犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三重県朝日町 強盗殺人事件 その2

2014-03-09 22:24:27 | 国家・政治・刑罰

3月8日 時事通信ニュースより

 三重県朝日町で中学3年の女子生徒(当時15)が殺害された事件で、強盗殺人などの容疑で逮捕された少年(18)が調べに対し、殺意については否認していることが8日、捜査関係者への取材で分かった。少年は「金目当てだった」と事件への関与は認めており、県警四日市北署捜査本部は女子生徒が死亡した状況などを詳しく調べる。

 捜査本部によると、少年は取り調べに素直に応じているが、反省の言葉は口にしていないという。捜査本部は、家族や友人らの証言などから、事件当日の少年の行動について確認を行っている。


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(「その1」からの続きです。)

 この報道番組のコメンテーターの意見の中で、私が特に違和感を覚えたのが、15歳の子どもが命を奪われた事件の文脈において、「子どもは国の宝である」という絶対的正義が提示されたことでした。両親にとって宝である我が子の命が奪われ、そして何よりも本人にとって宝である自分の命が奪われたという場面で、なぜ「国の宝」という話が出てくるのかということです。私は、進歩派の死生観の残酷さに心が痛くなるとともに、全体主義的なイデオロギーへの恐怖感を覚えました。

 もちろん、少年法の精神に代表される人権論は、全体主義とは正反対の地位にあるはずだと思います。ゆえに、国家権力を監視して縛りをかけるという思想が、個人の集まりにすぎない国家を実体化させ、別の全体主義を生んでいるというのが私の実感です。ここの部分は、国内の個人間の議論では加害者が善=弱者であるのに対し、国家間の議論では加害者が悪=強者である(自国の加害の歴史を直視し続けなければならない)という思想のつながりにも表れていると思います。

 「罪を犯した未成年者は弱者である」「自分は弱者の味方である」という簡単な論理で話が済ませられるのであれば、「人権」を論じることは楽な作業だと思います。同じように、「法制度は被害者の復讐心を満足させるものではない」「被害者には心のケアこそが求められる」との論理で綺麗に話を終わらせ、被害者側の苦悩に共感する国民の無理解を嘆き、これ改めようとすることが正義の実現であるというならば、やはり「人権」を論じることは非常に楽な作業だとの感を持ちます。

 私は個人的に、「人権」という概念を語る資格がある者は、その人権の正論が耳に入ってしまったときに苦しむ人への想像力を失わない者だけだと思っています。正義の人権論を叫ぶ者は頭がスッキリし、夜も気持ちよく寝られるでしょうが、その言葉が耳に入ってしまったことによって心の中がグチャグチャになり、精神をズタズタにされ、胸が張り裂ける思いで夜も寝られずに泣き続けることになる者が必ず存在し、そして、この現実は容易に世の中の表には出てこないと思うからです。

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