は、生物学の一般的知識のほかに、ヒトの脳、言語の獲得、人類の歴史を述べているだけであり、画像認知能力や道具の使い方などヒトの一般的な「学習能力」がいかにヒトの進化を加速したかについて、ほとんど言及していないと言ってよいだろう。

 参考文献
 池田清彦著「進化論の最前線」(インターナショナル新書)