5/13(火) 13 ℃おはようございます。
久しぶりの雨。恵みの雨になりましたでしょうか?
今、佐伯区図書館湯来河野閲覧室では江戸時代、広島藩主浅野家の絵師であった岡眠山に着目した企画展を計画しておられます。
江戸時代、広島藩士で絵師としても活躍した岡山(おかみんざん)と言う絵師(画家)、ご存知ですか?
藩のお抱え絵師として7代広島藩主浅野重晟に仕えた岡眠山は、寛政9年(1797年)8月23日から30日までの8日間で、広島城から山県郡豊平町都志見(現北広島町)の駒ヶ滝を描く旅に出ました。
この時、岡眠山は64歳。
40枚の風景画とその地に伝わる謂れ等をこと細かく詳細に記されており、今も地域に伝わる謂れの裏付けになっています。
40枚の内、15枚が湯来を通過する際に書かれたもので、私が特に感心するのは僅か8日間の間に「広島-都志見(何十Km有るんだろう?)」間を歩いていること。しかも、道中といえどもコースから外れた場所もきちんと収録されている。 今の時代、車で移動しながらデジカメでパチリなんてすれば湯来町内の書かれたポイントを2時間もあれば見て回れますが、当時は徒歩だったことを考えると描き写す時間といい、調査する時間といい、“すごいな~”と感心するばかり。ましてや、地域に伝わる立ち寄り先の謂れの聞き取りまでこなすなんて凄いとしか言いようがありません。
私の地域にある「鍋石の甌穴」も描き記してあるんですが、都志見往来日記を知らない先々代のお爺さんから同じ内容の話を言い聞かせられていて、伝承と史実が一致したことに感動したことを思い出しました。
岡眠山が8日間かけて歩き描いた全40景を、現在の風景と比較しながら、いつかこのコースを走破したいと思ってるんですが・・・。
可能であれば「絵師岡眠山の記した都志見往来日記コースを巡る旅8日間」なる歩いて回るイベント企画を誰かやってみる猛者は居ませんかね?8日間が無理ならせめて湯来町内コース(15景だけでも)だけでも・・・・。
大森神社 → 白井の滝→鍋石の甌穴→湯の山温泉→多羅多羅の滝→石ヶ谷峡→多田村温泉
※湯の山温泉の当時の繁栄ぶりも描かれていて、37軒もの仮宿が有ったことも記されてます。
日記に書かれている「鍋石」についてピックアップしてみます。
場所は、「鍋石バス停」から徒歩1分のところ。
都志見往来日記には
「左の方、谷川の向こうに明神杉一株あり、盤根、石をからみて枝垂れ流れを覆う。この辺谷川の底すべて一面の大石なり。杉の木の下、流れのそこにくぼき所二つあり、これを釜石、鍋石という。わたり三尺ばかり、深さもそれに応ず」
とあります。
岡眠山が描いた、その明神杉は現在ありませんが、お祖父さんから聞いた話では地元の○○のお爺さんが杉の大木を切り倒したと言ってました。
その証拠に、岩盤の割れ目に木の根があったのを水遊びしていた私が知ってますし、頼まれて採った根をお宮の床下に保管してたこともありました。(まだ生きていらっしゃるので名前を言えないんですが、ある人がこの根を相談なく持ち帰ってしまい、今はありません。)
ただ、いまでも岩の間にその根は残っているかも知れませんので、今年の夏の水遊びのできる時に見つけてみる予定です。
なぜこの地に杉の大木があったのか、地域に伝わる伝承ではかつて宮島の鳥居の部材として使われたこともある大森神社の社厳の一部がここまで続いていたとか。このことについては記述がないため確認できませんが、想像するとワクワクしてしまいます。今度、湯来町史ででも調べてみることにします。現場で木片発見か、書類確認かできましたらお知らせします。お楽しみに。
それから、川底にある窪みが鍋石と釜石。 今、大きく窪みの見える甌穴は何百年も前から川の水の流れでえぐられてできたもので、昭和50年代の道路改良工事中に発見されました。
穴の中にあった石が護岸階段の一部になっています。この地も雨乞い信仰の場所だったとの言い伝えがあり、日記には
「旱魃(かんばつ)の時この釜を洗う。その洗う人はみの笠をかぶり、大雨じゃ、やれうれさ、やれうるさ、というて雨乞いをすれば雨降るといえり」
「山の根に厳島明神の小社あり、その後ろより細泉湧く。社の左右に分かれて流れ落ちる。これを眼洗水といいて眼を痛める人この水にて洗えばたちまち平癒すという。この水の至る清泉、鏡のごとし青黒き石の間を伝うて流れる。しかるにこの水の流るる跡、色赤くしてあざやかなること朱のごとし、奇とすべし」
と書かれています。
私は雨乞い信仰の儀式を見たことも聞いたこともありませんが、鍋石明神社の鳥居は水の効能で平癒したことに感謝したお侍さんが寄贈され、御本尊は安芸の宮島から勧謂し祀られています。だから毎年、宮島の管弦祭と同じ日にここでもお祭りがされているんです。
(ここの管弦祭ではこども花火がメインで、舟は使いませんけどね。)
鳥居に掛けてある木造の額縁は当時のものです。現在あるお宮は一段高い場所に移されたものですが、昔はお宮の裏から流れ出ていたということですから、今の滾々と湧き出ている水の湧出口にあったと思われます。
岡眠山が歩いた、湯来のコース
白井の滝→湯の山温泉→たらたらの滝 名 号岩→比丘の瀬滝→多田温泉
※岡山の絵は、広島市立中央図書館に所蔵されています。
正式日記の名称は『都志見往来日記・同諸勝図』
間もなく、湯来図書館湯来河野閲覧室にて山展が開催されますのでお楽しみに~。
久しぶりの雨。恵みの雨になりましたでしょうか?
今、佐伯区図書館湯来河野閲覧室では江戸時代、広島藩主浅野家の絵師であった岡眠山に着目した企画展を計画しておられます。
江戸時代、広島藩士で絵師としても活躍した岡山(おかみんざん)と言う絵師(画家)、ご存知ですか?
藩のお抱え絵師として7代広島藩主浅野重晟に仕えた岡眠山は、寛政9年(1797年)8月23日から30日までの8日間で、広島城から山県郡豊平町都志見(現北広島町)の駒ヶ滝を描く旅に出ました。
この時、岡眠山は64歳。
40枚の風景画とその地に伝わる謂れ等をこと細かく詳細に記されており、今も地域に伝わる謂れの裏付けになっています。
40枚の内、15枚が湯来を通過する際に書かれたもので、私が特に感心するのは僅か8日間の間に「広島-都志見(何十Km有るんだろう?)」間を歩いていること。しかも、道中といえどもコースから外れた場所もきちんと収録されている。 今の時代、車で移動しながらデジカメでパチリなんてすれば湯来町内の書かれたポイントを2時間もあれば見て回れますが、当時は徒歩だったことを考えると描き写す時間といい、調査する時間といい、“すごいな~”と感心するばかり。ましてや、地域に伝わる立ち寄り先の謂れの聞き取りまでこなすなんて凄いとしか言いようがありません。
私の地域にある「鍋石の甌穴」も描き記してあるんですが、都志見往来日記を知らない先々代のお爺さんから同じ内容の話を言い聞かせられていて、伝承と史実が一致したことに感動したことを思い出しました。
岡眠山が8日間かけて歩き描いた全40景を、現在の風景と比較しながら、いつかこのコースを走破したいと思ってるんですが・・・。
可能であれば「絵師岡眠山の記した都志見往来日記コースを巡る旅8日間」なる歩いて回るイベント企画を誰かやってみる猛者は居ませんかね?8日間が無理ならせめて湯来町内コース(15景だけでも)だけでも・・・・。
大森神社 → 白井の滝→鍋石の甌穴→湯の山温泉→多羅多羅の滝→石ヶ谷峡→多田村温泉
※湯の山温泉の当時の繁栄ぶりも描かれていて、37軒もの仮宿が有ったことも記されてます。
日記に書かれている「鍋石」についてピックアップしてみます。
場所は、「鍋石バス停」から徒歩1分のところ。
都志見往来日記には
「左の方、谷川の向こうに明神杉一株あり、盤根、石をからみて枝垂れ流れを覆う。この辺谷川の底すべて一面の大石なり。杉の木の下、流れのそこにくぼき所二つあり、これを釜石、鍋石という。わたり三尺ばかり、深さもそれに応ず」
とあります。
岡眠山が描いた、その明神杉は現在ありませんが、お祖父さんから聞いた話では地元の○○のお爺さんが杉の大木を切り倒したと言ってました。
その証拠に、岩盤の割れ目に木の根があったのを水遊びしていた私が知ってますし、頼まれて採った根をお宮の床下に保管してたこともありました。(まだ生きていらっしゃるので名前を言えないんですが、ある人がこの根を相談なく持ち帰ってしまい、今はありません。)
ただ、いまでも岩の間にその根は残っているかも知れませんので、今年の夏の水遊びのできる時に見つけてみる予定です。
なぜこの地に杉の大木があったのか、地域に伝わる伝承ではかつて宮島の鳥居の部材として使われたこともある大森神社の社厳の一部がここまで続いていたとか。このことについては記述がないため確認できませんが、想像するとワクワクしてしまいます。今度、湯来町史ででも調べてみることにします。現場で木片発見か、書類確認かできましたらお知らせします。お楽しみに。
それから、川底にある窪みが鍋石と釜石。 今、大きく窪みの見える甌穴は何百年も前から川の水の流れでえぐられてできたもので、昭和50年代の道路改良工事中に発見されました。
穴の中にあった石が護岸階段の一部になっています。この地も雨乞い信仰の場所だったとの言い伝えがあり、日記には
「旱魃(かんばつ)の時この釜を洗う。その洗う人はみの笠をかぶり、大雨じゃ、やれうれさ、やれうるさ、というて雨乞いをすれば雨降るといえり」
「山の根に厳島明神の小社あり、その後ろより細泉湧く。社の左右に分かれて流れ落ちる。これを眼洗水といいて眼を痛める人この水にて洗えばたちまち平癒すという。この水の至る清泉、鏡のごとし青黒き石の間を伝うて流れる。しかるにこの水の流るる跡、色赤くしてあざやかなること朱のごとし、奇とすべし」
と書かれています。
私は雨乞い信仰の儀式を見たことも聞いたこともありませんが、鍋石明神社の鳥居は水の効能で平癒したことに感謝したお侍さんが寄贈され、御本尊は安芸の宮島から勧謂し祀られています。だから毎年、宮島の管弦祭と同じ日にここでもお祭りがされているんです。
(ここの管弦祭ではこども花火がメインで、舟は使いませんけどね。)
鳥居に掛けてある木造の額縁は当時のものです。現在あるお宮は一段高い場所に移されたものですが、昔はお宮の裏から流れ出ていたということですから、今の滾々と湧き出ている水の湧出口にあったと思われます。
岡眠山が歩いた、湯来のコース
白井の滝→湯の山温泉→たらたらの滝 名 号岩→比丘の瀬滝→多田温泉
※岡山の絵は、広島市立中央図書館に所蔵されています。
正式日記の名称は『都志見往来日記・同諸勝図』
間もなく、湯来図書館湯来河野閲覧室にて山展が開催されますのでお楽しみに~。
正しくは、岡岷山でした。
訂正してお詫びいたします。
次の日は大森神社から白井の滝に上がって鍋石によって、湯来中学校の東、消防署あたりで水内川を渡って宿泊先の湯の山温泉の岩田屋に着いて、ここでおそらく昼食をとってから、たらたらの滝を見に行っています。
その次の日、湯来温泉から打尾谷を通って筒賀に抜けています。
河内から小伏原までは駕籠を使ったことが記述でわかりますが、おそらく徒歩ではなく駕籠でしょう。
これを歩くイベント、企画したら面白そうです。
歩く時間は、正味2日でしょうか?