犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三重県朝日町 強盗殺人事件 その1

2014-03-08 23:27:04 | 国家・政治・刑罰

3月3日 スポーツ報知ニュースより

 三重県朝日町で昨年8月、同県四日市市の中学3年の女子生徒、寺輪博美さん(当時15歳)が殺害、遺棄された事件で、県警四日市北署捜査本部は2日、強盗殺人の疑いで、遺棄現場近くに住む県立高校3年の男子生徒(18)を逮捕した。夏休み中の中学生が殺害された凶悪事件は、発生から半年余りで捜査が急展開した。

 逮捕されたのは、高校の卒業式を終えたばかりの18歳だった。四日市北署捜査本部は男子生徒が1日に高校を卒業するのを待って、事情聴取。自宅を家宅捜索し容疑の裏付けを進め、男子生徒を逮捕した。逮捕容疑は昨年8月25日ごろ、朝日町の県道脇にある空き地で女子生徒を殺害し、現金約6000円を強奪するなどした疑い。

 女子生徒の家族は2日、自宅前に「私たち家族は、今回の思いがけない出来事で大変心を痛めています。犯人の行為は決して許すことができず厳罰を望んでいますが、今は捜査の状況を静かに見守りたいと思います」などと記された貼り紙を掲示した。


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 この事件を論じる報道番組で、あるコメンテーターが少年法の精神を理路整然と力説しているところを見ました。「子どもは国の宝であり、少年法はこのような精神に基づいて定められている以上、厳罰ではなく教育による更生が必要である」というものです。私は仕事柄、進歩派の法律家が「無知な大衆の厳罰感情」に苛立ちを見せる場面に連日のように接していますが、このコメンテーターの言葉も私の心に響くことはなく、逆に胸が苦しくなる感覚を生じました。

 私がこのような言明に全く心を揺さぶられないのは、目の前の個別の現実や個々の人生が直視されておらず、人間に対する温かい視線が感じられないからです。そして、どのような事件を前にしてもドライに徹し、原理原則や理念を理路整然と語ることが「人権」であるとは思えないからです。また、識者が語る少年法の歴史や沿革からは、人が実際に肌で感じる繊細な感覚が押し潰され、識者の脳内にある人権論が唯一の正解とされるような強制力を感じます。

 私は以前、ある未解決の殺人事件の家族の話を聞き、激しい衝撃を受けたことがあります。これは、「一刻も早く犯人が逮捕されることだけが希望であるが、犯人が未成年であったときのことを考えると希望は絶望になる」といった内容でした。この悲痛な屈折した論理を生み出しているのは、紛れもなく人為的な法制度の側です。そして、法制度を運営する者の多くはこの言葉を聞いても愕然としないだろうという想像が、また私の心を愕然とさせました。

 自分の娘の命をこのような事件で突然奪われた者が、その事件に関して「少年の更生・未来・社会復帰」という正論を耳にしたときにどのような気持ちになるのか、そこに目を配れるかどうかは、「人権」を論じる者にとって非常に重要なところだと思います。人権が万人に対する普遍性を持つ概念である以上、正論の絶対性に胸をかきむしられる者に思いを馳せて、人の心をもって本気で苦しむことができなければ、その正義は本来の「人権」ではないと思います。

(続きます。)