犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「3・11」 その2

2014-03-13 00:04:17 | 時間・生死・人生

(その1からの続きです。)

 「3・11」を巡る主張の中で、私が特に違和感を有しているのが、「福島の子ども達を放射能から守れ」というフレーズです。福島を初めとして多くの子ども達の命が失われ、この日から時間が動かない現状を前に、自責の念、祈り、切なさといった繊細な部分が踏み潰されるような気がするからです。

 震災関連死は福島県が最も多く、避難指示区域の住民の関連死が県内の8割を超え、さらにその8割以上が70歳以上の高齢者です。帰還の見通しが立たない絶望感や、環境の変化による疲労感は、それまで積み上げてきた長い人生の軌跡を正面から否定し、人生の意義を奪うものと思います。

 ところが、「3・11」は人類史上最悪の放射能汚染の日であるという視点からは、「福島のお年寄り」は切り捨てられ、「福島の子ども」ばかりが叫ばれているというのが私の印象です。個人の心の奥底の悲しみや絶望などは、極めて内向的であり、政治的主張との相性が悪いことの表れだと思います。

 穿った見方をすれば、福島原発事故が地震と津波によらない単独事故であったならば、脱原発の世論の盛り上がりは比較にならなかったと思います。私は少なくとも、原発の議論の中身ではなく、論点自体の設定として、「3・11」を脱原発の政治的主張の日だとする思想は支持したくありません。

「3・11」 その1

2014-03-12 23:46:03 | 時間・生死・人生

3月11日 NEWSポストセブン
「ビートたけしが震災直後に語った『悲しみの本質と被害の重み』」より

 常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。だから、日本中が重苦しい雰囲気になってしまうのも仕方がないよな。その地震の揺れの大きさと被害も相まって、日本の多くの人たちが現在進行形で身の危険を感じているわけでね。その悲しみと恐怖の「実感」が全国を覆っているんだからさ。


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 「3・11」という象徴的な文字列には、2種類の意味が託されていると感じます。その1つは「悲しみと鎮魂、追悼の日」であり、もう1つは「歴史的事故の反省、脱原発活動の象徴の日」です。これらは本来、理屈として相反するものではなく、実際に両立して語られてきているとも思います。

 しかしながら、前者からは「がれきは思い出の詰まった被災財」であり、後者からは「がれきは放射能で汚染された忌むべきもの」であり、相互理解の不能が顕在化していることもまた事実だと思います。ここでは、同じ「3・11」という象徴の奪い合いが生じているとの印象を受けます。

 私は仕事上、「3・11」は原発ゼロを目指す日であり、再稼動反対アピールの日であるという環境の中におります。しかしながら、私は上記のビートたけしさんの意見、「1人が死んだ事件が2万件あった」という指摘が深く腑に落ちる者ですので、率直に言えば、この環境の居心地はあまり良くありません。

 脱原発活動の空気の中では、地震や津波そのものはあくまで天災にすぎず、人災である原発事故よりも一段低く置かれます。人間が危機感を持つべき最重要課題は、人類史上最悪の放射能汚染の話に決まっているではないかということです。天災ほうの話は、最後は諦めがつくはずだという結論です。

(続きます。)

大川小遺族が宮城県と石巻市を提訴

2014-03-10 23:05:21 | 時間・生死・人生

 3月10日、石巻市立大川小学校の児童の家族が仙台地方裁判所に提起せざるを得なかった裁判は、東日本大震災という出来事そのものだと思います。この誠実な論理こそが、あの日の大震災というものなのだと、改めて慄然とさせられます。この論点の中心を射抜く現実の直視に比すれば、「絆」「前進」「未来」「笑顔」などは明らかな論点ずらしであり、現実逃避の論理であると感じます。また、「復興」ですらも、震災そのものを正視する論理ではないと思います。

 周囲からどんなに「過去は変えられない」「未来は変えられる」と言われたところで、人の人生の形式というものは、「どうしてもこの問題に向き合って苦しまなければ人生が成立しない」という論理であらざるを得ないと思います。片が付かないかも知れないことを前提として、そのことに抗い続けなければ心の区切りをつけられるか否かすらもわからず、そのわからないことに集中しなければ前に進めるか進めないかもわからない、このような限界的な論理です。

 裁判を起こすより他に方法がなくなったという震災そのもの論点の前には、「未来」「前進」など生温い気休めですし、何をすっきり終わらせようと急かしているのか、論点ずらし以上のものではないと感じます。また、終わらせたいのではなく始まってしまった人生の形式にとっては、「復興が進む」「笑顔が戻る」という価値の押し付けは暴力的だと思います。誰に何を言われようが、他人ではなく自分の人生であり、世間的価値で誤魔化せる話ではないからです。

 このような訴訟に対しては、「不満の矛先をどこかにぶつけたいのはわかるが、学校を悪者にするのは筋違いである」との意見を多く耳にします。これは、当事者ではない人間の感想として自然でしょうし、私も心のどこかでそう思っています。この心情は、筋が通らない気持ち悪さから逃れたい無意識だと思いますが、なぜ天災によって人間同士が争うのか、それが紛れもない現実であり、この裁判こそが震災そのものであると、自戒を込めて確認したいと思います。

三重県朝日町 強盗殺人事件 その2

2014-03-09 22:24:27 | 国家・政治・刑罰

3月8日 時事通信ニュースより

 三重県朝日町で中学3年の女子生徒(当時15)が殺害された事件で、強盗殺人などの容疑で逮捕された少年(18)が調べに対し、殺意については否認していることが8日、捜査関係者への取材で分かった。少年は「金目当てだった」と事件への関与は認めており、県警四日市北署捜査本部は女子生徒が死亡した状況などを詳しく調べる。

 捜査本部によると、少年は取り調べに素直に応じているが、反省の言葉は口にしていないという。捜査本部は、家族や友人らの証言などから、事件当日の少年の行動について確認を行っている。


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(「その1」からの続きです。)

 この報道番組のコメンテーターの意見の中で、私が特に違和感を覚えたのが、15歳の子どもが命を奪われた事件の文脈において、「子どもは国の宝である」という絶対的正義が提示されたことでした。両親にとって宝である我が子の命が奪われ、そして何よりも本人にとって宝である自分の命が奪われたという場面で、なぜ「国の宝」という話が出てくるのかということです。私は、進歩派の死生観の残酷さに心が痛くなるとともに、全体主義的なイデオロギーへの恐怖感を覚えました。

 もちろん、少年法の精神に代表される人権論は、全体主義とは正反対の地位にあるはずだと思います。ゆえに、国家権力を監視して縛りをかけるという思想が、個人の集まりにすぎない国家を実体化させ、別の全体主義を生んでいるというのが私の実感です。ここの部分は、国内の個人間の議論では加害者が善=弱者であるのに対し、国家間の議論では加害者が悪=強者である(自国の加害の歴史を直視し続けなければならない)という思想のつながりにも表れていると思います。

 「罪を犯した未成年者は弱者である」「自分は弱者の味方である」という簡単な論理で話が済ませられるのであれば、「人権」を論じることは楽な作業だと思います。同じように、「法制度は被害者の復讐心を満足させるものではない」「被害者には心のケアこそが求められる」との論理で綺麗に話を終わらせ、被害者側の苦悩に共感する国民の無理解を嘆き、これ改めようとすることが正義の実現であるというならば、やはり「人権」を論じることは非常に楽な作業だとの感を持ちます。

 私は個人的に、「人権」という概念を語る資格がある者は、その人権の正論が耳に入ってしまったときに苦しむ人への想像力を失わない者だけだと思っています。正義の人権論を叫ぶ者は頭がスッキリし、夜も気持ちよく寝られるでしょうが、その言葉が耳に入ってしまったことによって心の中がグチャグチャになり、精神をズタズタにされ、胸が張り裂ける思いで夜も寝られずに泣き続けることになる者が必ず存在し、そして、この現実は容易に世の中の表には出てこないと思うからです。

三重県朝日町 強盗殺人事件 その1

2014-03-08 23:27:04 | 国家・政治・刑罰

3月3日 スポーツ報知ニュースより

 三重県朝日町で昨年8月、同県四日市市の中学3年の女子生徒、寺輪博美さん(当時15歳)が殺害、遺棄された事件で、県警四日市北署捜査本部は2日、強盗殺人の疑いで、遺棄現場近くに住む県立高校3年の男子生徒(18)を逮捕した。夏休み中の中学生が殺害された凶悪事件は、発生から半年余りで捜査が急展開した。

 逮捕されたのは、高校の卒業式を終えたばかりの18歳だった。四日市北署捜査本部は男子生徒が1日に高校を卒業するのを待って、事情聴取。自宅を家宅捜索し容疑の裏付けを進め、男子生徒を逮捕した。逮捕容疑は昨年8月25日ごろ、朝日町の県道脇にある空き地で女子生徒を殺害し、現金約6000円を強奪するなどした疑い。

 女子生徒の家族は2日、自宅前に「私たち家族は、今回の思いがけない出来事で大変心を痛めています。犯人の行為は決して許すことができず厳罰を望んでいますが、今は捜査の状況を静かに見守りたいと思います」などと記された貼り紙を掲示した。


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 この事件を論じる報道番組で、あるコメンテーターが少年法の精神を理路整然と力説しているところを見ました。「子どもは国の宝であり、少年法はこのような精神に基づいて定められている以上、厳罰ではなく教育による更生が必要である」というものです。私は仕事柄、進歩派の法律家が「無知な大衆の厳罰感情」に苛立ちを見せる場面に連日のように接していますが、このコメンテーターの言葉も私の心に響くことはなく、逆に胸が苦しくなる感覚を生じました。

 私がこのような言明に全く心を揺さぶられないのは、目の前の個別の現実や個々の人生が直視されておらず、人間に対する温かい視線が感じられないからです。そして、どのような事件を前にしてもドライに徹し、原理原則や理念を理路整然と語ることが「人権」であるとは思えないからです。また、識者が語る少年法の歴史や沿革からは、人が実際に肌で感じる繊細な感覚が押し潰され、識者の脳内にある人権論が唯一の正解とされるような強制力を感じます。

 私は以前、ある未解決の殺人事件の家族の話を聞き、激しい衝撃を受けたことがあります。これは、「一刻も早く犯人が逮捕されることだけが希望であるが、犯人が未成年であったときのことを考えると希望は絶望になる」といった内容でした。この悲痛な屈折した論理を生み出しているのは、紛れもなく人為的な法制度の側です。そして、法制度を運営する者の多くはこの言葉を聞いても愕然としないだろうという想像が、また私の心を愕然とさせました。

 自分の娘の命をこのような事件で突然奪われた者が、その事件に関して「少年の更生・未来・社会復帰」という正論を耳にしたときにどのような気持ちになるのか、そこに目を配れるかどうかは、「人権」を論じる者にとって非常に重要なところだと思います。人権が万人に対する普遍性を持つ概念である以上、正論の絶対性に胸をかきむしられる者に思いを馳せて、人の心をもって本気で苦しむことができなければ、その正義は本来の「人権」ではないと思います。

(続きます。)

千葉県柏市 連続通り魔事件 その2

2014-03-06 00:11:51 | 国家・政治・刑罰

(「その1」からの続きです。)

 私は、刑事裁判の職務を通じて社会に揉まれてきましたが、身柄や令状の職務過誤は人権問題に直結するものであり、「社会は甘くない」「社会は厳しい」という攻撃の形には精神をボロボロにされました。このような勤務環境で、私が目の前の凶悪犯人から「社会に不満があった」という言葉を聞かされたときに直観的に感じていたのは、紛れもない羨ましさでした。公務員にあるまじき心構えだと言われても、実際に過去の私が確かに有していた心情ですので、これは否定することができません。

 社会への不満があって社会に復讐しようとするなら、「もう社会から消えたい」「こんな社会に生きていたくない」という結論に至るのが筋だと思います。ところが、私が何十回と聞かされてきた論理は、社会の無理解と偏見を責めつつ、社会の風の冷たさを改める必要性とともに、ヌケヌケと社会復帰への希望が語られるというものでした。最初と最後では「社会」の意味が変わっており、しかも本人がそれに気付いておらず、私は論理の流れがあまりに安易に過ぎるという印象を持っていました。

 社会人として社会性を身につけ、社会に合わせて生きることの厳しさを痛いほど知っている者であれば、「社会への不満」なるものの動機を掘り下げる価値のないことは見抜いているものと思います。人が真に社会との対立関係に絶望している場合、人は他者への殺意など抱けないからです。単に、「自我の肥大」の表現を誤っているということです。そして、哲学的な罪と罰の問題においては、被疑者の動機の掘り下げよりも、被害者や家族の意思のほうが遥かに重要であると私は確信します。

 恐らく、亡くなった被害者も社会への不満を有しつつ、良い社会と良い人生を願っていたものと思います。社会への不満をどうして特定の個人が受け止めなければならなかったのか、権力も持たない一個人がなぜ社会であるとみなされたのか、取り返しのつかない不条理は掘っても掘っても深く、この過程の直視を抜きにして償いはあり得ないと思います。そして、この沈黙と絶句の深さに比べれば、存在しない社会を実体と勘違いした動機の言葉からは、掘っても何も出てこないと思います。

千葉県柏市 連続通り魔事件 その1

2014-03-05 23:32:19 | 国家・政治・刑罰

3月6日 毎日新聞ニュースより

 千葉県柏市の連続通り魔事件で、強盗殺人容疑で逮捕された自称無職、竹井聖寿容疑者(24)が県警柏署捜査本部の調べに対し、「バスジャックをして空港に乗り付け、ハイジャックした飛行機で東京スカイツリーに突っ込み、社会に復讐しようと考えた」と供述していることが分かった。捜査本部は、金銭目的だけでなく、社会への不満を募らせて事件に及んだ可能性があるとみて追及する。

 捜査本部によると、竹井容疑者は生計の手段について「親からの仕送りや生活保護」と説明。事件の動機について「金がほしかった」などと話す一方で「社会に復讐したかった」との趣旨の供述をたびたびしているという。事件は3日深夜、同じ市道の約50メートルの範囲で発生。約10分の間に竹井容疑者と同じマンションに住む会社員の池間博也さん(31)が刺殺され、通りかかった男性3人が刃物で脅されて負傷したり、財布や車を奪われたりした。


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 現代の閉塞感漂うストレス社会、格差社会、競争社会、無縁社会において、多くの社会問題は山積みのままです。恐らく、今の社会に何も不満がないという現代人は皆無に等しいと思います。私も、今の社会はあまりに病んでいると感じており、社会に対する不満は強いほうだと思います。また、社会保障制度や社会保険制度が政治課題として語られるとき、社会に不満を持つことは正義であり、「今の社会に対して不満がないわけがない」というステレオタイプの文脈の力は非常に強いと感じます。

 それだけに、凶悪犯罪の動機として「社会への不満」というステレオタイプの文法が言語化され、これに社会常識からのステレオタイプの評価が与えられれば、社会性を有している社会人は、凶悪犯人の論理にひれ伏してしまうことになります。私は、この固定観念に基づく文法に自然に乗せられてしまう瞬間を、非常に気持ち悪いと感じる者です。私は、刑事裁判の現場でこのような言葉を聞かされる職務に従事し、歯痒さで鬱屈し続けてきただけに、この動機の追及は無意味であると確信します。

 私は初めて社会に出たのは、裁判所という狭い社会であり、一種の村社会のような場所でしたが、私はここで社会の厳しさを知り、社会人の責任というものを身につけました。そして、何とか社会に適応しつつ、社会人をやってきました。「社会」という言葉は抽象名詞であり、目で見たり手で触れたりすることはできず、一種の幻想であることは常識でわかります。しかしながら、言語は現に抽象概念を実体化させるものであり、私は確かに社会生活を営み、実社会の中で社会勉強をしてきました。

 この「社会」という厄介な抽象名詞は、人間に対して「社会を変える」という妄想を有することを可能にもすれば、「社会の壁」「社会の厳しさ」という圧倒的な力によって人間の精神を病ませることも可能です。そして、この概念は、現に多くの人間を自死に追い込んでいるものと思います。「こんなことは社会で通用しない」という独特の言い回しは、個人と社会の同一性と対立関係をめぐる複雑な思考の混乱を引き起こすものであり、この精神の疲弊は容易に自死の絶望に直結するからです。

(続きます。)

名古屋・暴走無差別殺人未遂事件

2014-03-01 22:22:09 | 国家・政治・刑罰

2月24日 朝日新聞デジタルニュースより

 2月23日午後2時15分ごろ、名古屋市中村区名駅1丁目のJR名古屋駅近くの歩道に乗用車が突っ込み、通行人を次々とはねた。同市中川区の男性(22)が腰の骨が折れる重傷、ほかに12人が足などにけがをした。車を運転していた男は「わざと人をはねた。殺すつもりだった。誰でもよかった」と供述しているといい、愛知県警は、男を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕した。

 逮捕されたのは、同市西区栄生3丁目、無職大野木亮太容疑者(30)。県警によると、大野木容疑者は交差点を左折する際、そのまま歩道に乗り上げ、通行人をはねながら35メートルほど進み、歩道の街路樹に衝突して止まったという。目撃者の話では、時速30~40キロで走っていたという。はねられたのは10~40代の男性7人、女性6人だった。


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 人間が狂気の側から襲われた瞬間には、獣のような絶叫とともに目の前の物を手当たり次第投げつけたり、床に頭や全身を打ちつけてのた打ち回るなど、前後左右が不覚になる切迫感と悲壮感を伴うはずだと思います。ところが、この容疑者の行動を見ると、計画的にレンタカーを借りて、ハンドルやアクセルの機能を正しく認識して当初の目的を遂行しており、私はここから本物の狂気を感じ取ることができません。単に、冷静な自暴自棄であるとの感を持ちます。

 報道で伝えられる客観的な事実は、実際にその場で起きた出来事のごく一部にすぎませんし、ましてや容疑者の供述は容疑者の心の中ではありません。「動機を知りたい」という評論家目線の分析は、否応なしに論者の政治的な主義主張に結び付けられるのみだと思います。他方で、犯罪者目線からの分析は、本人しか絶対にわからない一線のスイッチを語ることになるため、やはり他人には理解不能です。ここを他人が深く追究したところで、何も出て来ないと思います。

 当の加害者にとっては内側の大宇宙の問題であっても、これは文学の言語でのみ語り得るものであり、社会制度である法律や裁判の場の言語としては不適格です。そして、加害者と被害者が存在して初めて成立する犯罪において、罪と罰の本質を正しく表すのは、被害者の言葉以外にあり得ません。現在の裁判では、被告人が主張や陳述をする機会は被害者の十数倍は与えられていますが、私は現場の経験者として、この時間は逆でなければならないと思っています。

 「たかがこの程度のことで大事件を起こしたのか」という印象の生起についても、現在の裁判システムによる効果は大きいと感じます。精神鑑定により責任能力を問題にすることは、検察と闘って刑の減免を勝ち取ることであり、戦略的なしたたかさや腹黒さの要素が混入することになります。これは内省的な姿勢とは対極的な位置にあり、ひとたびこの構造に入ってしまうと、二度と元には戻りません。従って、迫真性を欠く言葉ばかりが残ってしまうのだと思います。