犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災の保育所の裁判について その7

2014-03-30 22:20:26 | 国家・政治・刑罰

 死を無駄にしないために「何か」をしなければならないとき、確かに金銭の請求は確かにこれに含まれます。但し、これは時間を元に戻すことができず、原状回復がどうしてもできない苦悩に自ら直面して、その末の最終手段としてせめて金銭で償うという共通の理解と絶望が大前提です。「いくら札束を積まれても納得できない」という論理は、逆の入口から入って来てしまった者に対して、正しい入口を指し示す真実であろうと思います。

 現に人が食べて寝て生活するためには、交換価値である貨幣が必要であり、「お金が欲しくない」と言う論理は資本主義では嘘になります。そして、「人の生死に比べればお金などに価値はない」という抽象的な真実と向き合い続けつつ、日々の具体的な現実の中を生き続けることは、生身の人間の精神にとってあまりに苦しすぎ、事実上不可能と思います。かような状況であっても、お金に価値を認めていたほうが確かに楽であると思います。

 「お金など欲しくない」という大原則を前提としつつ多額の賠償金を請求するという内心の矛盾は、本来は個人の内心のこじれの話であり、これは双方の話し合いがこじれるという場面に先立つものと思います。ところが、具体的に「安い見舞金で片をつける」「1円も払わない」という金銭の話は、不満に秩序をもたらし、外部から解釈しやすい形を生じさせます。「双方の話し合いがこじれる」というのは、この部分の観察に過ぎません。

(続きます。)