おことわり:後年記事に誤りを発見。訂補しました
朝のNHKテレビ「生活ホットモーニング」で山口県長門市の青海島が採り上げられ、
淡い想い出が蘇りました。
私が生まれて初めて全てプランニングした一人旅(4泊5日)のとき、立ち寄ったところです。
それは昭和41年、高校2年の夏休み。
列車時刻表と首っ引き、学割(当時は2割引)手配、宿(全てユースホステル)の予約などをして、
親父に「こういう日程で」と差し出すと、ポンと1万円出してくれました。当時は大金!
ちなみに昭和39年の時刻表によると、当時の姫路~博多の国鉄普通運賃は1,550円。
学校にナイショでバイトする(旅費を稼ぐため)なんてできない「まじめな高校生」だった私は、
親父に感謝しつつ、嬉しさと不安を胸にいざ出発。
修学旅行や親と一緒の旅行とは違う、自己責任という言葉と初めて向き合った旅…
尾道(尾道友愛山荘)・秋吉台(秋吉台Y.H)・下関(火の山Y.H)・福岡(背振友愛山荘)
の各ユースホステルに泊まりました。
数年前広島の帰りに尾道に寄ったら、ずいぶん前にユースホステルは閉鎖された、と聞き
「昭和は遠くなりにけり」
青海島は3日目、秋芳洞・秋吉台のあと美祢線で長門へ出て遊覧船に乗りました。
日本海の、荒々しい海にそびえる奇岩をおぼろげに憶えています。
写真(モノクロ)は古いアルバムに貼ってありますが、手元にありません。
翌日は関門国道トンネルを歩いて!渡り九州へ、へんぴな場所にあったユースへたどりついたときは、
初体験の毎日にかなり疲労困憊(笑)
私を入れて同宿は3人だけ、ほとんど貸切状態だったのが嬉しかったけど。
最後は博多発10時ごろの481系電車特急「つばめ」をフンパツ、立っている(自由席)と
前の席オジサンが「徳山で降りるから座れ」って言ってくれ、やれやれ。
最速のつばめでさえ博多~姫路間が7時間半…
今の「のぞみ」なら東京どころか東北まで行っちゃう。
親父から「自分で考え、自分で決めた行動には責任を持て」と教わったことは、
私の中にしっかり受け継がれています。
子ども達にも伝わっているかどうか、には?がつきますが…
朝のNHKテレビ「生活ホットモーニング」で山口県長門市の青海島が採り上げられ、
淡い想い出が蘇りました。
私が生まれて初めて全てプランニングした一人旅(4泊5日)のとき、立ち寄ったところです。
それは昭和41年、高校2年の夏休み。
列車時刻表と首っ引き、学割(当時は2割引)手配、宿(全てユースホステル)の予約などをして、
親父に「こういう日程で」と差し出すと、ポンと1万円出してくれました。当時は大金!
ちなみに
学校にナイショでバイトする(旅費を稼ぐため)なんてできない「まじめな高校生」だった私は、
親父に感謝しつつ、嬉しさと不安を胸にいざ出発。
修学旅行や親と一緒の旅行とは違う、自己責任という言葉と初めて向き合った旅…
尾道(尾道友愛山荘)・秋吉台(秋吉台Y.H)・下関(火の山Y.H)・福岡(背振友愛山荘)
の各ユースホステルに泊まりました。
数年前広島の帰りに尾道に寄ったら、ずいぶん前にユースホステルは閉鎖された、と聞き
「昭和は遠くなりにけり」
青海島は3日目、秋芳洞・秋吉台のあと美祢線で長門へ出て遊覧船に乗りました。
日本海の、荒々しい海にそびえる奇岩をおぼろげに憶えています。
写真(モノクロ)は古いアルバムに貼ってありますが、手元にありません。
翌日は関門国道トンネルを歩いて!渡り九州へ、へんぴな場所にあったユースへたどりついたときは、
初体験の毎日にかなり疲労困憊(笑)
私を入れて同宿は3人だけ、ほとんど貸切状態だったのが嬉しかったけど。
最後は博多発10時ごろの481系電車特急「つばめ」をフンパツ、立っている(自由席)と
前の席オジサンが「徳山で降りるから座れ」って言ってくれ、やれやれ。
最速のつばめでさえ博多~姫路間が7時間半…
今の「のぞみ」なら東京どころか東北まで行っちゃう。
親父から「自分で考え、自分で決めた行動には責任を持て」と教わったことは、
私の中にしっかり受け継がれています。
子ども達にも伝わっているかどうか、には?がつきますが…
旅番組はもちろん、テレビのニュースなどで出た地方が「昔行ったことがある」というのと
「それどこ?」というのでは見方が変わります。
一度でも足を踏み入れた土地というのは、何か親近感が湧くものです。
それも自分で「気ままに訪れた土地」ならなおさらですね。
そこへいくと、団体旅行は余計なところへ連れて行かれるわ、時間の制約はあるわで
未だに(いくら安くても)行きたいとは思いません(笑)
『震災関連』
震災後、「震災関連」というカテゴリを組み、いくつか記事をUPしました。
独断と偏見があるやもしれませんがご一読を…。
ただはっきり言えるのは、この震災をきっかけに
「この国を(あらゆる面で)もっといい国にしていかないと…」
という意識の高まりが、特に政治の面であまり見えてこないのが気がかりです。
責任のなすり合いや足の引っ張り合いを繰り返しているようにさえ見えます。
災害時の対応、原発事故を検証し、「よい方向に」向かって動き出さないと
今回の震災の25000人になんなんとする犠牲者に申し訳が立ちません。
kenさんの経験されたお話、お考えも折に触れお聞かせ下さい。
今後ともよろしくお願いいたします。
学生時代は普段アルバイトしながら通学、長期休みの時は一人旅にでていました。バイクで行ったり、国鉄の周遊券、ヒッチハイクなどしながらの貧乏旅行です。もちろんユースホステルの事前予約は無し、当日電話で予約したり飛込みだったりきままな旅でした。今は当時のような若さもないし同じような旅はできないでしょうが、できればまた訪れた場所にいずれは行ってみようかと考えています。
明日から仕事です。この連休中は家で借りてきたビデオを見たりのんびりと過ごしました。来春一番下の息子の就職を見届け今の仕事から引退する予定です。
話は変わりますが今回の地震、私の住む埼玉では揺れは物凄いものでしたが特に被害もありませんでしたが、何もかも無くなってしまったのに被災地の方々の力強さを見て私の方が勇気、元気付けられました。また不運にもお亡くなりになりました方のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。ただ原発の問題だけは早く何とかならいないものでしょうかね。これだけは一国民ではどうすることもでませんね。
明日から仕事で少し忙しくなりますが、時間のあるときにでも好き勝手な事を投稿させてください
ご覧の通り好き勝手なことを書き連ねていますが、ぜひこれからもお付き合いの程を。
私が最後にユースホステルに泊まったのは、昭和46年(神戸時代)だったでしょうか…
6月の終わりごろ、信州へ一人旅をしたときの「駒ヶ根Y.H」でした。
(4泊5日、うち2泊は夜行列車)
仕事を終えてから夜行で駒ヶ根に着き、木曽駒・千畳敷ヘ行って麓のホステルへ。
確か電話で予約、同宿者が意外と少なかった記憶があります。
(現在も営業、夕食なし、個室も利用可能とか)
kenさん同様、私もこの旅のとき淡い想い出があります。
駒ヶ根の翌日、霧が峰へ出て車山で東京の女性二人連れと知り合いました。
同い年くらい、私は一人だったのであまり警戒されなかったのかな?(笑)
彼女たちも当日の宿を予約してなくて、結局白樺湖まで歩き同じ宿に飛び込みで。
あくる日も夕方まで同一行動、小諸・懐古園と小海線の車窓風景を楽しみ、
小淵沢で西と東に別れました。
写真を送ったので、何通か文通しましたがいつの間にか途絶え…
交通公社の時刻表一冊で「机上旅行」ができた、遠い遠い昔の想い出です。
パソコンとインターネットでリアルな旅先情報が入手できる現在の便利さもいいけれど、
どんな景色が広がっているのだろうか?、と想像を膨らませていたあの頃…
「もう一度戻れない」だけに貴重な体験なのかも。
またこんな昔話で盛り上がりましょう(笑)
JYHのホームページを覗いてみましたが私が以前宿泊したユースも大分無くなっていました。宿泊料金も当たり前の話ですが随分と高くなっていますね。当時はそこでのホステラー同士の出会いとか単なる宿泊だけが目的のものでは無かったと思っています。現に私もたくさんの出会いと別れがありました。その中でも彼女が出来ましたが何せ神戸と埼玉の遠距離恋愛、当時はもちろんネットもないし手紙か高い電話料金のみの通信手段、何度か会ったりはしましたがいつのまにか途切れてしまいました。
今ではユースの宿泊ははどのようになっているのでしょうかね。まさか当時のようにホステラーに食後の皿洗いとか、掃除をさせているのでしょうかね。まあ最近は若者がユースを使って旅していると言う話はあまり聞いたことがありません。
讃岐の団塊オヤジさん、本当に健康こそ最高の財産ですね。私もどうにかここまで好き勝手な人生を送ってきましたが健康であればこそでした。お金がなくても健康ならどうにかなりますが、逆にお金があっても病床の身では何も出来ません。もちろん両方あればそれにこした事はありませんが・・・・、バイクでのメール便の配達、立派なお仕事だと思います。また収入をとるか自由な時間をとるかはそれぞれその人自信の考え価値観ではないかと思いますが、私も来春以降は収入よりも仕事に拘束されない自由と言うもの手に入れたいつもりでいます。
連休明け(6日金曜)から仕事(医療関係です)が待っていますがそれまで少しのんびりしながらもう少しの間自分の仕事を頑張ってみます。
讃岐の団塊オヤジさんお付き合いありがとうございした。ご迷惑でなければ時々投稿させて下さい。
私は、昭和24年生まれ、団塊世代で一番人数が多いトシです(笑)
転職経験あり・子どもが3人(全員独身ですが)というのは共通ですね。
私は海外旅行の経験はありませんが、日本全国踏破はなんとか達成。
とはいえ、ただ「通過しただけ」というのに等しいところもあるので、
もう一度やり直したい、というのが念願です。
50歳過ぎてリストラされ、ブログタイトル通りの貧乏暮らしに転落。
マトモな再就職先がなく、困っていたところ運良く現在の仕事※を得ました。
※バイクでメール便の配達
収入よりも「時間に拘束されない」という、私にうってつけ、という人もいます(笑)。
数年前、弱ってきた母親を引き取り、「介護」という仕事も増えましたが、
まぁなんとかこなせています。
kenさん同様、中年以降大きな病気や事故にあわず元気にこれたことに感謝!ですね。
カネがなくても生きられるが、元気じゃないと何もできない、ってよく思います。
お互い健康に気を付けて、残りの人生を楽しみましょう。
私の歳は昭和30年生まれ今年の10月で56歳になります。高校2年生の夏から一人旅を始めて大学生、社会人(公務員)になってからも20代前半くらいまでその名残りで休暇を取ってはあちこち行っていました。海外(韓国、インド、ヨーロッパ、北米等)にも何度か行ったりして、その後結婚そして転職等もして現在子供3人、長女には私の孫が今年の2月に出来ました。一番下の息子は学生で来春卒業予定ですのでどうにか3人の子供を育てあげることが出来そうです。まあどうにかここまで人生無事過ごせたことに感謝し来春には仕事も引退してアルバイトしたり、旅に出たりしながらしばらくは過ごそうと考えています。
こんな投稿のお相手をしてくださりありがとうございます。
埼玉県 Ken
時々入る「エロコメント」はソッコーで削除してますが(笑)
kenさんは私より10歳くらいお若いのでしょうか?
「実家に…」とは、連休で帰られたのでしょうか?
もう閉鎖されましたが、以前のブログ友の方が、昔の思い出の品を見つけたとき
「過去との邂逅」と、うまく表現されてましたっけ。
その通り、10代・20代のころの「記念品」は、何にも代えがたい宝物。
女房・子どもにゃ分かるまい、なんてね(笑)
>またあの頃のような旅でも…
できますよ~、って言うか、やりたいと思う気持ちが大事だと考えてます。
もちろん、駅で寝るとか、夜行列車に乗るなんてことは、もはや物理的に無理ですが、
マイカーにテントや自炊道具を積み込んで、行き当たりバッタリ、とかね。
それぞれが自分の価値観で「知らない土地へのあこがれ」を具現化していく…。
それが「旅の効用」であり、「老け込まない」秘訣のような気がしています。
ユースの会員証が実家にあったのでスタンプを確認、青海島ユースホステルには昭和50年1月4日と50年4月4,5日と連泊していますね。その他、私が若かりし頃全国を一人旅した記録が会員証の宿泊スタンプを見て当時のことを懐かしく思いだされます。また会員証の写真の若い事、まだ十代の高校生の時の写真が貼ってあります。
またあの頃のような旅でもしてみたいですね。
前のお二方同様、検索で見つけられたのでしょうか?
しかも↑の「JAZZさん」は同じ昭和50年ごろ、ユースでヘルパーをされていたそうなので、
ひょっとするとお会いになっているかもしれませんね。
ユースのペアレントさん、半分ボランティアで経営されている方が多い、と
昔聞いたことがあります。(=利用者の波動が大きい)
35年以上前ですから、ご存命でも結構お年でしょうから…
またお訪ねください。
留辺蘂(るべしべ)なんて、懐かしい地名ですね。
一度だけ「通った」ことがありますよ。↓
http://blog.goo.ne.jp/himekou43-e/e/aac562f1408bc3dc6225abcae6076f62
この旅のとき、層雲峡をからくも脱出(笑)、北見へ向かった石北本線の途中ですね。
遠軽のスイッチバックを経由、そういえば「留辺蘂」という難読駅があったなぁ、と。
留辺蕊のユースのヘルパーさん、青梅島との関係は分かりませんが、
当時、アルバイトでユースのヘルパーをして残りの旅費の足しに、
という大学生の話を聞いたことがあります。
ひょっとすると、そういうのかもしれませんね(笑)
ホステラーなら要領は分かってるし、寝るところと食事の心配はないし。
本文で書いたとおり、青梅島はもう45年前。
近くへは何度か行きましたが、未だ再訪を遂げることはできていません。
古い記事にコメント戴き、ありがとうございました。
またお訪ねください。
当時旅行といえば宿泊はユースでした。
初めての北海道旅行で台風に直撃され、留辺蘂という町のユースで身動きが取れなくなり、何もない町なのに2連泊。あとで知ったのですがヘルパーさんが青海島っ子だったそうです。
お一人は不幸にもその翌年亡くなられたとか・・とても親切にしてくださった方なので
覚えています。4年ほど前に家族で青海島を訪れましたが、もうユースはありませんでしたが懐かしかったですよ・・青春時代がよみがえったようで。
ずいぶん前の記事にコメントをいただき、恐縮です。
当時、ユースホステルには公営と民営があり、青梅島のは
民営だったのではないか?、と記憶しています。
最終的に「九州に渡る」という計画だったので、山口県にもう一泊、
ということは考えなかった記憶があります。
ユースは「一泊二食つき」で7~800円だったと思います。
上げ膳据え膳でない(ユースのような)宿泊施設が、若い人にとっては、
その後の人生にとって有益な体験の場だと思うのですが…。
食事や寝場所の支度や後片付けを「自分でする」ということが
「自立心」を育てる第一歩だと思いますがね。
年寄りの愚痴になってしまいました(笑)
またお訪ねください。
僕の青春はこの島で始まりました。
大学3年の時は夏休み中このユースにお世話になりました。
決して色あせる事のない、この時
今このユースがなくなり、僕の気持ちを空高く消えてしまいました。
この時に大事な時間を共有出来た青春に乾杯
少し悲しい今日この頃です
家内にはボロクソに言いますが、私には「とうさん、○○ってどういうこと?」という調子で、まぁ一目置いてくれてるんでしょう。
初期のブログに書いていますが、私の親父は60歳で死んでしまいました。
親父のトシに近づくにつれ、時々「もし生きてたら、どんな話をしてるだろう。聞きたいこと、教えてもらいこともいっぱいあるのになぁ…」と思います。
まぁ小言くらって、「まだまだだな」って言われるのがオチでしょうが…
修学旅行中の息子から「カニ」が冷凍便で届きました。週末は久しぶりのゴチソウじゃーっ!
昔は自分達で計画立ててユースホステルに泊まって、貧しいけれども今の贅沢旅行と違った楽しみがありましたね。
昨日の息子さんのところを覗かせていただきましたが、こんないいお父さんだったらいい息子さんなのは当たり前で、また、こんなお父さんじゃなくては息子さんを育てられないと思いました。