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普遍的な価値を求めて

2013-02-14 08:04:17 | ブログ

 12年10月14日づけのブログ「自然の中に人間を尋ねる」で書いたが、この広大な宇宙のどの一部分をとっても同じ物理法則が適用される。また、地球上のどの生物をとっても同じ遺伝法則が適用される。さらに、世界中のどの人間をとっても、同じ生命原理に基づいて生きていることは、明らかである。また、現代人は、人類が長い時間をかけて築き上げてきた高度な文明を継承している。そういう意味で、現存している個々の人間は、世界の人々との間で普遍的な価値とでも言うものを共有している。あるいは、個々の人間の生存そのものが、唯一無二の普遍的な価値である、と言ってもよい。普遍的な価値の全体をグローバル・ワールドと言い換えてもよい。

 それと同時に、個々の人間は、自分の身体と頭脳をもち、個人的な生活を営んでいる。個人が自分の五感や頭を通じて体験する世界をローカライズド・ワールド、略してローカル・ワールドとでも呼ぶことにしよう。我々の頭は、テレビ、新聞、雑誌、インターネットなどを通じて、あまりに多くの情報に晒されている。また、我々は、テレビ、インターネットなどを通じてあまりに多くのイリュージョンにとりまかれて生きているので、人間心理は多大な情報やイリュージョンに左右されやすく、普遍的な価値が見えにくい世の中に生きている。

 ローカル・ワールドは、主として我々の感覚、五感を楽しませたり苦しめたりする世界であり、日常生活の世界である。世俗の世界と言い換えてもよい。これに対して、普遍的な価値を追求する人々は、ローカル・ワールドに生きると同時に、自分自身の無知を心得ているとともに、普遍的な価値の何たるかをよく認識している人々である。個々の人間の生存そのものが普遍的な価値であることを忘れて、いわば我を忘れて、安易なローカル・ワールドだけに浸って終わるような一生はもったいない。

 ここで、どうしても仏教のことを持ち出さねばならない。仏教は、人間の心の悩みを救済することを目的として生まれた宗教であり、広く宇宙を支配する自然法則を探求するという目的がないから、自ずとその適用には限界があるように思ってしまう。また、仏教は、紀元前に誕生した教えであり、人類がまだ今日知られているような自然法則を手に入れていない時代の哲学思想であるから、現代に生きる人間個人のだれにでも適用するには力不足なところがあるのではないか、と思ってしまう。

 そこで、以前ブログに書いた「般若心経」の核心部分をここにもう一度再録してみる:仏教では、物質的現象、あるいは「形あるもの」、人間で言えば「からだ」のことを「色」と呼んでいる。これに対して、人間の目、耳、鼻、舌などの感覚器官および関連する脳内の神経系統を「受」、これらの神経系統が脳内に作る表象あるいはイメージを「想」、想によって脳内に芽生える意志を「行」、想のイメージによって脳内に芽生え、記憶されるものを「識」と呼んでいる。般若心経の教えるところによれば、「色、受、想、行、識」のすべてが「変化するもの」、「壊れるもの」であり、すべて「空」であるとしている。「空」とは、それ自体「自性」がないことであり、固定的実体がない、すなわち他との関係性のなかで変化しつづけるもの、としている。「空」は、固定的実体がないにもかかわらず、それが宇宙の実相であるとしている。例えば、「色即是空」は、「色」とは、実際には「空」に他ならないということである。また、「空即是色」は、宇宙の実相、すなわちあらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器官やその時空間に限定され、常に特定の「色」として現れるしかなく、ひいては、「受、想、行、識」としてとらえるしかないということである。以上をまとめると、「あらゆる現象は、単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事である」ということになる(玄侑宗久著「現代語訳 般若心経(ちくま新書)より)。(注1)

 ここでは、「空」は、「実体のないもの」あるいは「無の世界」のように解釈されており、この宇宙に実在するものを、あるいは普遍的な価値をもつものさえ、否定的にみているような印象を与える。仏教には死の影がついてまわっているというような先入観からも、人は「空」に否定的な心象をもつのかも知れない。しかし、この分野の他の専門家によれば、「空」とは、「言葉では表せないが、宇宙をつかさどるひとつの法則」のように解釈されている。そうであれ場、「空」は、宇宙の実相と言うだけであり、この宇宙を肯定するものでも否定するものでもない。

 「宇宙をつかさどるひとつの法則」とは、例えて言えば、物理学において究極の理論と言われる「超ひも理論」のようなものだろうか。超ひも理論では、宇宙に存在するすべての素粒子および複数の素粒子の間に相互作用を及ぼすすへての力が統一的に説明されるという。あるいは、生命を統一的に説明する生命原理とか、脳の神経活動に基づいて人の心の動きを統一的に説明する理論のようなものだろうか。これらの問題は、科学技術が進歩した今日においても、何か法則はあるらしいが、「言葉では表せない」法則に相当するものかも知れない。宇宙の謎として話題になっているダークマター(暗黒物質)やダークエネルギー(暗黒エネルギー)についても、またしかりであろう。宇宙には各種の法則があるが、それらが関係性によって互いにつながっていると考えられることから、「ひとつの法則」と表現できるのだろう。

 このようにみてくると、「ローカル・ワールド」と「普遍的な価値」のセットは、ほぼ、般若心経で言う「色、受、想、行、識」と「空」に相当するのではないか、考えたくなる。仏教をつくりだした人々も、今日の科学技術の進歩を知る由もなかったが、ローカル・ワールドを体験する生活を通じて、言葉では表せないが宇宙には何か普遍的とも言えるひとつの法則があることを常々感じ取っていたのであろう。

 自然科学の歴史を紐解いてみると、19世紀には、熱力学が進歩をみせ、その法則が確立されていくのであった。その中の熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)は、「般若心経」ともよく整合し、「あらゆる現象は、秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある」ことを示唆するものであった。このことは、宇宙が熱的な死に向かっていることを意味し、宇宙を悲観的あるいは否定的にみるものであった。やがて20世紀を迎え、エントロピー増大の法則は抗えないものであるにしても、自然はこれに拮抗するようなプロセスを行っていることが次第に明らかになっていく。まず、水素ガスなどの物質が重力の作用によって収縮して恒星を形成し、核融合反応によって宇宙に大量のエネルギーを放出していくプロセスが解明されていく。また、太陽から受けるエネルギーの下で、アミノ酸や核酸が集まって生命体が形成された後、生命体は、その構成成分が崩壊する前にこれを先回りして分解し、常に生命体を再構築していく代謝機能のプロセスが知られることになり、生命体がその子孫に遺伝情報を引き渡すことによって生命体が永い期間存続していくプロセスが明らかになっていく。こうして、自然は、人間にとって楽観的あるいは肯定的な存在にみえるようになった。生命活動の仕組みは、最適化されているとは言えないにしても、準最適化、つまり環境への適合の仕方が多少緩くても生存していける。(注2)

 話を普遍的な価値を求める生き方のことに戻そう。人は、ローカル・ワールドに常駐しているのだから、普遍的な価値の追求を怠っていると、両者のバランスがとれず、ローカル・ワールド一辺倒の生活になってしまう。そうすると、仏教が教えるように、余計な悩みや煩悩を抱え込むことになるのではなかろうか。普遍的な価値を求める生き方とは、例えば、教養を身につけるとともにさらにそのレベルを高め、知を楽しむような生活がある。しかし、敢えて教養を追わず、言葉や思想を追わず、世のため人のために働くことによってこの価値の追求をプラクティスとして実践している人々は多い。まさに、「言葉では表現しないが、普遍的な価値を意識しながら、行動として実行している」人々は立派である。もちろん、仏教を信仰し、般若心経などのお経を唱えるような生活もありである。

 それにしても、人が好奇心のおもむくままに普遍的な価値を追求していると、脳内にドーパミンが分泌され、人は恍惚とした状態に落ち入っていく。脳内にドーパミンが生じるような神経活動の状態は、他の快楽でも得られるものであり、ローカル・ワールドに属するものである。つまり、普遍的な価値がローカル・ワールドに還元されていき、普遍的な価値が実体のないもの、あるいは「空」となっていくのではなかろうか。まさに、般若心経で言う「空即是色」、すなわち、「空」が「色」として現れ、ひいては「受、想、行、識」としてとらえられる状態ではなかろうか。

 「空」の解釈については、専門家の解釈を参考にするにしても、各自、自分で納得のいく解釈でよいと思う。しかし、仏教の教えることを生活に生かすとすれば、「空」の意味するところを解釈することではなく、心の悩みや煩悩を抑制しながら、五感ではとらえられないが普遍的な価値をもつ対象を追求する生活をすることだと思う。

 (注1)筆者の私見による注釈を加えるならば、「色即是空」の一番卑近な例は、「お金」ではなかろうか。お金は、その金額が刻印された紙などの物体だから確かに「色」であるが、その価値はそれ自身にあるのではなく、取引に関わる人間の価値観によって左右されるのであるから、実体のない「空」と言ってよい。また、日本銀行のような中央銀行がその気になりさえすれば、いくらでも貨幣を増産できる点からみても、「空」とみてよいのでは?

 ここで、「色即是空」の他の例を思いついた。アインシュタインの一般相対性理論のエッセンスである重力場方程式は、重力の源になる質量、つまり物体、が時空の曲がりの程度を示す数値に等しいことを示している。これは、まさに「色即是空」を表しているのではないだろうか。ただし、「空」と言っても、何もない「無」というわけではなく、そこには秩序あるいは法則が存在するのである。「色即是空」が方程式を示しているのであるならば、「空即是色」は自明のことである。

 「般若心経」の解説書では、「空」の実例を挙げるようなことをしていない。例を挙げるとミスリードするおそれがあるので、敢えて挙げないのであろう。また、仏教の専門家が言う「言葉は妄想である」という説明を受け入れるならば、妄想をもって妄想を語るということは、どうどう巡りで終わってしまうおそれがあるわけだ。言葉をもって言葉の説明をするとは、元々そういう自己矛盾を抱えているということか。

 (注2)もし生命体が厳しく最適化されなければ存続できないのであれば、地球上にこれほど多種多様な生物が共存することはなかったろう。そして、種が多様化したおかげで、地球環境が悪くなったときも、いずれかの種が生き残ることができたのである。